2022年1月10日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー31

https://www.y-history.net/appendix/wh0101-127.html
3連休はゆっくりさせてもらった。研鑽の続きは、イランの歴史をやろうと思う。歴史時代(文字記録のある時代)の最初のイランの国家はエラム人(言語的には系統不明)によるもので、紀元前3000年の終わりごろからクティク・インシュシナク王のもとで最初の統一的な政治勢力となったが、紀元前1世紀にアッシリアによって滅ぼされたようだ。しかし、このエラム人の作り上げた政治社会の仕組みと文化は、アケメネス朝によって継承されている。

紀元前20世紀、アーリア人がイラン高原やインドに南下する。紀元前9世紀頃にはアーリア人の中でもペルシア人とメディア人がアッシリアの文献に登場する。中でもメディア人の王国が勢力を得、アッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ強国になるが、さらに前6世紀(前559年)にキュロス2世により、アケメネス朝が成立する。このアケメネス朝はサラトップという軍管区と王の目・王の耳と呼ばれた監察官システムをもち、各地の現地人有力者を重用し、その上に君臨した帝国であった。その後、ダレイオス1世諸王の王を名乗る。かのギリシアのポリスとのペルシア戦争を行い敗北する。紀元前5世紀末頃には、分割相続と税負担増で軍務を支えたペルシア人封土所有者が没落し、軍の中心は傭兵へと移る。紀元前334年、アレクサンドロスダレイオス3世は、イッソスの戦いガウガメラの戦いで大敗、滅亡する。

アレクサンドロスの死後、イランはセレウコス1世によりセレウコス朝が支配することになる。ギリシア化(ギリシア語がアラム語と並ぶ共通語となった。ギリシアの社会制度・文化の普及が進んだ。)しかし、セレウコス朝はシリアに中心が置かれ、負担の多かった西部でパルティア(=アルケサス朝)がアルケサス1世によって独立した。このパルティアは、インドのクシャーナ朝やローマ帝国と抗争を繰り広げ、かのクラッススを戦死させた。最終的にはイラン高原南西部の反乱で滅亡。

224年にアンデシール1世ササン朝を建て、旧パルティアの全領土を支配下に置き、クシャーナ朝との戦いに決定的な勝利を得、ローマとの戦いも、第2代・諸王の王のシャーブール1世は、244年マッシナの戦いで皇帝ゴルディアヌス3世を戦死させ、さらに260年エデッサの戦いでヴァレリアヌス(軍人皇帝時代の皇帝)を捕虜にした。また、国教をゾロアスター教とした。最盛期の529年には、東ローマ帝国内の異教排除で失業した学者がササン朝に移住、ギリシア語・ラテン語の文献の翻訳やアヴェスター(ゾロアスターの聖典)を整備した。558年、長年悩まされた東方のエフタルとは、突厥と同盟を結び滅亡させることにも成功した。ササン朝は、公用語をギリシア語からペルシア語に変え、ゾロアスター教を基軸にペルシア文化の再興をした王朝だったといえる。

そのササン朝も長らく東ローマ帝国と抗争を繰り返す中で、紅海の海路による貿易が活発化し、その恩恵を受けたイスラム勢力(第2代カリフ・ウマル)によって滅ぼされる。636年のカーディシーヤの戦いの敗北の後も何度か戦うが、651年、最後の王・ヤズデギルド3世の死によって終わる。

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