2022年1月31日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー43

https://nishiharu-jsk.hatenablog.com/entry/china3
と(西)について、今日は研鑽しようと思う。夏という古代王朝も知られているが、現状では殷が最古の王朝と言うことになる。この辺は考古学の世界であるし、後期(前1300年から滅亡まで)の殷墟(大邑商)から出土した甲骨文字では、「」、後の周は先代の王朝名として「殷」を用いていた。

伝説上の殷の始祖は契とされている。玄鳥(ツバメ)の卵を食べて生まれたという。女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を生むというのは、北アジアの狩猟民族の始祖伝説であり、殷人が北方の狩猟民出身であることは間違いなく、モンゴル高原から南下し河南の夏を征服したようである。…中国を漢人の国という概念を最初からぶち壊すような話である。

史記で殷とくれば、最後の暴君・紂王と妲己で、酒池肉林の故事成語で有名。それ以外にも、甲骨文字の解読から、殷は氏族共同体の連合体で、仮説だが殷の王室は10の王族からなり、「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4氏族の間で、定期的に王を交代し、それ以外の「戌」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から臨時の中継ぎの王を出したり王妃を娶っていたと推測されている。…徳川御三家と御三卿のようなシステムで、面白い。

殷の社会はと呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は神界と人間界を行き来できるシャーマンであるとされ、後期には大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展し、殷王は自らの地位は強固になったが、戦争捕虜を生贄にささげる慣習が周辺諸氏の恨みを買い滅亡したという説もある。

殷の軍事は、普段は農耕を行う氏族の構成員が氏族の貴族の指揮のもとで武器を取り出征した。大量の戦車(チャリオット)を使う三師戦法(左・右・中に分け連携する)が使われた。

周も、西方遊牧民出身であることは明白で、武王の時、周公旦・太公望・召公奭(しょうこうせき)ら名臣の補佐のもと、服属していた紂王を前1046年に牧野の戦いで破り周王朝を創始した。武王の死後も名臣たちが成王・康王らを支え天下泰平、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。(成康の治)…このあたりが、儒教において(西)周が理想的な時代とされるわけだ。

教科書で周の学習で重視されるのは、封建制。周は一族や功臣や各地の土着の首長に封土(領地)を与え、諸侯として、代々その地を領有させた。(けい:大夫の中で大臣となる者)・大夫(たいふ:周王の直轄地では周王に、諸侯ではそれぞれの諸侯によって封建された小領主の貴族階級)・(し:大夫の一族中の男子や厳重農民の集団の長などからなる戦士で兵団を構成した)という身分も制定された。同時に氏族のまとまりが重視され、宗法(そうほう)がつくられていく。宗族は同じ苗字を持つ集団で、現代中国でも夫婦別姓が守られている。この中国の封建制とヨーロッパの封建制は、かなり相違がある。ヨーロッパの封建制はフューダリズムと呼ばれ、君臣関係は形式的で、君主に対して年貢を払う必要もなく、君主は領地に口出しできない。(不輸不入権:インムニテート)臣下は君主に対し軍役を担うが、双務的なものである。これらの関係が血縁とは無関係に取り交わされるのが、ヨーロッパの『封建制』なのである。

ところで、第10代の王の時、悪政に大反乱が起きて辺境に逃げ出した。王が不在の間、周定公(しゅうていこう:周公旦の後継者)と召穆公(しょうぼくこう:召公奭の後継者)の2人の大臣が、合議制で「共に和して」政治を行った。この故事が、英語のrepublicの和訳:共和制となった。

さすがの周も、前770年、犬戎(けんじゅう)の侵入で、首都の鎬京が陥落し、洛邑(後の洛陽)に遷都される。これ以前から後継者争いで東西に分かれて対立、これ以後は東周となり、春秋戦国時代となる。

2022年1月30日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー42

以前から手に入れようと思っていた「新版 関関同立 入試対策用世界史問題集」を入手した。関西の受験生の多くは、国公立を目指す共通テストと関関同立や産近甲龍を受ける場合が多い。先日、R大に行っているPBTの留学生・J君から、私がお世話になる学校のOBが友人ですよとメールがあった。嬉しいことに、彼は母校を非常に誇りに思っているらしい。国立大(外国語学部)には残念ながら届かず、R大の経済学部にいるとのこと。

国公立1本槍の生徒もいるだろうが、最大公約数は、この組み合わせになるので、私もその準備をしなければならない。問題集をパラパラめくっていると、大学によって記号か記述かの差はあるものの、かなりの人名・地名・語彙・年号が出題されている。この辺の精選が重要で、次に一問一答の問題集も手に入れようと思っている。

世界史や日本史の受験勉強は、まずは流れをつかむことが重要で、その後ノートづくり。インプットしてはアウトプットして間違った箇所をフォローすることが必要。何度も何度も教科書や参考書、問題集をやることが重要。どの参考書や問題集がいいのかは各自の感覚である。4月まで時間があるようで、ない。こういう暗中模索は少し苦しくもあり楽しくもある。

ところで、中国史の研鑽がストップしている。先日エントリーした東洋史の問題が引っ掛かっていているのだが、そろそろ再開していこう。

2022年1月28日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー41

https://www.chuo-u.ac.jp/academics/faculties/letters/major/asia_history/
「世界史の見取り図(上)」の東アジアの章・古代中国編に面白いコラムが載っていた。
この参考書には「これだけはわすれてはならないこと」というのが章ごとに書かれているのだが、この章にはない。それは、著者が引用している「世界史の読み方」(西川正雄/1977平凡社)の一文にヒントがある『日本史・東洋史・西洋史なる区分が生きながらえている大きな条件は、大学の歴史学科が多くの場合そのように三つに分かれていることにある。その原型が帝国大学にあることは言うをまたぬ。そこには国史と王朝交代史観による中国史にすぎない東洋史と片思いの西洋史があった。ー』

中国史をつまらないと感じる生徒が多い理由がここにある、と著者は述べている。王朝ごとに、皇帝ごとに「あれをやった・これをやった」と覚えておけば試験で点が取れる。そうやって覚えさせれば良しという東洋史の在り方が、大学入試の中国史学習に純化されているという主張だ。世界史と外国の歴史は違うと著者は考えている。世界史からの要請としての中国史を教えることが来るだろうか?という問いかけで、コラムは終わっている。

前述したが、私は昔々、受験ではない中国史を講じた経験あるが、史記や三国志をもとに様々な逸話を挿入した。史実かどうかはともかく、魅力あふれる話が多い。中国の故事の元になっている内容も多くて、教養としては必要な気がする。ところが、教科書は歴史学的に正しい方向で編集されている。世界史は内容が膨大で、効率的に暗記する必要がある。

受験にいらん話(すなわち試験と無関係な話)は、いらんのだろうか?うーん。世界史の面白さを伝えたい私としては、これをなんとか止揚していこうと今、考えている。

2022年1月26日水曜日

ブルキナファソでクーデター

https://koredake.news/category/aljazeera/165442/
WEBのニュースで、ブルキナファソでクーデターが起こったとの報道を見た。軍部が、現政権のテロ対策への不満を爆発させた形だ、北部のマリやニジェールではイスラム系の過激組織が活発に活動しており、かなりの被害がでているのだが、軍の人員増などの要望に政府は無策だったようで、国民も不満を抱いていたようだ。憲法停止、議会の解散などの強権を発動し、国連はこれを非難しているとのこと。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ab307d1b5d664a27668689bbfbd4ecc99bdc6e67

https://news.yahoo.co.jp/articles/ebb33e8a89428d75455bebbd878d910874162777

…ブルキナファソは、イスラム教徒も多いが、キリスト教徒も多い。国内においては特に対立している様子もなく、墓地は両宗教の共同墓地で、驚いた経験がある。イスラム教過激派の台頭は、大きな脅威である。治安維持にあたる軍としては、方法はどうあれ、私には愛国心の発露であるような気がする。中央アフリカやナイジェリアのような、両宗教の対立構造になれば、大変である。

…私をサヘルまで連れて行ってくれたガイドのオマーンや運転手さんはどうしているだろう。(彼らは朝の礼拝もしない、あまり熱心ではないムスリムだ。)

…ブルキナファソには、特に有力な産業はまだ育っていない。軍人は、それなりのエリートであり国民の信頼も厚い。しかも、ブルキナファソにも「デモクレイジー」な側面もあって、政府組織への批判もある。(私がJICAを通じて対話させてもらった、日本への留学経験もある若い教育官僚は、志の高い、たいした人物だったが…。)ブルキナファソは、最貧国の1つだが、意外にマスコミの報道は自由だし、国民は政治に関心も強い。このクーデターの今後の動きに注目したい。

2022年1月25日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー40

https://ameblo.jp/tabizorashihurusya/entry-12624209447.html
現在の中国共産党政権の悪口を昨日書いたところで、中国史の研鑽に突入しようと思う。昔々中国史はやったので、空白地帯ではないのだけれど、また反対に「史記」を参考に詳しくやったのだが、受験の世界史ではないので再研鑽したい。

まずは、「世界史の見取り図」にあるメタな中国概観から。現在の中国の領土を元に考えると、(これは地理のカテゴリーでもあるのだが)東北部(=満州)にはツングース系の女真族(17世紀から満州人と呼称)が居住。その西にあるのが現在の内モンゴル自治区でモンゴル人が居住。西域で北部の東トルキスタン、現在の新疆ウィグル自治区でトルコ系ウィグル人が居住。西域南部は、チベットで、チベット人が居住。ミャンマーやラオスとの国境沿いは、雲南で、歴史上中国とは言えない地域でタイ人やビルマ人が居住していた。いわゆる漢人の居住する中国は、黄河流域、長江流域から南シナ海までの地域。ずいぶん小さいわけである。(淮河より北は華北、長江流域は江南、その南が華南)

そもそも、この漢人の中国以外の地域を「胡」と呼んでいた。しかし、歴史の流れの中で胡漢融合が進む。

中国の歴史は、黄河文明(前期は仰韶:ヤンシャオ、後期は竜山:ロンシャン)に始まるとされるが、長江文明があり、河姆渡:かぼと遺跡、三星堆:さんせいたい遺跡が発見されているが、後者は文字がないので、黄河文明の方が光を放っている。

https://inookahikaru.at.webry.info/upload/detail/002/843/
99/N000/000/003/155661839659991919177_rDSCN9103.jpg.html
*ちなみに、この三星堆遺跡の展覧会に行った記憶がある。目玉の飛び出た青銅器の彫像に大きな衝撃を受けた。

2022年1月24日月曜日

経世在民なき中国 考

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-59662347
北京オリンピックが近づいてきた。中国のニュースは、ほとんどがプロパガンダでしかない、SNSを通じて漏れ伝わる人民の怒りは、破局点に近づきつつあるような気がする。

西安でのロックダウンは、人民に餓死を強要するような激しさであるし、天津も酷い。東北部ではこの厳冬期に停電を強行している。破綻寸前の不動産産業と関連企業や、IT産業、教育産業での大量失業者も凄い数になっている。隣国同様、経済破綻一歩手前の可能性も高い。日本企業の脱出もここにきて本格化している。

