2022年1月6日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー29

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マムルーク朝(1250年―1517年)13世紀半ば、ルイ9世の十字軍がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団(バフリーヤ)は、サーリフの夫人で奴隷身分出身だったシャジャル・アッ=ドゥッルを指導者としてルイ9世を捕虜にし、十字軍を撃退した。その後、シャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないサーリフの遺児・トゥーラーン・シャーを殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンに立て新政権を樹立。マムルーク以外のムスリムの抵抗が強く、最有力軍人アイバクと再婚、アイバクにスルタン位を譲る。しかし、バフリーヤ内で支持を失い、アイバクもシャジャル・アッ=ドゥッルも殺害され、クトゥズが台頭、スルタンになる。

1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると、バフリーヤの指導者、バイバルスと和解、アイン・ジャールートの戦いで勝利する。その帰路クトゥズはバイバルスに殺害され、バイバルスは自らスルタンになった。バイバルスは、フレグのイルハン朝やシリアの十字軍国家と戦い、死去する1277年までに、マムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで拡大した。その後、バフリーヤの将軍がスルタンの座につき、1291年には十字軍国家を完全征服して十字軍戦争を終わらせた。以後もクーデターが続いたが、ナースィルの元で、カイロが、イスラム商業都市、学術都市として発展した。

1382年、チェルケス人のブルジー軍団出身のバルクークが王位に就く。以後、トルコ系遊牧民・モンゴル人・クルド人が中心のバフリー・マムルーク朝から、チェルケス人など北カフカス出身者が中心のブルジー・マムルーク朝となる。チェルケス人は、北西コーカサス語を話すスンニー派の人々で、現在のロシアの民族自治共和国やトルコに居住している。このブンジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われず、有力アミールの中から互選された。よって、軍閥同士の内紛が絶えず、15世紀のペスト流行でカイロの繁栄が陰りを見せ、16世紀にはインド洋貿易でポルトガルの進出、さらにオスマン朝との対立が深まり、カイロがオスマン帝国に征服され滅亡する。

いやあ、マムルーク朝、十字軍にもモンゴルにも勝ったが、政権内部のドロドロはなかなかのモノなのである。

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