2022年11月15日火曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅4③

勝海舟が咸臨丸で渡米した際、最高指揮官は、年下ながら筋目の旗本で長崎目付(=海軍伝習所の所長)となった芥舟(かいしゅう)木村図書(後に摂津守)であった。それまでの伝習所・所長は、自ら生徒として海軍を学んだり(永井尚志)、蘭癖家で新しい科学技術に理解があったり(岡部長常)したのだが、芥舟は実務は知らない。勝は不愉快だったらしい。芥舟は温厚で何も言わなかったが、従者が吠え続けた。この従者が福沢諭吉である。奥医師経由で臨時の従者になることを快諾してもらい、芥舟の飲食から衣服に至るまでの世話をした。この乗船から後年にいたるまで、芥舟は福沢を先生と呼んでいた。人の才を敬する人物であったらしい。維新後は、世を捨てた。福沢は、「痩我慢の説」として、芥舟の倫理観を称え、新政府に優遇され爵位まで得た勝や榎本を批判している。勝と福沢は仲が悪かったが、このような裏話があるそうである。

坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのは、見廻組であるというのが定説である。見廻組は旗本の次男三男という幕臣の組織で、一節には400人いたとされているが、危機意識が低く、新選組などと比べると粗漏の集団であったようだ。その中心者・佐々木唯三郎は幕府から命令を受けた際は腕利きを集めて少人数で行動したようだ。見回組の仕事とされるのは、清河八郎暗殺がまずある。佐々木はかなり卑怯な手を使っている。清河を招待しかなり泥酔させたうえで、路上で挨拶を交わし、編笠を取ろうとした。武士の礼儀として清河も編笠を取らざるをえない。そこを背後から襲わせたのである。龍馬暗殺に関しては、誤情報が原因とされているらしい。龍馬が5000人ほどの志士を集め入洛するという情報があった。実際は、3000人ほどの志士を北海道に送り開拓させようではないかという話だったらしい。とんだ誤解で龍馬は暗殺されたことになる。

蛤御門の変の時、会津藩と薩摩藩が長州を撃退するのだが、当時の京都には薩摩藩の大物はいなかったらしい。久光や大久保、小松帯刀らは薩摩にあった。西郷は流謫中である。どうやら薩摩からの指令で、高崎佐太郎という人物が、会津の秋月悌次郎と接触したようだ。この秋月は、身分は低いが昌平黌の出身で各藩に知己が多いので取り立てられたという人物。ただし温厚でおよそ藩外交には向いていない人であったらしい。彼は高崎を松平容保に繋ぐ。薩摩藩は常に高崎一人で立ち回った。司馬遼は後で藩の方針が変われば高崎に腹を切らせて済ませばいいと考えていたのではないか、また本人もそれを覚悟で薩会同盟を結んだと記している。

この秋月は、後に新政府から官職を得るが、自分だけ官を得るに忍びないと辞する。その後、熊本の第五高等学校で漢文を教授した。ある日、秋月は教壇に立って、本を開けずよほど時間がたってから、「実は昨夜、文久3年以来30余年ぶりの友人が訪ねてきて終夜痛飲してしまった。」と丁寧に一礼して教室を出ていったという。下調べができていないので授業を勘弁して欲しいということである。この友人とは、高岡佐太郎(当時は正風と名乗り、宮内庁の顕官)である。会津人にも薩会同盟のことは黙していたはずで唯一当事者同士だけ故に懐かしく語り合えたのであろう。秋月は、実に人が良い。五高で同僚だった小泉八雲は、近づくだけで暖かくなる暖炉のような人とひどく崇敬していたという。司馬遼は、こういう人物が幕末の会津藩の外交官であったことを思うと、新選組を使う以外は、ほとんど権略的な外交をせず、時勢の中で居すくんだようでもあった会津の京都守護職というものの性格の一部が分かるような気がするとしている。

…全く同感である。秋月悌次郎の人格は素晴らしい。サムライである。

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