中国は、鄧小平時代以降大きく変化してきた。江沢民時代の共産党は自己資産の拡大に目を向けていて好きではないが、少なくとも経世在民の大儀はまだあったように見えるが、現政権は経世在民を捨てたような残酷さである。

私は、昔々中国に行った時、ホテルでバイキング風の朝食を取り、パンは2種類、飲み物もミルクとオレンジジュースだけだったし、フルーツは土のついたみかんだけであったが、豊かになったものだと感心した。少なくともカタチだけはバイキングにしていたからだ。日中友好は続けるべきだと考えていた。古代より中国が歴史的に日本に与えた影響、近代において日本が中国に与えた影響、それを鑑みるに日中友好は当然の帰結だと思っていた。

しかし、中国は変わってしまった。中国共産党独裁政府は、経世在民も、義も全て捨て去り、中華思想、大国意識、拝金主義の三毒に侵されている。他国の技術を盗み、中国の国益だけを強要するエゴイズム。今もなお、中国共産党の工作によって親中国を標榜している人々に問いたい。この中国の変化をあなたは許すのですか?…と。

ウィグルの人々、チベットの人々、内モンゴルの人々への迫害は酷い。特にウィグルの人々の扱いはナチス同様である。ジェノサイドであると結論付けてもおかしくない。最近はブータンにまで手を伸ばし、東南アジアの水源を独占しようとしている。なおかつ自国民に対しても酷い扱いだ。このような政権をいつまでも野放しにしてよいものだろうか。正直、そういう感想を持つ。

歴史を学んでいると、暴動が起こるのは必然。おそらく各地で起こっているのではないだろうか。もちろん、そんなニュースは一切親中国の日本のマスコミには流れない。しかし、人民は追いつめられると命を懸けてでも反抗する。それが歴史から学ぶ事実だ。

あえて、この事実に声をあげたい。黙して語らずは、日中友好を標榜してきた私にとって卑怯な行為に思える。

2022年1月22日土曜日

昨夜と言うか今夜の地震

https://emergency-weather.yahoo.co.jp/weather/ja/earthquake/20220122010844/
22日の深夜1時すぎに、大きな地震があった。伊方町は、震度4くらいだったと思う。我が教職員住宅は鉄筋コンクリートづくりなので倒壊の危険は感じなかったが、ユッサユッサという揺れがわりと長く続いた。

これだけの本格的な地震は、マレーシアに滞在中を空白期間として、阪神淡路大震災以来の揺れだった。

今回の地震で伊方町には何も被害がなかったようだ。台風のガケ崩れで断水したこともあったが、それが何より。

妻の言によれば、地震の後、私は爆睡したらしいので、これ以上のコメントはできない。(笑)

2022年1月21日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー39

https://sekainorekisi.com/world_history/
13世紀はまさにモンゴルの世紀であり、陸と海のネットワークができ、東西の交流が盛んになった時代であった。ヨーロッパへ渡ったものは、火薬・羅針盤・印刷術。イスラム世界に渡ったものは、中国絵画の技法。(ミニアチュール:細密画の技法。これはさらに16世紀のムガル帝国へ。)イスラム世界から渡ったものは暦法・数学・医学。さらにコバルトなどの顔料(これは景徳鎮の陶磁器に影響を与えた)。

14世紀になると、地球規模で寒冷化が進み、伝染病も伝わりやすくなった。14世紀半ばの西ヨーロッパの人口の1/3を失わせたというペストがユーラシア全体に流行する。これが間接的原因。モンゴル帝国の崩壊の原因は、後継者争いによる内紛、チベット仏教への肩入れによる財政破綻(1240年にモンゴルの侵攻を受けたチベットだが、サキャ派がうまく懐柔、自治支配権を確保した。フビライ即位後はサキャ派のパクパは皇帝の師となり厚く遇されることになる。在家と出家の関係を保っていた。フビライは1268年チベットにサキャ寺、1288年に宣政院を寄進した。)、それを受けた紙幣(交鈔)の乱発による経済の混乱が直接の原因。

元においては、1351年の紅巾の乱で経済の中心地だった江南を失い、1368年に朱元璋の立てた明によって中国を追われる。北元と呼ばれモンゴリアで明への抵抗を続けるが、1388年フビライ王統最後のカーン、トグス・テムルが殺害され、帝国を構成した諸部族は分裂した。

2022年1月20日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー38

https://chitonitose.com/wh/wh_lessons44.html
モンゴル帝国の社会制度について。千戸制(ミンガン)は、1000人程度の兵士を供出可能な遊牧集団を領する将軍や部族長がその長に就き、さらにその下に100人程度の兵士を供出する百戸、その下に10人程度の兵士を供出する十戸が置かれていた。十戸の長以上の遊牧戦士がモンゴル帝国の支配者層である遊牧貴族(ノヤン)となった。千人戸の長のうち、有力なものは複数の千戸を束ねる万戸となり、戦時には方面軍の司令官職iを務めた。チンギス=ハンの一族は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、領民(ウルス)として分与された千戸集団の上に君臨する上級領主階級となった。カーンや王族はオルド(幕営)をもち。皇妃ごとにオルドを持っていた。それぞれのオルドには領民がいて、長である皇后が管理した。

行政制度について。ケシクと呼ばれる皇帝の側近が仕え、親衛隊を務めるとともに、身辺の世話を行った。弓矢の世話、太刀持ち、鷹匠、書記官、門衛、料理番、酒係、車係、馬係、衣装係、ラクダ係、羊飼いなどの様々な職種に分かれていた。モンゴル帝国は、連合国家であるが、中央政府や占領地の統治機関は固定の直轄支配下にあり、上記のケシク内のモンゴル貴族から任命された断事官が置かれ、行政実務や訴訟を担当した。地方では、多くがモンゴル人から任命された監察官が都市ごとに置かれていた。実務において末端の文書・財務行政を担ったのが、書記官で、現地の言語に通じている漢民族・西夏人・契丹人・女真人など漢人やウィグル人・ムスリムなど色目人の出身者が参入した。駅伝制度で1日100㎞の速度で帝国細部に伝えることが出来た。

軍事制度について。千戸制は日常的に共同で遊牧するとともに、巻き狩り(野生動物を囲い込む狩り)を行ったりして団結と規律を高めていた。遠征時には、自前で馬・武具・食料・日曜道具の一切を用意。軍旗違反には生きたまま革袋に詰められ平らになるまで馬に踏みつぶす、あるいは釜茹でなどの処刑法があった。また南方の多湿地帯、西アジアの砂漠地帯、水上の戦闘などでは、被支配民族の定住民を徴募し、割合も増加した。元の場合も千戸制にならって、数戸ごとに1名程度の割り当てであった。情報収集にも熱心であったようである。

経済政策では、商業ルートを抑え、国際商業の活性化をはかって利益を上げる重商主義的な政策であるが、特徴的なことに関税をかけず、最終売却地で商品価格の1/30の売却税をとった。なお、占領地の税は銀に特化しており、国際通貨である銀を国際商業に投資する戦略を取った。ユーラシアを横断することが可能になり、フラノ=カルビニ(教皇の命により偵察も兼ねてカラコルムに向かった修道士)、ウィリアム=ルブルック(ルイ9世の命によりカラコルムでモンケ=ハンに面会)、イブン=バットゥータ(モロッコから世界中を回ったウラマー・探検家)、マルコポーロ(ヴェネツィアの商人)モンテ=カルバノ(教皇の命により、イルハン国経由で元に行った修道士)などの旅行記が残された。

文化では、シャーマニズムが本来の宗教であるが、仏教やネストルウス派キリスト教、イスラム教を信仰する人々と古くから接してきたため、神を信じる宗教を平等に扱った。また、支配者層であったが人口の上では少数派であったので現地の文化を徐々に取り入れる傾向が強かった。ジュチ・ウルスはイスラムに改宗している。ただし、モンゴルのジャサクと呼ばれる遊牧民の慣習法とジンギス=ハン勅令・訓言を固く守り、14世紀以後、東方ではチベット仏教、西方ではイスラム教を受け入れていくが、シャサクに基づく社会制度は極力維持された。中国では、イスラム科学が伝えられ、科挙が廃れ儒学全体が廃れたが現実的な朱子学が地位を高めた。科挙の部分復活に際しては朱子学も採用される。バグダッドの知恵の館消失によってモンゴル帝国は文明の破壊者というイメージがあるが、フラグはニザール派の文書庫を摂取して守ったり、マラーガに天文台と図書館を建設したりして、イルハン朝は文化を守ったといえる。

一刻も早くトンガにUS-2を Ⅱ

https://www.sankei.com/article/2015041
0-KC42LXLSNBIMBHG6MWBZESNCIY/
結局、トンガへの支援活動は、空自のC130輸送機2機、海自の輸送艦「おおすみ」になったようだ。火山灰除去のための高圧洗浄機や陸自のCH47ヘリ、300人程度の隊員を派遣するという。

トンガは島嶼国で、首都のあるトンガタブ島のヌクアロファ近郊の空港が使えるようになっても、南東のエウア島、北部のリフカ島、ウィハ島、フォア島などの有人島がある。この島々にも一刻も早く、支援の手を伸ばさねばと思う。

自衛隊のことだから、災害支援のプロ集団として活躍してもらえると思う。でもやはり、素人目にはUS-2がいるのではないかなあと思うのである。(きっと理由があるのだろうが…。)
とにかく、一刻も早くトンガの子供たちを救ってあげてほしいと祈るばかりである。自衛隊の皆さん、頑張ってください。

2022年1月19日水曜日

一刻も早くトンガにUS-2を

https://www.sankei.com/article/20190424-GONO5HM6IZNDDKGWYWR34NFNXA/
トンガ王国での火山爆発。実に悲惨である。トンガの子供たちが東北大震災時に、900万円分ものコインを義援金として行くってくれたことを忘れてはならない。すでに高知県は独自の支援を始めたそうだ。日本政府は何をしているのか。

もともと現政権には期待はしていないが、優柔不断。何という遅さか。とりあえず飲料水の確保、食料の確保、ニュージーランド等への批難させるため手を打つべきであると私は思う。

火山灰等の様々な障害があるようだが、日本には素晴らしい飛行艇がある。まずは飛ばすべきだ。航続距離や粉じんによるエンジン吸引トラブルへの危惧もあるかもしれないが、やってみる価値があるのではないか。日本の新明和の世界最高の飛行艇・US-2なら、空港がだめでも海に着水可能だ。冒険かもしれないが、海自の皆さんなら多少の難題も可能にするはず。

今こそ、トンガの子供たちの想いに答えるべきだと私は思っている。

受験の世界史B 研鑽ー37

https://recoboo.com/mongol-empire/
引き続き、モンゴル帝国についての研鑽。第5代皇帝のフビライの時代。1264年、フビライが単独のモンゴル皇帝になった時、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのは、モンゴル高原、天山ウィグル王国、チベットより東側のみ。パトゥのヨーロッパ遠征やフレグの征西のような帝国を挙げての遠征の遂行は不可能となった。しかし、フビライはフレグのイルハン朝を認めた。またアリクブケの命でチャガタイ家当主となったアルグは離反してフビライ支持に回った。

