2022年11月16日水曜日

司馬遼の歴史の中の邂逅6②

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幕末維新に活躍した藩は、倒幕・佐幕共通して文教熱心であった。旗本八万騎の子弟は全く及ばないらしい。それらの中で、肥前藩は飛び抜けている。弘道館という大藩校があり、小学過程から大学課程まであった。藩士の子弟は、6,7歳で強制入学させたれる。7歳でその過程が終わる。それを終えればいよいよ本格的な課程に入る。25、6歳でやっと卒業である。問題は、それぞれの課程で学業が成就できていない者は先祖代々の家禄の8割を没収されるという激しいもので、当然、藩の役職にもつけなくなる。死ねというのに等しい。

弘道館の学派は朱子学であるが、幕末には洋学コースが加えられた。蘭学寮といい、オランダ語、兵学、兵器知識、航海術、築城術、医学を学ぶ。自然、漢学コースと洋学コースの書生の気風はくっきり区別される。世界観が違うのである。副島種臣は漢学コースの教官あがりだが藩命により長崎で英語を学んだ。大隈重信は洋学コースである。この洋学コースでは長崎で西洋文物を研究し、造船の面では小さい軍艦、洋式大砲や小銃を国産で作るだけの能力を持つに至った。

従順に生まれついた秀才ならいいが、出来ぬ者や覇気に富んだ青年にとってはたまらぬに違いない。大隈重信は、この藩の教育を、同一の模型に入れるもの、「葉隠」などは、実に奇怪な書物で武士は一死をもって藩のために尽くせとあり、藩より貴く重いものはない、釈迦も孔子も楠木正成も武田信玄も、鍋島家に奉公していないのだから尊敬するに足らずと書かれてある。早稲田の建学の精神はこの藩教育を反面教師にしているのではないかと司馬遼は言う。(笑)

とは言え、肥前(佐賀)藩は、孤立主義を取り藩士が志士気取りで奔走することを禁止したが、鳥羽・伏見の戦いの後、新政府は肥前藩の洋式兵器に頼らざるを得なくなった。乞われて仲間に入ったのである。新政府の有能な官僚にこの藩の人間が多いのは、あのクレイジーな教育のおかげということになるのだろう。

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