2022年1月19日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー37

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引き続き、モンゴル帝国についての研鑽。第5代皇帝のフビライの時代。1264年、フビライが単独のモンゴル皇帝になった時、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのは、モンゴル高原、天山ウィグル王国、チベットより東側のみ。パトゥのヨーロッパ遠征やフレグの征西のような帝国を挙げての遠征の遂行は不可能となった。しかし、フビライはフレグのイルハン朝を認めた。またアリクブケの命でチャガタイ家当主となったアルグは離反してフビライ支持に回った。

1264年、フビライは統一クリルタイの開催を呼びかけ、チャガタイ家のアルグ、ジュチ家(キプチャク=ハン国)のベルケ、そしてイルハン国(フビライと同じトゥルイ家)のフレグの三者が会しての正式なクリルタイが必要であった。しかし、1265年フレグが突然死去、1266年ペルケも陣没、続いてアルグも死去し、実現しなかった。諸王朝は当主の死で混乱する。

1268年、オゴタイの五男の子・カイドゥが公然とフビライに反旗を翻す。フビライにカイドゥ牽制のために派遣されたチャガタイ家のバラクは、チャガタイ家の当主の座を奪い、カイドゥと手を組みサマルカンドなどのモンゴル皇帝直轄領を奪った。しかしカイドゥとバラクは徐々に対立。ジュチ・ウルスの新当主・モンケ・テムルが警戒を強めたが、カイドゥは和平を結び、逆にバラクと戦う。敗退したバラクは、チャガタイ家に約束された中央アジアの取り分を主張し、1269年にクリルタイを開催し三分割した。この三分割の際、バラクに与えられた領土は、故フラグのイルハン国の領土が含まれており、バラクは、フラグの後継者・アバカと戦う羽目になり大敗北した。1270年、フビライからアバカのイルハン国は正式に認められ、ジュチ家もハヤブサなど祝賀の献上品を贈った。

1271年、フビライは、国号を大元と改め、同年バラクは急死、カイドゥが中央アジアの最有力者となった。(=カイドゥ王国)その後カイドゥの死後、チャガタイ・ウルスがオゴタイ・ウルスを併合しチャガタイ=ハン国に変貌する。

第3代皇帝・モンケ死後40年間にわたった内部抗争は、大元(元朝)、中央アジアのチャガタイ=ハン国、ジュチ・ウルスのキプチャク=ハン国、西アジアのフラグ・ウルスのイルハン国の4大王朝に分かれ、元にいるカーン(モンゴル皇帝)を盟主とする緩やかな連合国家となった。この後のユーラシア大陸の自由な交易が保障された繁栄の時代を、バクス・モンゴリカと呼ぶのである。…つづく。

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