1264年、フビライは統一クリルタイの開催を呼びかけ、チャガタイ家のアルグ、ジュチ家(キプチャク=ハン国)のベルケ、そしてイルハン国(フビライと同じトゥルイ家)のフレグの三者が会しての正式なクリルタイが必要であった。しかし、1265年フレグが突然死去、1266年ペルケも陣没、続いてアルグも死去し、実現しなかった。諸王朝は当主の死で混乱する。

1268年、オゴタイの五男の子・カイドゥが公然とフビライに反旗を翻す。フビライにカイドゥ牽制のために派遣されたチャガタイ家のバラクは、チャガタイ家の当主の座を奪い、カイドゥと手を組みサマルカンドなどのモンゴル皇帝直轄領を奪った。しかしカイドゥとバラクは徐々に対立。ジュチ・ウルスの新当主・モンケ・テムルが警戒を強めたが、カイドゥは和平を結び、逆にバラクと戦う。敗退したバラクは、チャガタイ家に約束された中央アジアの取り分を主張し、1269年にクリルタイを開催し三分割した。この三分割の際、バラクに与えられた領土は、故フラグのイルハン国の領土が含まれており、バラクは、フラグの後継者・アバカと戦う羽目になり大敗北した。1270年、フビライからアバカのイルハン国は正式に認められ、ジュチ家もハヤブサなど祝賀の献上品を贈った。

1271年、フビライは、国号を大元と改め、同年バラクは急死、カイドゥが中央アジアの最有力者となった。(=カイドゥ王国)その後カイドゥの死後、チャガタイ・ウルスがオゴタイ・ウルスを併合しチャガタイ=ハン国に変貌する。

第3代皇帝・モンケ死後40年間にわたった内部抗争は、大元(元朝)、中央アジアのチャガタイ=ハン国、ジュチ・ウルスのキプチャク=ハン国、西アジアのフラグ・ウルスのイルハン国の4大王朝に分かれ、元にいるカーン(モンゴル皇帝)を盟主とする緩やかな連合国家となった。この後のユーラシア大陸の自由な交易が保障された繁栄の時代を、バクス・モンゴリカと呼ぶのである。…つづく。

2022年1月18日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー36

https://rekijin.com/?p=20944
世界史Bの研鑽を再開したい。モンゴル帝国のことである。昔々教えた記憶があるが、実に久しぶりである。モンゴル帝国は、端的に言って絵しまうと、チンギス=ハンの子孫(黄金の一族:アルタン・ウルク)と、彼らに従属する武将(ノヤン)が、主に戦功に応じて各地に分与された領民と領地を支配する国(ウルス)が集まって形成された連合王国である。千戸(せんこ)制度(ミンガン)と呼ばれるトルコ系モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝によって分与された数十もの千戸軍団を管轄し、軍団や征服地域の租税や民生の管理は皇帝直属の財務官僚(ビチクチ)が担った。

即位したチンギス=ハンは、1204年トルコ系のナイマン、1211年、南の西夏、西遼に服属していた天山ウィグル王国、オイラト、トメト、カルルク、そして西遼を征服、南シベリア、中央アジアに勢力を伸ばした。さらに、金朝に遠征、東北地区と華北を席捲、1214年、金は首都を放棄して小国に転落した。1218年からは、中央アジアのオアシス農業地帯に遠征軍を送り、ホラズム・シャーを壊滅させた。1227年西夏を完全に滅ぼす直前に陣中でチンギス=ハンは病没する。

チンギス=ハンの息子は4人。長男ジュチ、その息子パトゥが、1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド軍を破り、キプチャク=ハン国を建国。次男チャガタイ、チャガタイハン国を建国。子のモエトゥゲンはバーミヤンで戦死。三男オゴタイは、チンギス=ハンの死後第2代皇帝になる。四男トゥルイは、次期皇帝を選ぶ監国となり、オゴタイを選んだ。長兄のジュチはすでに死んでいたが、兄弟は皆仲が良く父の遺志を汲んだようである。
1229年、即位したオゴタイはトゥルイと協力して、金朝との最終戦争に勝利した。トゥルイは遠征の帰路病没するが、次男チャガタイがオゴタイを強力に支持、皇帝の地位を固めた。1234年モンゴル高原中央部に首都カラコルムを建設。オゴタイの治世は様々な民族の書記官による文書行政が行われ、遊牧民には家畜100に対して1、農耕民には10の収穫に対し1が税となる十分の一税が帝国全土に適用された。また帝国内主要幹線路には駅伝(ジャムチ)が置かれた。

1235年カラコルムでのクリルタイで、南宋とアジア北部キプチャク草原とその先のヨーロッパ遠征を決定。南宋遠征はオゴタイの息子クチュの死で失敗したが、ジュチの次男パトゥが前述のように、1241年ポーランド・神聖ローマ・テンプル騎士団・ドイツ騎士団・聖ヨハネ騎士団ら連合軍をワールシュタットの戦いで破る。チェコ東部、オーストリアまで群を進めるも、オゴタイの崩御でモンゴルへ帰還した。

1241年オゴタイの急死、翌年のチャガタイの病死の後、監国になったオゴタイの皇后ドレゲネが生前にオゴタイが指名した後継者シレムン(オゴタイの三男クチュの子)を無視し、自身の子であるグユクを擁立しようとして選出が遅れた。1246年クリルタイはグユクに決したが、グユクと仲の悪いバトウは出席をボイコット、一次分裂の危機になるが、皇帝グユクは即位2年で崩御(1248年)した。しかし、この間1243年のアナトリアでキョセ・ダグの戦いがあり、ルーム・セルジューク朝を打ち破り、アルメニア王国、グルジア王国などがモンゴル帰順、1250年代のフラグの西方遠征まで時間差はあるが、イラン高原もモンゴルの支配地域として組み込まれていった。

第3代皇帝グユクの死後、オゴタイ家・チャガタイ家vsジュチ家・トゥルイ家で抗争が起こる。1251年、トゥルイ家のモンケが即位。オゴタイ家・チャガタイ家の有力者を皇帝暗殺の嫌疑をかけ弾圧した。モンケは、ゴビ砂漠以南の漢地、ハンガイ山脈以西の中央アジア、アム川以西の西アジアの三大ブロックにわけて地方行政機関を再編した。また、同母弟のうち次弟のフビライを漢地軍団の総督、三弟のフラグを西アジア軍団の総督に任命、その方面の征服を委ねた。フビライは1253年雲南・大理遠征で大理国を征服、フラグは1256年、ニザール派(イスマイール派の分派)を、1258年にはバグダッドのアッバース朝を壊滅させた。
一方、皇帝モンケは南宋との決戦の為長江上流に侵入したが1259年苦戦し陣中で病死した。

第4代モンケの死を受け、帝国は皇帝が並立する。首都カラコルムにあって事実上監国となった末弟のアリクブケと、南宋遠征中のフビライである。この混乱期に、フラグは自立したイルハン朝を建国。南カフカスのジュチ・ウルス(ウルスは遊牧政権)と対立戦争になる。(ペルケ・フラグ戦争:ペルケはパトゥの弟)この西の戦争と東の皇帝並立(=モンゴル帝位継承戦争)は、一時期勢力を失っていた中央アジアのオゴタイ・ウルス、チャガタイ・ウルスが勢力を盛り返す絶好の機会となった。…つづく。

2022年1月17日月曜日

共通テスト 政治経済を見る

政治経済の問題も見てみた。決して難しくはない。問題の設定は他科目同様だが、正誤問題は少し迷うところである。最も面白いと思ったのは、家計、もっと言えば高校生の小遣い帳をもとにフローとストックに分ける問題。第三問の問1である。フローとストックの概念を十分に理解していないと解けない。これも正誤問題。フローは、収入の小遣い5000円、支出のプレゼント代5000円、図の水槽から出ている8000円。で、⑤が正解となる。

表の数値と模式図から、全てのフローであるもの全てを選ぶわけなので、数値的にフローの額を求めているわけではない。ここがポイントだと思う。

こうして、地理B、倫理、世界史B、政治経済と今年の共通テストを見てきたが、最も難しいのは地理Bのように思う。かなり捻りが加えられていて、一筋縄ではいかない。そんな中、三崎高校の受験生は、頑張ってくれていたので、まずは一安心である。

2022年1月16日日曜日

共通テスト 世界史Bを見る

世界史Bの問題も見てみた。これも資料を読み解く国語力がものを言う問題だ。しかし、細かい知識が必要ではなさそうだ。この1か月ほど私自身の空白を埋めてきたが、その研鑽内容も出題されていた。やはり、共通テスト対策の演習量がものを言いそうだ。上の問題はそんなものの1つ。ただ、世界史というよりは倫理に近いのだけれど…。

9世紀のイランといえば、アッバース朝下で、ターヒル朝が総督として支配していた頃。(→研鑽25)イに入るのは、ウラマー。(法学者)ウに入るのは、預言者ムハンマドの言葉や行為に関する伝承(ハディースを講演したのだから当然。)

昨年の世界史Bの共通テストも以前見たけれど、私大の問題とはかなり違う。改めていろいろ考えさせられた。

共通テスト 倫理を見る

共通テストになって、倫理は国語力がさらに問われるようになった。今回も去年同様の難易度かなと思う。どれかひとつ面白い問題を選べと言われれば、上記の画像の問題である。議論によって、真理や正義が刑されるか否やという話題が、大問1を貫いている。これを倫理の学習内容から検討する問題である。ここにでてくる資料は、老子と旧約聖書のヨブ記。

ヨブ記は、旧約の中でも非常に難しい。イスラム教では預言者の1人に数えられているが、我々非一神教信者には理解しがたい内容も含んでいると私は思う。

さて、間違いを選ぶのだが、③の『「旧約」って、古くからの伝統に基づく神との契約という意味で、ユダヤ教徒自身が誇りをもってそう呼ぶようになった。』というのが正解。ユダヤ教徒は旧約聖書などと呼ばない。

変な問題もたくさんあり、ますます倫理の基礎学習から離れていくような気がする。

共通テスト 地理Bを見る


共通テストの問題・解答・分析がネットに出てきた。今年はまず、三崎高校の受験生が受けた地理Bを見た。正直、なかなか難しい。昨年度と比べると難易度には大差ないのだが…。

面白いと思った問題は画像のアフリカの災害を地域的に読み取る問題。地震・火山噴火・熱帯低気圧と北部・西部・東部の組み合わせを選ぶもの。これは、そう難しくはない。熱帯低気圧がくるのは、インド洋のサイクロンだから東部、チ。地震があるのは、大地溝帯や新規造山帯。北部のアトラス山脈はアフリカ対立唯一の新規造山帯故にタが北部。残るツは西部。故に②となる。

三崎高校の地理Bの単位数は、2年3単位・3年2単位で計5単位。理系の生徒なので、グラフ等の理解は十分なのだが、正直単位数少なすぎる。しかも彼らは2年の1か月以上コロナ禍で授業がなかった。共通テストに対応するためには、最低でもあと2単位以上プラスしないと難しいと思う。基礎を十二分に固め、しかも演習を十二分に行う必要がある。

結果は明日の自己採点でわかるが、果たして…。

2022年1月14日金曜日

創立記念行事 2022

71周年を迎えた三崎高校の創立記念行事の日である。コロナ禍の関係で、体育館ではなく、FacebookのLIVE配信になった。仕方なく、塾でPCで参加させてもらった。第一部は、スピーチコンテストである。今回も、実にいい内容だった。三崎高校に来てよかったという生徒たちの言葉を聞くと、やはり嬉しい。今年は、1・2年生は県内外から来た生徒、3年生は地元生というラインナップだった。来年は見れないだろうが、もしかしたら全員寮生になるかもしれない。

さて、何よりうれしかったのは、3年生の2名が終ったあとで、今日学校に来こないで、共通テスト会場の愛媛大学に向かっている受験生の2人を、わざわざ応援してくれたことだ。受験は孤独な戦いだが、三崎高校ではこういう仲間がいることが胸を打つ。スピーチした生徒も受験生もそれぞれ同じ男女のバレー部。絆が強い。こういう仲間がいることは、受験生の力になるはず。明日はいよいよ本番である。

2022年1月13日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー35

https://kusanomido.com/study/history/chinese/42307/
内陸アジアの遊牧民族について今日は研鑽したい。前9~8世紀には、青銅製の馬具や武器を持った騎馬遊牧民が登場する。騎馬の技術は遊牧民に圧倒的な軍事的優位性を与え、しばしば定住農耕地帯に侵入した。血縁的な氏族・部族集団が必要に応じて連合し統率力を持つ指導者のもとに広域な国家を作り上げたが、必要性がなくなったりすると分裂も早く、隣接するオアシス民や農耕民を従える混合的な構成をもつことも多く、出自より能力主義という特徴もある。「草原の道」「オアシスの道」は東西を結ぶ交易ルートで、漢代の中国では、ブドウ、胡桃(クルミ)、胡麻(ゴマ)、胡豆(ソラマメ)などが伝わる。胡の字は西方から伝来したものに使われた。中国からは絹で、ローマ帝国で大流行する。

文献資料の上で知られる最初の遊牧国家は前7世紀頃南ロシアの草原地帯を支配したスキタイ。前4世紀頃には蔭山(インシャン)山脈の北沿い(=現内モンゴル自治区からゴビ砂漠)に匈奴、天山山脈方面の鳥孫(うそん)・甘粛(かんしゅく)、タリム盆地の東の月氏などが出現。匈奴は、前3世紀末に冒頓単干(ぼくとつぜんう:単干は統率者の意)のもと、月氏を攻撃して中央アジアのオアシス地帯を支配、漢を圧迫した。しかし武帝の時に西方に進出、交易の利益を失い衰えて、1世紀半ばに東西に分裂する。

4世紀、フンの西進(ゲルマン大移動を呼び起こす)と鮮卑などの「五胡」の華北侵入が起こる。匈奴の一種族の(けつ)、(てい)、(きょう)なども侵入。戦闘力の高い彼らは後漢の傭兵として使われたりしていたが、政治的混乱に乗じて華北に建国する。漢人は、長江以南(=江南)に移住、中国は隋の成立まで分裂が続く。この中で、北魏は鮮卑の拓跋氏が建国し、太武帝が華北を統一する。

旺文社の「ここが出る世界史Bノート」には、次のような対比で中国と騎馬民族の対峙の歴史整理されている。

前3~後1世紀 匈奴 VS 秦・漢 

2~4世紀   鮮卑 VS 魏・晋

5~6世紀    柔然 VS 北魏(鮮卑) 

6~8世紀     突厥 VS 隋・唐

8~9世紀    ウィグル VS 唐

10~12世紀   契丹 VS 五代・宋

12~13世紀   女真 VS 南宋

13~14世紀   モンゴル

14~16世紀   オイラト・タタール VS 明

17世紀      女真=

…騎馬民族は実力主義であることに注目したい。中国古来の科挙は漢民族の王朝・隋から始まっているが、メタに見た場合、この影響があるのではないか、と思われる。

2022年1月12日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー34

https://ichi.pro/rekishijo-mottomo-yufukuna-kokujin-dansei-176845783535172
今回の研修は、アフリカの歴史。アフリカには文字による歴史時代が始まったのは、最古の黒人王国と言われる前9世紀のクシュ王国からである。インド洋から紅海に入り、ナイル川を使った交易で富を得た。メロエ文字が使われていたが解読されておらず、オリエントから得た鉄も使用されていた。しかし4世紀にはアビシニア=アクスム王国によって滅びた。

アビシニアは、後にエチオピア帝国と名を変え、1974年の革命で共和国になるまで続く。19世紀末の植民地化にも耐えた独立を守った。ここはアフリカでも貴重な単性論のコプト教会である。イスラムが力を伸ばす7世紀まで、インド洋の商業活動で栄えた。

一方、4世紀頃からラクダを使ったサハラ縦断コースの交易が活発化する。ニジェール川周辺を西スーダン(アラブ人が黒人の地をスーダンと名付けた。)という。8世紀に、西スーダンにガーナ王国が建てられた。(現在のガーナとはかなり離れている。)金の輸出で栄えたが、1076年、イスラム王朝のムラービト朝に滅ぼされる。以後、イスラムの南下が始まる。ガーナ王国の地にマリ王国が成立し、マンサ=ムーサ王の時、メッカ巡礼の途中立ち寄ったカイロ(マムルーク朝)で手持ちの金を配りまくって、金の価格が暴落したことで有名。岩塩も重要な交易品。14世紀に、モロッコのイブン=バットゥータがマリ王国を訪問、三大陸周遊記(大旅行記)でも書かれている。マリ王国が滅び、15世紀にソンガイ王国がが建てられた。首都はガオだが、経済の中心地はかのトンプクトゥで、黒人による初めての大学が建てられた。(ここのモスクは有名で、行きたかった。)金と岩塩の交易もマリ王国と変わらず。ソンガイ王国は、16世紀末にモロッコのイスラム勢力(サアド朝)に滅ぼされるまで続く。

中央スーダンでは、チャド湖周辺にイスラム世界への奴隷輸出で繁栄したカネム国、14世紀には名前が変わりボルヌ国が存在した。

東スーダンでは、インド洋の海の道が繫栄する。8世紀には、イスラム商人が東南アジア同様、マリンディ、モガデイッシュ、モンバサ、キルワ、モザンビークなどの港町が栄えた。ザンジバルから黒人奴隷が運ばれた。イスラム世界で黒人奴隷はザンジュと呼ぶが、ここからきている。この流れの中で、パントゥー語とアラビア語が混ざりスワヒリ語が生まれる。また、ザンベジ川流域のジンバブエの巨石建造群(グレートジンバブエ遺跡:ジンバブエに行きながらこの遺跡にもヴィクトリアの滝にも私は行っていない。)で有名なモノモタバ王国も有名である。

共通テスト直前 KITKAT

共通テストまであとわずかである。未咲輝塾では、2人の受験生が国公立を目指して頑張っている。松山の愛媛大学で受験するので、前日の金曜日から2泊3日の受験旅行となる。一昨年は、コロナ禍もなかったので、早朝から愛媛大学に向かい、受験生を激励した。昨年はそれが不可となり、今年も不可となった。政府から、コロナで当日、さらに追試験も受験できない受験生には、各大学で個別対応するようにとの通知も出ているくらいだから、仕方のないことだと思う。

さて、愛媛大学には行けないまでも、塾長が受験生にKITKATを贈るのは塾の伝統である。今年も郵便局で売っているお年玉的KITKATを用意した。年末に三崎支所で開塾している際に近くの三崎郵便局に行ったら最後の1個だった。そこで、年が明けて郵便局が開いた4日朝に、一番近い二名津の郵便局でもう一つ買い足した。

面白いことに、虎のデザインなのだが、黄色い虎と白い虎になった。後ろにお年玉を入れる袋がついているのだが、今年は、塾講師全員で激励の寄せ書きを書いてもらうことにした。二つ折りにすれば、9㎝×10㎝くらいがちょうど良い。白紙をそのサイズに切って、書いてもらった。私は、2人とも定番の「α波で行こう」にした。すでに意味は伝えてある。各講師もそれぞれ個性豊かな激励文を書いてくれた。

このKITKATは、明日、彼らが来る最終日に渡そうと思う。他の私大受験生には渡していないので、塾外で、こそっと渡すことになりそうだ。

祈 高得点。遠慮せずに取れるだけ取って欲しい。

2022年1月11日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー33

https://wearewhatwerepeatedlydo.com/southeastasianhistory/
11世紀になると、東南アジア各地で民族を単位とする国家が形成され、独自の文字や宗教が確立する。

ベトナム北部では、李朝大越国が中国の影響下から独立。ベトナム中部はチャンパが引き続き支配。カンボジアでは、6世紀にクメール人のイシャーナヴァルマン1世が扶南を破り、真臘が属国から立場を逆転させる。8世紀カンボジアでは、一次南北に分裂するが、ジャヤヴァルマン2世が真臘を統一、アンコール朝を建国する。ジャヴァルマン7世は方形のアンコール=トムを建設。12世紀に入り、スールヤヴァルマン2世が領土を拡大し、ヒンドゥー教の寺院アンコール=ワットを建築、繁栄する。

ミャンマーでは、ビルマ人バガン朝が成立、こっこでは上座部仏教が信仰された。バガン朝は、雲南地方とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、ビルマ族とモン族の融和が図られる。その後13世紀にモンゴルの攻撃を受けて衰退する。バガン朝の滅亡後は分裂が続いたが、16世紀にトゥング―朝、18世紀にはコンバウン朝が成立する。

ベトナムでは、このモンゴルの侵攻を、北部の陳朝大越国やチャンパ王国は退ける。陳朝では、チュノム(ベトナム語を表記するために漢字を応用して作られた文字)がつくられた。陳朝の後、明が一時的に支配するが、15世紀前半に黎朝が見んから独立、中部のチャンパを滅ぼす。

タイでは、13世紀にアンコール王朝の支配から脱し成立したスコータイ朝以来、上座部仏教が国教となる。14世紀頃、アユタヤ朝がタイを支配、カンボジアに侵攻も行う。しかし18世紀にアユタヤ朝はミャンマーのコンバウン朝に滅ぼされる。コンバウン朝を駆逐してバンコクにできた新王朝がラタコーシン朝(チャクリ朝)である。

ところでモンゴルは、ジャワ島のシンガサリ王国への攻撃も失敗する。この後13世紀末にマジャバヒト王国が成立、インドネシアからマレー半島にかけて支配する。このマジャバヒト王国はヒンドゥー教の王国である。14世紀、イスラム化したインドからイスラム教が伝わり、インドネシアやマレー半島を中心に広がる。マレー半島にできたマラッカ王国は中継貿易で繁栄し、マラッカにはシャーバンダル(外国商人の代表が就任し、倉庫の割り当て、価格の決定、争いの調停などを行った。インドのグジャラート、インドの他地域とペグー:現ミャンマー・スマトラ、東南アジア、中国および琉球の4人の出身者が担当した。)という港湾長官が置かれ、東西海洋交易の中継港の地位を確立した。

受験の世界史B 研鑽ー32

https://wearewhatwerepeatedlydo.com/southeastasianhistory/
マレーシアの歴史についてはかなり詳しいつもりだが、他の東南アジア地域の歴史は空白である。今回の研鑽は、イスラムがやってくる以前の東南アジア史について。…東南アジアは、中国とインドに挟まれた地域で、両地域の影響が色濃い。
ベトナム北部は中国王朝の支配下におかれ、ドンソン文化(銅鼓など青銅器文化)がその影響下で成立する。
イラワジ川(チェオプラヤ川)流域では、ビューと呼ばれる人々が港市国家(港市が中心となって周辺海域を支配し、領域や人民よりも交易のネットワークに基礎を置く国家)が栄え、内陸ルートでインドの産物が扶南に流れるようになる。この港市国家を通じて、インド商人は仏教やヒンドゥー教を伝え、中国商人は儒学や法制度を持ち込んだ。

扶南は、ベトナム南部からカンボジアにかけて成立したメコン川流域の国でオケオ遺跡からはローマの金貨が出土している。3世紀前半にはインドの大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣、中国の三国時代の呉から通商使節が来たという記録が残っている。ビュのーの都市国家から扶南の中継地点であるチャオプラヤ川の中・下流地域では、モン人の港市国家群のドヴァラバーティが成立した。また、ベトナム中部にはチャム人のチャンパ王国(林邑・占城)が栄えた。青銅器を使用し、サーフィン文化(中部から南部にかけて存在した青銅器文化)が成立した。インドからの物流の流れは、ビュー→ドヴァラバーティー→扶南→チャンパという流れになる。

マレー半島やスマトラ島では、パレンバンを都とされるシュリーヴィジャヤ王国が勢力を持っていた。義浄はインドからの帰路立ち寄りこの地で大乗仏教が盛んだったと記している。8世紀、ジャワ島ではシャイレンドラ王国が成立、大乗仏教がここでも盛んでボロブゥール(ジャワ島中部のケドゥ盆地にある世界最大級の大乗仏教寺院遺跡:世界遺産)を建設した。マレー半島では、シャイレーンドラ王国が支配するが、古マタラム(8~9世紀にジャワ島のジョグジャカルタ周辺に繁栄したヒンディー王国。16世紀以降のマタラム王国はイスラムの王国で区別するために古がついている。)によって排除され、ヒンドゥー教寺院のロロジョングラン(ブランバナンとも呼ばれる。世界遺産)が建造される。その後、マレー半島とスマトラ島の港市国家は三仏斉(ジャーヴァカ)という連合を形成、交易の安定化を図った。このジャーヴァカにはシュリーヴィジャ王国も加盟しており、全体で中国の宋に朝貢していた。…つづく。

2022年1月10日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー31

https://www.y-history.net/appendix/wh0101-127.html
3連休はゆっくりさせてもらった。研鑽の続きは、イランの歴史をやろうと思う。歴史時代(文字記録のある時代)の最初のイランの国家はエラム人(言語的には系統不明)によるもので、紀元前3000年の終わりごろからクティク・インシュシナク王のもとで最初の統一的な政治勢力となったが、紀元前1世紀にアッシリアによって滅ぼされたようだ。しかし、このエラム人の作り上げた政治社会の仕組みと文化は、アケメネス朝によって継承されている。

紀元前20世紀、アーリア人がイラン高原やインドに南下する。紀元前9世紀頃にはアーリア人の中でもペルシア人とメディア人がアッシリアの文献に登場する。中でもメディア人の王国が勢力を得、アッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ強国になるが、さらに前6世紀(前559年)にキュロス2世により、アケメネス朝が成立する。このアケメネス朝はサラトップという軍管区と王の目・王の耳と呼ばれた監察官システムをもち、各地の現地人有力者を重用し、その上に君臨した帝国であった。その後、ダレイオス1世諸王の王を名乗る。かのギリシアのポリスとのペルシア戦争を行い敗北する。紀元前5世紀末頃には、分割相続と税負担増で軍務を支えたペルシア人封土所有者が没落し、軍の中心は傭兵へと移る。紀元前334年、アレクサンドロスダレイオス3世は、イッソスの戦いガウガメラの戦いで大敗、滅亡する。

アレクサンドロスの死後、イランはセレウコス1世によりセレウコス朝が支配することになる。ギリシア化(ギリシア語がアラム語と並ぶ共通語となった。ギリシアの社会制度・文化の普及が進んだ。)しかし、セレウコス朝はシリアに中心が置かれ、負担の多かった西部でパルティア(=アルケサス朝)がアルケサス1世によって独立した。このパルティアは、インドのクシャーナ朝やローマ帝国と抗争を繰り広げ、かのクラッススを戦死させた。最終的にはイラン高原南西部の反乱で滅亡。

224年にアンデシール1世ササン朝を建て、旧パルティアの全領土を支配下に置き、クシャーナ朝との戦いに決定的な勝利を得、ローマとの戦いも、第2代・諸王の王のシャーブール1世は、244年マッシナの戦いで皇帝ゴルディアヌス3世を戦死させ、さらに260年エデッサの戦いでヴァレリアヌス(軍人皇帝時代の皇帝)を捕虜にした。また、国教をゾロアスター教とした。最盛期の529年には、東ローマ帝国内の異教排除で失業した学者がササン朝に移住、ギリシア語・ラテン語の文献の翻訳やアヴェスター(ゾロアスターの聖典)を整備した。558年、長年悩まされた東方のエフタルとは、突厥と同盟を結び滅亡させることにも成功した。ササン朝は、公用語をギリシア語からペルシア語に変え、ゾロアスター教を基軸にペルシア文化の再興をした王朝だったといえる。

そのササン朝も長らく東ローマ帝国と抗争を繰り返す中で、紅海の海路による貿易が活発化し、その恩恵を受けたイスラム勢力(第2代カリフ・ウマル)によって滅ぼされる。636年のカーディシーヤの戦いの敗北の後も何度か戦うが、651年、最後の王・ヤズデギルド3世の死によって終わる。

2022年1月9日日曜日

ばくだん と 羊羹パン

最近、八幡浜に買い物に出かける際、パンは保内のスーパーで購入することが多い。ここに入っているベーカリーが最も美味しいのである。我が家は大体朝はパン食なので、このところ毎回寄っている。

私が好きなのは、”ばくだん”というカレーパン。中にゆで卵が入っている。しかもそのゆで卵はエッグカッターで切られている。手が込んでいて少し高いが、これは美味である。

この保内のスーパーは、地元の商品が多く陳列されており、二名津の田村菓子舗の商品も置いてある。三崎高校が日本一になったみっちゃん大福もここの商品である。もちろん、三代目は三崎高校OBにして、伊方町会議員で懇意にさせていただいている。ここの羊羹パンが美味いと、J先生がおっしゃっていたので、糖尿病の私としては、一度は食べてみたいと購入した。これも美味。一気に1000個の注文があったという伝説の商品でもある。

こちらには、こちらでしか食べれない美味しいものがある。残された時間をうまく使いたいものだ。そうそう、干し柿もそのひとつ。瀬戸にある道の駅で、安く販売していたので大人買いしてきた。(笑)1パック3つ入って120円。これも美味である。

2022年1月8日土曜日

PBTの教え子の卒論を読む

PBT・F38の教え子から、年賀状が来て、返信したら卒論が添付させれてきた。マレーシア時代から、日本語も私の社会科も超優秀な教え子で、日本文学大好き少女だったI君である。

椎名麟三の「永遠なる序章」についての論文であった。私は、小説をほとんど読まないので、当然ながら読んでいない。だが、引き込まれて長い論文を一読した。実に面白かったのである。最初、椎名の文体についての各所からの批判について記されている。椎名は、他の文学者と比して、インテリではない。インテリの文学者はあえて、概念的な語彙を避ける傾向にあるし、反復を悪文と規定している。評論家はその点から酷評しているのだが…。

また、椎名は貧困な労働者出身であり、一次左翼活動に入り、ドストエフスキーを読んで転向している。最終的にキリスト者となっているようだ。最も影響を受けたのはキルケゴールだという。ニーチェにも影響を受けているが、結局イエスの復活を信じることで死を超克しようとしているようだ。この小説でも、自由の問題、死の問題が大きなテーマとなっているようで、この辺が実に面白かった。

私は返信の中で、こんなことを書いた。「死を克服するという実に実存的な人生の課題は、私は椎名のようにイエスの復活にあるのではなく、仏教的な超克にあると思っています。だから、もし明日死んでも悔いはない、そんな人生を送っています。ただ、F40のL君という子が一浪してD大に入りながら、コロナ禍でまだマレーシアなので、それが心残り。今教えている三崎高校の教え子をまだ共通テストで勝利させていないのが心残り。こういう煩悩があります。(笑)だが、この煩悩を無くすのではなく、菩薩道の中で、煩悩即菩提させていくような人生を送っています。日常の中に死の克服があるわけです。」

I君の卒論は、想像以上にすばらしいものだった。とても日本語を学んで6年とは思えない、読解力と語彙力、そして文章力だった。彼女のこれからの進路希望も聞いた。是非再会したいと思う。

2022年1月7日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー30

ナーランダー僧院 https://ameblo.jp/midnight-boyaki/entry-11778493789.html
山川の世界史Bの教科書では、さらにインドやアフリカ、東南アジアへのイスラム教の進出について書かれているのだが、ここでは、まずインドの歴史で私自身の空白部分を埋めたいと思う。倫理で、アーリア人の侵入やヴェーダ、バラモン教、仏教の成立などはやるので、クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝あたりをまず研鑽しようと思う。

アショーカ王が活躍したマウリヤ朝は、彼の死後衰えて、小王朝が乱立する。その後、中央アジアで成立したクシャーナ朝がインド北部に勢力を伸ばす。

クシャーナ朝(1世紀-375年)匈奴に圧迫され中央アジアのバクトリアに定着した遊牧民で大月(だいげつ)氏と呼ばれるイラン系の王朝で、漢書や後漢書西域伝によれば5分割統治されていたのが統一され、これがクシャーナ朝となったようである。最も有名なのは、2世紀半ばのカニシカ王で、都をブルシャブラ(現在のペシャワール)に置き、仏教に帰依、厚く保護した。ガンダーラの仏教美術が栄えた。またナーガルジュナが活躍したのもこの頃。すなわち大乗仏教が生まれた。しかし、3世紀頃ササン朝と戦い敗北、支配下に置かれ滅亡する。

サータヴァーハナ朝(紀元前230年-220年)おそらくドラヴィダ系の王朝と考えられている。アショカ王滅後のマウリヤ朝の混乱時に勢力を増大し、1世紀までに中央インド随一の王国となったようである。バラモン教が中心だったが、仏教も保護下におかれていたようである。重要なのは、サータヴァーハナ朝はローマ帝国交易しており、この時期の遺跡からローマの貨幣が出土することである。

グプタ朝(320年-550年)4世紀に北インドを統一した王朝。チャンドラグプタ1世が建国。マウリヤ朝の初代王と同名で、首都(バータリプトラ)も同じ。マウリア朝の復活をさせたイメージを持つ。3代目のチャンドラグプタ2世(中国名:超日王)が最も有名。法顕(東晋の僧)が仏教を学びに来て、仏国記をまとめる。クシャーナ朝に対して、グプタ朝は様式がインド様式になり、アジャンタエローラの石窟が有名で、ナーランダー僧院が建立される。しかし、カースト制がしみついた農村や、都市部でも難解な教理故に、仏教衰退に繋がるのもこの頃。変わって、ヒンドゥー教が広まっていく。マヌ教典(カーストごとの生活指導書的なもの)がつくられる。サンスクリット文学もグプタ朝の文化で、詩人として有名なカーリダーサには、「シャクンタラー」やメーガドゥータなどの作品がある。さらに「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の二大叙事詩もこの時代。一方、医学や数学十進法ゼロの観念)の進歩も見逃せない。

ヴァルダナ朝(606年―647年)グプタ朝は、5世紀の中期にエフタル(アフガニスタン東北部に勃興した遊牧民族国家)の侵略で滅亡した。7世紀にガンジス川流域にヴァルダナ朝が成立するが、国王はハルシャ=ヴァルダナ戒日王)の一代限り。玄奘がナーランダ僧院で仏教を学んだ。「大唐西域記」を記す。(西遊記のモデル)すでにこの頃は仏教が廃れていて、12世紀にはインドから消滅する。王が後継者を残さす没すると、アラナシュが王位を簒奪したが、唐の使節を捕らえ、吐蓄(とばん:7世紀から9世紀のチベットの統一王国)とリッチャヴィ王朝(ネパール最古のインド=アーリア系の王朝)の兵がインドに侵攻し、使節を救いアラナシュを捕虜として唐に連れ去る。この結果、王国は急速に分裂し北端はカシミールの勢力、東部はベンガル地方のバーラ朝、デカン高原のラーシュトラクータ朝、侵略勢力が北西部からインドに殺到、ヒンドスタン平原は群雄割拠に陥り、西方はラージプート族による諸王朝が建てられる。この時期をラージプート時代と称している。

10世紀、現在のアフガニスタンにガスナ朝が建てられ、インド侵入を繰り返したのは前述。(→研鑽26)12世紀にはガズナ朝を滅ぼしたゴール朝はインド北部まで支配下に置いた。1206年、インド初のイスラム王朝が成立する。奴隷王朝(インド・マムルーク朝)と呼ばれているが、これはゴール朝のマムルークの将軍アイバクを始祖とするからである。アイバクはデリーを建設した。以後のデリーを中心としたイスラム国家をまとめて、デリー・スルタン朝と呼ぶ。

2022年1月6日木曜日

中国によるエンテべの悲劇

https://www.epochtimes.jp/p/2021/11/82542.html
ウガンダのエンテべ空港というと、乗っ取られたエールフランスからイスラエルが主権を犯して軍事作戦を敢行、自国民を救い出した”エンテべの勝利”で有名な空港だ。(この時のウガンダの大統領は奇人アミン大統領である。)

そのエンテべ空港が、中国の一帯一路で、とんでもない罠にハマっている。中国に改修工事を依頼し、中国輸出入銀行から3億2500万ドルの借り入れ、高い2%の金利で27年間。返済総額は4億1798ドル(約560億円)、野党の委員会が調査したところ、非公開の契約で 南アのスタンダードバンクグループのカンパラ支店に中国輸出入銀行の口座があり、エンテべ国際空港に入ってきた収入経費もすべて、一度このカンパラ支店の口座を通さなければならない、つまり収入が赤字であったとして人件費を払おうとしても中国輸出入銀行が拒否すればかなわない、中国への返済優先となる。事実上の支配権を握っているわけだ。乗っ取られたといえる。財務大臣が公式に認めた。

ちなみに、南アのスタンダードバンクも中国工商銀行が出資していてガチガチに中国に固められている。とんでもないやり方で乗っ取っているわけだ。

日本でもこういうことが裏で起こっているような気がする。日本は基本的に人が良いというか、性善説というか、わきが甘い。中国に好きなようにされる恐れがある。

以前、エントリーしたことがあるけれど、中国共産党は、簡体字にして、「義」の字をつぶした。自分さえよければという、えげつないことを国内外で行っているのは、多分に「義」というモラルの原点を失ったからだと思う。でないと、ウィグルでナチ同様かそれ以上の人権弾圧はできない。

私はウガンダに行ったことはないけれど、属性はいくらかある。多くの国が中国の非道を非難し、なんとかしなければならないと思う。

何度か追記しているが、私にはマレーシア華人の教え子(留学生)がたくさんいる。中国共産党の非道と彼らは全く関係がないことを再確認しておきたい。

受験の世界史B 研鑽ー29

https://keijoseph.amebaownd.com/posts/4823434/
マムルーク朝(1250年―1517年)13世紀半ば、ルイ9世の十字軍がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団(バフリーヤ)は、サーリフの夫人で奴隷身分出身だったシャジャル・アッ=ドゥッルを指導者としてルイ9世を捕虜にし、十字軍を撃退した。その後、シャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないサーリフの遺児・トゥーラーン・シャーを殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンに立て新政権を樹立。マムルーク以外のムスリムの抵抗が強く、最有力軍人アイバクと再婚、アイバクにスルタン位を譲る。しかし、バフリーヤ内で支持を失い、アイバクもシャジャル・アッ=ドゥッルも殺害され、クトゥズが台頭、スルタンになる。

1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると、バフリーヤの指導者、バイバルスと和解、アイン・ジャールートの戦いで勝利する。その帰路クトゥズはバイバルスに殺害され、バイバルスは自らスルタンになった。バイバルスは、フレグのイルハン朝やシリアの十字軍国家と戦い、死去する1277年までに、マムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで拡大した。その後、バフリーヤの将軍がスルタンの座につき、1291年には十字軍国家を完全征服して十字軍戦争を終わらせた。以後もクーデターが続いたが、ナースィルの元で、カイロが、イスラム商業都市、学術都市として発展した。

1382年、チェルケス人のブルジー軍団出身のバルクークが王位に就く。以後、トルコ系遊牧民・モンゴル人・クルド人が中心のバフリー・マムルーク朝から、チェルケス人など北カフカス出身者が中心のブルジー・マムルーク朝となる。チェルケス人は、北西コーカサス語を話すスンニー派の人々で、現在のロシアの民族自治共和国やトルコに居住している。このブンジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われず、有力アミールの中から互選された。よって、軍閥同士の内紛が絶えず、15世紀のペスト流行でカイロの繁栄が陰りを見せ、16世紀にはインド洋貿易でポルトガルの進出、さらにオスマン朝との対立が深まり、カイロがオスマン帝国に征服され滅亡する。

いやあ、マムルーク朝、十字軍にもモンゴルにも勝ったが、政権内部のドロドロはなかなかのモノなのである。

2022年1月5日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー28

https://www.gettyimages.co.jp/
アイユーブ朝(1169年―1250年)は、エジプト、シリア、イエメンなどを支配したスンニー派のイスラム王朝で、ザンギ―朝(セルジューク朝の幼い君主の後見人・摂政たるアタベク政権で、十字軍に対しイスラム世界最初の組織的な抵抗を行った。)に仕えたクルド系のサラーフッディーン(サラディン)が始祖。1169年、サラディンはエジプトを支配するファーティマ朝の宰相となり、アッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正当性を主張し、マリク(王)を称するとともに、シーア派王朝からスンニー派王朝に転換した。十字軍に主に相対したのはこのアイユーブ朝である。

ザンギー朝の第2代君主・ヌールッディーンとの対立やファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)の内乱、イエメンへの遠征、ルーム・セルジューク朝との戦いなどを経て、ザンギ―朝をはじめ臣従させることに成功し、半独立から独立への道を拓いた。1187年、ヒッティーンの戦いでイェルサレム王国を破り、イェルサレムを包囲、身代金と引き換えに住民の安全を保障し開城した。岩のドーム(ウマイヤ朝第5代カリフ・マブドゥルマリクが建設を思いたち692年完成:カーバ神殿のあるメッカが当時シーア派に制圧されていたのが建設の動機と推測されている。11世紀に再建され、1554年にオスマン帝国のスレイマン1世がトルコ製タイルを張りなおした。)でイスラームの礼拝が行われる。カトリック信者は追放されたが、東方正教徒は町に残り、十字軍によって追放されていたユダヤ人が帰郷した。

アイユーブ朝にイェルサレムが占領され、イングランド王・リチャード3世、仏王フィリップ2世、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世による第3回十字軍が派遣される。サラディンとリチャード1世の戦闘は1年以上に及んだが、膠着状態から1192年和平が結ばれ、キリスト教巡礼者の入場は許された。1193年、ダマスカスに凱旋後サラディンは死去、領土は王族によって分割され、それぞれの地域を支配する者が軍人にイクタ―を授与する体制になった。

その中で、サラディンの弟・アーディルが再統一し、サラディンがが帯びていなかったスルタンの称号を用いる。第4回十字軍で1204年ラテン帝国が建国された後、アーディルはヴェネツィアピサなどの都市国家との通商関係を継続するため、ナザレやラムラを割譲。その子・カーミルは第4.5回十字軍(→研鑽9)の時も和平を提案、「対外和平と国内再統一」を進めた。実際は十字軍は前述のように1221年ナイル川の氾濫に巻き込まれ壊滅した。その後もカミールは国内統一のためにも、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世と同盟を結ぼうと書簡を交換、動物学に深い関心を持つ彼に、熊・猿。ヒトコブラクダ、アジア象(フリードリヒ2世が凱旋の時使用:クレモナの象)を贈った。(結局イェルサレムは返還されたが、フリードリヒ2世は批判されることになる。=第5回十字軍→研鑽10)

カミールの死後、国家の統一が再び失われた。第6回十字軍では、ルイ9世を捕虜にするが、1250年君主に即位したトゥーラン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝は断絶、マルムーク朝に取って代わられる。

ちなみに、スンニー派に大転換したアイユーブ朝では、現在のマレーシアのシャーフィイー学派が主要な地位を占めていた。…マルムーク朝のことは次回の研鑽で。

2022年1月4日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー27

https://www.y-history.net/wh_note/13note_0402.html
今回の研修は、セルジューク朝を中心に進めたい。
大セルジューク朝(1037年-1194年/ルーム・セルジューク朝1077年-1308年)トルコ系・ペルシャ人(ペルシャ語が第一の共通語)のスンニー派の帝国。建国者はトゥグリル・ベグ。アラル海に近い本拠地からホラーサーン(イラン北部)に侵攻しブワイフ朝を滅ぼし、さらにバグダードを確保。1055年、シーア派のブワイフ朝からスンニー派がバグダードを奪還したことになる。マリク・シャーの時代の宰相ニザームルムルクは、シーア派のファーティマ朝に対抗してニザーミーヤ学院を建てた。1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国からアナトリア半島のほとんどを征服、第1回十字軍の原因の1つとなった。カラハン朝やガズナ朝はセルジュークを専制君主として認めざるを得なかった。
しかし、マルク・シャーの時代が終わると大セルジューク朝は4人の息子の領土配分をめぐり分裂。1077年、スライマーン・イブン・クタルムシュ(:スライマン1世・トゥグリル・ベグの甥の息子)がアナトリア半島でルーム・セルジューク朝(ルームはローマの意でアナトリアの支配を意味する)を建国。その他、シリア、ペルシャなどに分裂。
第1回十字軍の際は、この分裂した国家は自国領を強化・隣国支配の方に関心があり、1096年の民衆十字軍を破ったが、王子十字軍の前進を止めれず、またグルジア王国との戦争の方を重視したので、イェルサレムを奪われる。その後、十字軍国家と断続的に戦闘が続き、第2回十字軍が来るが、西欧側がバラバラに行動したので押し返した。
東から西遼(カラ=キタイ)耶律大石が侵攻、カラハン朝は滅亡、ゴール朝もホラズム朝により滅亡し、1194年にホラズム滅ぼされる。ただ、ルーム・セルジューク朝は残った。
ところで、大セルジューク朝の首都は教科書に書かれていない。君宗は、ニシャプール、レイ、イスファーンなどの都市やその郊外に滞在し、そこが中心地となった。ペルシア語では首都を「玉座の足」としており、移動可能なものだった。

ホラズム・シャー朝(1077年-1231年)アムダリア川流域(アラル海南岸)のホラズム(現在のウズベキスタンとトルクメニスタン)にトルコ系マムルークのアヌーシュ・テギーンがセルジューク朝の総督として任命されたのが起源。西遼(カラ=キタイ)と勢力争いをしながらも、イランに拡大し、1194年セルジューク朝を滅ぼす。さらに1215年ゴート朝を滅ぼし、1217年にはイラクに遠征アッバース朝に圧迫を加えイランのほとんどを屈服させた。しかし、モンゴル軍に滅ぼされる。

イル=ハン国(1258年-1353年)現在のイランを中心にイラク、アナトリア東部まで支配したモンゴル帝国を構成する地方政権で首都はタブリーズ。モンゴル帝国第4代皇帝である兄モンケにより、フレグが西アジア遠征を命じられ(1253年)、1256年イランの行政権を得、暗殺教団(ニザール派=アサシン)を降伏させ制圧。1258年イラクに入りバグダードを攻略アッバース朝を滅ぼし(=カリフ制度の消滅)、さらに1260年、シリアのアレッポとダマスカスを支配下に置いた。1260年、兄モンケの死の報を受けカラコルムへ戻るが、帝位継承戦争が始まったことを知り、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断。
他のモンゴル帝国の地方政権と領土をめぐり対立関係にも陥る。これらに対抗して、イルハン朝は東ローマ帝国と結ぶ。フレグの母や子がネストリウス派(コンスタンティノポリス総主教ネストリオスによって説かれた三位一体・イエスの神性と人性を認めるが、位格は(神各と人格に分離され、受肉によって人性に統合されているとする。431年の公会議で異端とされ、ササン朝ペルシア帝国に亡命、7世紀から中央アジア・モンゴル・中国:唐では景教へと伝播した。)であったことも関係しているかもしれない。フランスのルイ9世と組み、マルムーク朝を責めるが撃退された。(マルムーク朝は、十字軍とモンゴル軍を撃退したわけだ。フレグはこれ以前に死去している。1268年)
1295年、第7代ハンに即位したガザン=ハンはイスラム教に改宗、イル=ハン国はイスラム化する。ハラージュ(地租)税制、イクタ―制などを導入した。しかし、結局ハン位をめぐって1316年頃から解体が進む。

次回は、エジプトに移って、アイユーブ朝とマルムーク朝を中心に研鑽したいと思う。

京阪バスに喝!

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF224EB0S1A221C2000000/
京阪バスは、大阪の自宅に戻れば、極めて身近なバス会社である。その京阪バスが昨年12月22日、京都市内を走る路線で電気バス4台の運行を始めた。ところが、そのバスは、中国のFV大手BYDの日本法人ビーワイディージャパンから購入したもの。(日本国内でもすでに50台以上販売しているらしい。)

京阪バスはJR京都駅と京阪七条駅を結ぶステーションループバスで4台運行。いずれすべてを電気バスに転換したいと考えているようだ。問題は、この中国製のバスである。「世界ブランドの信用力とコスト」が決め手になったと言っている。この日本向けに開発されたJ6という車両は約1950万円、国内のメーカーだと7000万円で、選択の余地がないと言っている。これには中国政府の補助金でダンピング輸出をしているのではないかという専門家の意見もあるようだ。実際、アメリカは、この件について情報開示を求めている。

何よりも、中国国内で、EVバス(乗用車やバイクもだが)は、バッテリーが問題らしく、度々火災を起こしており、かなり危険な乗り物であるのは間違いない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/fe3e066959d0e5b23ff8fe3b64dbdba456c1bee1

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44213830V20C19A4FFE000/

このようなバスを公共交通機関に使うというのはまさに馬鹿だとしかいえない。私は絶対乗らないし、京都市内を車で走っていても見つけたら離れると思う。それぐらい恐ろしい。

そもそも中国のものづくりのマインドは、日本とは違うようだ。よいものを作るというマインドは皆無らしい。日本には、労働者のほとんどに責任感があるが、中国にはない。建築、土木、電気製品、食品…。あらゆる生産物がそのようなマインドで作られている。法律や規制にも平気で抜け道を探す。バレなければいいというマインドは、日本人には理解不能だ。

京阪バスの経営陣は、そのような認識を持っているのだろうか。持っていて、コスト面から導入したのであれば、これは犯罪行為に等しい、私はそう思う。

アフリカ諸国を始め、多くの途上国が中国の一帯一路に騙され、アコギさに辟易としている。…行きはよいよい、帰りは恐い。

私にはマレーシアの華人の教え子がたくさんいる。中国批判をしたが、これは中国共産党と言う犯罪者集団が支配する独裁国家故に大陸で起こっている事実だ。彼らには全く当てはまらないことを付記しておく。

2022年1月3日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー26

http://www.yamada-kouji.sakura.ne.jp/dai_koukai/dk_nenpyo/dk_koumoku/kodai/indo22.html
さらにイスラム王朝の歴史を続けたい。ウマイヤ朝からアッバース朝、さらにその分裂の流れの中で、ポイントとなるのは、1つはカリフ大アミールあるいはスルタンの関係である。「新世界史の見取り図/上」には、昨日研修していて気づいたことが記されていた。カリフは、ムハンマドの出自であるクライッシュ族であることが必須条件である。4代の正統カリフの血筋でなければならない。10世紀のブワイフ朝は、ペルシア系・シーア派でイランに建国されイラクも支配した王朝だが、カリフを名乗らず、大アミールの称号を受けた。日本で言えば天皇に征夷大将軍の称号を受けた鎌倉幕府に近い。後ウマイヤ朝がカリフを名乗ったのは当然だが、セルジューク朝もトルコ系でスンニー派だが、スルタンの称号を受けている。ファーティマ朝は、シーア派だが、始祖のウバイドゥッラーはイマーム・イスマイールの子孫であり、「隠れイマーム」でマフディー(救世主)だとし、スンニー派のアッバス朝に対抗してカリフを名乗る。要するに、スンニー派・シーア派という区別より、アラブ人(しかも君主がクライッシュ族)か非アラブ人かという相違に関係するわけだ。

もうひとつのポイントはマムルーク(トルコ系の軍人奴隷)の問題である。トルコ人はそもそもモンゴル高原の遊牧騎馬民族で軍事的に優れていて、重用された。彼らは奴隷軍人と称され雇い主から雇い主に売られたが、今でいうとプロ野球やプロサッカー選手に近い存在。このマムルークと従来のアラブ人軍人の間で対立が起こりアッバース朝は揺らぐことになる。

さらに、アミール(総督)の自立で、アミールが集めた税金が中央に集まらなくなり、官僚や常備軍への給料が払えなくなる。(アタ-制の機能不全)これもアッバース朝の崩壊の大きな原因となった。

9世紀に各地のアミールが独立し、短命なものが多かったが9世紀後半になると本格的に自立した王朝が生まれる。サーマン朝、10世紀になると、ファーティマ朝とブワイフ朝である。10世紀後半にはカラ=ハン朝ガズナ朝。今日の研鑽の中心は、これらの王朝である。

サーマン朝(873-999年)は、中央アジア最古のイスラム王朝の1つ。イラン系で、アッバース朝の権威のもとでアミールの称号をもち支配したが、自立の証をもつ。それは整備された官僚機構(ササン朝ペルシャやアッバース朝を参考にしている)とマムルークを系統立てられた教育を受けさせ、君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたので、マムルークの輸出が主産業となっていた。(グラームとも呼ばれる。)

ファーティマ朝(909年―1171年)シーア派・イスマーイル派がチュニジアで建国。王朝名は、アリーの妻でムハンマドの娘の名から来ている。969年、エジプトを支配下におさめ、カリフが移転。新都カーヒラ(勝利の都:アラビア語でアル=カーヒラ:西欧の訛りでカイロ)を建設。さらにイェルサレムを含む南シリアに拡大。さらにメッカを含むアラビア半島西部も保護下に置いた。スンニー派勢力を抱えることになり、融和を図りつつ、イスマイール派の最高教育機関(アズハル学院)を開講、イスラム世界各地に布教した。しかし10世紀末以来、マグリブの統治を任されていたベルベル人(ベルベル人と言う名の由来はギリシア人のバルバロイから来ているらしい。)のズィール朝が独立、ズィール朝は1051年スンニー派のアッバース朝カリフを承認した。さらにセルジューク朝、ついで第一次十字軍が到来し領土を失い、エジプトのみの支配となる。

ブワイフ朝(932年-1062年)シーア派・十二イマーム派の王朝で、建国の三兄弟の父親の名から来ている。「大アミール」以外の特記事項としては、イクタ―制(アタ-制が機能しなくなったので、軍人に対して給与の代わりに徴税権:イクタ―を与え、直接農村から徴税するようにした。多くの王朝で採用されイスラム世界で続いていく制度)である。

カラ=ハン朝(9世紀―1212年)イラン系のサーマーン朝を滅ぼし、中央アジアのオアシス地域を支配したトルコ系の王朝。君主がイスラムに改宗後、聖戦をを挑み、中央アジアのトルコ化・イスラム化が進む。

ガズナ朝(955年―1187年)サーマーン朝のマムルーク出身のアミールだったトルコ系のアルブテギーンが、半独立した政権が基礎で、5代目のサブク・ティギーンの時、サーマーン朝に代わってアフガニスタンの大部分を支配。この王朝の最大の特徴は、インドに侵攻し、イスラム化の端緒をひらいたことである。

次回はセルジューク朝である。

2022年1月2日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー25

https://ameblo.jp/m-battleship-lykeion/entry-12478352520.html
ウマイヤ朝からアッバース朝への歴史が、今日の研鑽である。
ウマル2世の治世、イスラムに改宗する原住民が急増、軍に入隊を希望する者、アラブ人ながら従軍を忌避する者が増えた。これを受け、ウマル2世はアラブ国家からイスラム国家への転換を図る。塀の採用や徴税(アラブ人もハラージュ:土地税を払うことになった。)で全てのムスリムを平等とした。さらにズィンミー(ユダヤ教徒やキリスト教徒の庇護された啓典の民)にイスラムへの改宗を奨励し、改宗が進んだ。これによって、ウマイヤ朝のジズヤ(人頭税:ムスリムには課せられない)は大幅に減少した。コンスタンチノープル攻略を目論んだが失敗。
ヤズィード2世の即位後、反乱が頻発、第10代カリフヒシャームは経済基盤の健全化と専制化を進めたが、マワーリー(征服民の改宗者)問題を解決できず、744年ワリード2世の統治に不満を持つシリア軍がヤズィード3世のもとに集まり反乱、ワリード2世を殺害、ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去、兄弟のイブラーヒームが第13代カリフとなったが、マルワーン2世(メソポタミア北部とアルメニア総督)が反乱、第14代カリフとなった。(第三次内乱)

一方、カルバーラの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝に復習の念を抱いていた。フサインの異母兄弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、正当な後継者であるとされていたが700年死亡。「隠れイマーム」とされ、その息子アブー・ハシームがイマームの地位を継いだとされたが彼も死亡。そのイマームの地位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたとされた。彼は各地に秘密の運動員を派遣、741年に挙兵、750年ウマイヤ朝・マルワーン2世はザーブ河畔の戦いで敗れエジプトに逃れたが殺害され、ウマイヤ朝は滅亡。(ちなみに残存したウマイヤ家は、イベリア半島に後ウマイヤ朝を建国。)

…要するに、ウマイヤ朝崩壊の原因は、改宗したマワーリーとアラブ人の間の税制上の矛盾への不満と、シーア派の怨念であるといえる。なお、シーア派の運動はペルシャ人などのマワーリーがムスリムであるにも関わらずジズヤ(人頭税)の支払いを強要されており、イスラムの原理の平等性に反するものであった。

シーア派の力を借りてカリフの座に就いたアッバース朝のアブー=アル=アッバースは、安定政権の為には、アラブの多数派を取り込む必要がありシーア派を裏切りスンナ派に転向した。(以後シーア派の反乱は続く。)とはいえ、ムスリムの平等の確認、非アラブ人ムスリムへのジズヤと、アラブ人への特権であった年金の支給を廃止した。さらに、ウラマー(宗教指導者/法学者)を裁判官に任用し、シャリーアに基づく統治を行い、征服朝朝のアラブ帝国からイスラム帝国に姿を変えた。これをアッバース革命という。
751年、アッバース朝軍は、高仙芝率いる3万の唐軍をタラス河畔の戦いで破りシルクロードを支配下に置く。しかし、756年前述の後ウマイヤ朝、776年にはアルジェリアでシーア派(ハリージュ派)のルスタム朝が成立し、イスラム帝国の統一性は崩れた。

第二代カリフのマンスールは、首都のハーンミーヤがアリーの故郷クーファに近くシーア派の影響が高まるのを恐れ、バグダードに新都を建設した。(762年~)さらにマンスールはペルシア人の軍を近衛軍とし、ササン朝ペルシアの学問を大規模に移植した。さらに、カリフに、イマーム、神の代理人といった称号を加え神権的な指導者としての権威位を確立したが、あくまでウラマー(宗教指導者・法学者)の同意に基づき、無謬の解釈能力は認められなかった。(スンニー派の指導者としてのカリフの特性)
第五代ハールーン・アッラシードの時代、アッバース朝は最盛期となり、バグダードは、人口150万、6万のモスク、3万ちかくの公衆浴場をもつ、産業革命以前の世界最大の都市となり繁栄した。しかし、マグレブ地方では、789年モロッコのイドリース朝(シーア派)、800年チュニジアのアグラブ朝(スンニー派)が成立、アッバース朝の統治下から離れた。
第六代カリフは、父から帝国中枢部を託された弟のアミーンが即位(809年)したが、2年後東部を任された兄のマアムーンがバグダードを攻略して処刑、第七代カリフ位につく。819年、東部を託していた武将のターヒルがターヒル朝を起こし支配下におさめた。とはいえ、マアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ち「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書(ネストリウス派キリスト教徒に命じて、ギリシア語をアラビア語に翻訳させた。)からなる総合的研究施設をつくる。バグダードは一代文化センターとしての機能を果たすようになる。836年、第八代カリフにムウタスィムが即位。彼はマルムーク(軍事奴隷:この頃ではテュルク系遊牧民)を導入したが、各地で反乱が頻発。第十代カリフ・ムタワキル没後は無力なカリフが頻繁に交代し衰退していく。868年には、エジプトがトゥールーン朝のもとで事実上独立した。9世紀後半には、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により穏やかに統合される時代になり、10世紀には、北アフリカのシーア派のファーティマ朝、後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、3人のカリフが並立した。
https://sekainorekisi.com/world_history/
945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領、アッバース朝のカリフの権威を利用し、「大アミール(司令官・総督を意味する)」と称してイラン・イラクを支配した。これにより、アッバース朝の支配は形式的で宗教的・政治的権威だけになった。
1055年、スンニー派の遊牧トルコ人の開いたセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバクダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を得て、イラン・イラクの支配権を握った。
以後、モンゴルの襲来でバクダードは破壊された。しかしマムルーク朝によって、カイロでアッバース家のカリフが擁立され250年ほど次々と位に就く。(マムルーク朝の合法性を与える価値があったからである。)1517年、オスマン帝国のセリ無1世によって、マルムーク朝が滅ぼされ、最後のカリフ・ムタワッキル3世はイスタンブールに移った。同年の彼の死後、アッバース朝は完全に滅亡した。

2022年1月1日土曜日

受験の世界史B 研鑽ー24

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。正月はリセットですので、世界史Bの研鑽も、これまでの空白期間だったヨーロッパ中世史をリセットして、イスラム王朝の変遷に移りたいと思います。
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https://blog.goo.ne.jp/t-shintani/e/a0c76bb3ac418ec0d98c6465aa45bc50
6世紀にビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争いが激しくなり、インドと地中海を結ぶ交易路は、紅海ルートが栄え、アラブ人の商業活動が盛んになる。一方でユダヤ教徒やキリスト教徒が来航し、一神教が伝わる。メッカの商人だったムハンマドが、啓示を受け、イスラムを開き多神教批判をし、メディナに聖遷(ヒジュラ)し勢力を得(622年イスラム歴=ヒジュラ歴元年)、630年メッカに攻め込み、多神教の神殿をイスラムの聖殿に定めた。632年アラビア半島一帯を支配、ムハンマドの死後、アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと正統カリフ時代が続くが、この辺は倫理でも教えているので割愛。

ウマルの時代、642年ササン朝ペルシアをニハ―ヴァントの戦いで壊滅に追い込みイランを支配下におく。シリアやエジプトへの拡大では、ビザンツ帝国内でその地の単性論者やユダヤ教徒が弾圧されていて信仰の自由と自治をを認めるイスラムの支配を歓迎していたことも大きい。

ムハンマドと父祖を同じくクライッシュ族の名門ウマイヤ家のシリア総督で、第3代カリフ・ウスマーンの従弟であるムアーウィアが、アリーのカリフ就任に異を唱え(ウスマーンの暗殺への関与を疑った)、660年カリフを名乗り、アリーと内戦となる。ムハンマドの3番目の妻で初代カリフアブー=バクルの娘であるアーイシャらとアリーは戦い(ラクダの戦い)勝利したが、657年スィッフーンの戦いで妥協(和平協議)したアリーを、661年ハワーリジュ派は「裁定は神のみに属す」と反発、アリーの陣営を離脱、アリーを暗殺するに至る。アリーの長男・ハサンは多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退メディナに隠棲する。ムアーウィアはダマスクスで、ほとんどのムスリムからの忠誠の誓を受け、正式にカリフとして認められた。これがウマイヤ朝である。

ムアーウィアの死後、その息子ヤズィード1世がカリフを継承した。(世襲継承なので王朝と見なされる。)カリフ位については、アリーの次男フサインやウマルの子などが推されていた。フサインは70人余りの軍勢でウマイヤ朝4000に向かい、フサインは殺害される。これがカルバラーの悲劇で、シーア派誕生の契機となる。ヤズィード1世は3年後死去。その息子ムアーウィア2世がカリフとなったが20日ほどで死去。この間、683年メッカでイブン・アッズバイル(父はムハンマドの最初の妻の甥、母がアブー=バクルの長女)がムアーウィア2世のカリフ位を認めず、カリフ即位を宣言。ウマイヤ家に不満を抱く、シリア・イラク・エジプトなどヨルダン以外のムスリムが忠誠を誓い、2人のカリフが存在することになり、10年間の第二次内乱が起こる。685年、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーがアリーの息子でフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマーム(スンニー派では宗教共同体の統率者/シーア派では最高指導者)でありマフディー(イスラムの文脈では救世主)であるとして担ぎ上げ、クーファ(イラク)にシーア派政権を樹立した。三つ巴の戦いとなる。まず、シーア派のムフタール軍が687年鎮圧された。ウマイヤ朝では、指示する部族会議でマルワーン(ウスマーンの従兄弟)がカリフ候補者として志願、選出された。以後、イブン・アッズバイルを支持する勢力を駆逐し、ウマイヤ朝の支配を回復した。以後、マルワーン家がウマイヤ朝の世襲カリフとなる。

マルワーン家の二代目カリフ・アブドゥルマリク。彼は中央集権化を進める。三代目のワリード1世は、北アフリカの征服活動を進め、ジブラルタル海峡を渡り西ゴート王国を破り、732年のトゥール・ポワティエの戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアではトルコの騎馬民族を破って、プハラやサマルカンドといったソグト人の都市国家、ホラズム王国を征服。この中央アジア征服の過程で、マワーリー(征服された人々:改宗民・被征服民・解放奴隷)非ムスリムの兵も軍に加えられ軍の非アラブ化が進むことになる。…つづく。