2022年1月20日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー38

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モンゴル帝国の社会制度について。千戸制(ミンガン)は、1000人程度の兵士を供出可能な遊牧集団を領する将軍や部族長がその長に就き、さらにその下に100人程度の兵士を供出する百戸、その下に10人程度の兵士を供出する十戸が置かれていた。十戸の長以上の遊牧戦士がモンゴル帝国の支配者層である遊牧貴族(ノヤン)となった。千人戸の長のうち、有力なものは複数の千戸を束ねる万戸となり、戦時には方面軍の司令官職iを務めた。チンギス=ハンの一族は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、領民(ウルス)として分与された千戸集団の上に君臨する上級領主階級となった。カーンや王族はオルド(幕営)をもち。皇妃ごとにオルドを持っていた。それぞれのオルドには領民がいて、長である皇后が管理した。

行政制度について。ケシクと呼ばれる皇帝の側近が仕え、親衛隊を務めるとともに、身辺の世話を行った。弓矢の世話、太刀持ち、鷹匠、書記官、門衛、料理番、酒係、車係、馬係、衣装係、ラクダ係、羊飼いなどの様々な職種に分かれていた。モンゴル帝国は、連合国家であるが、中央政府や占領地の統治機関は固定の直轄支配下にあり、上記のケシク内のモンゴル貴族から任命された断事官が置かれ、行政実務や訴訟を担当した。地方では、多くがモンゴル人から任命された監察官が都市ごとに置かれていた。実務において末端の文書・財務行政を担ったのが、書記官で、現地の言語に通じている漢民族・西夏人・契丹人・女真人など漢人やウィグル人・ムスリムなど色目人の出身者が参入した。駅伝制度で1日100㎞の速度で帝国細部に伝えることが出来た。

軍事制度について。千戸制は日常的に共同で遊牧するとともに、巻き狩り(野生動物を囲い込む狩り)を行ったりして団結と規律を高めていた。遠征時には、自前で馬・武具・食料・日曜道具の一切を用意。軍旗違反には生きたまま革袋に詰められ平らになるまで馬に踏みつぶす、あるいは釜茹でなどの処刑法があった。また南方の多湿地帯、西アジアの砂漠地帯、水上の戦闘などでは、被支配民族の定住民を徴募し、割合も増加した。元の場合も千戸制にならって、数戸ごとに1名程度の割り当てであった。情報収集にも熱心であったようである。

経済政策では、商業ルートを抑え、国際商業の活性化をはかって利益を上げる重商主義的な政策であるが、特徴的なことに関税をかけず、最終売却地で商品価格の1/30の売却税をとった。なお、占領地の税は銀に特化しており、国際通貨である銀を国際商業に投資する戦略を取った。ユーラシアを横断することが可能になり、フラノ=カルビニ(教皇の命により偵察も兼ねてカラコルムに向かった修道士)、ウィリアム=ルブルック(ルイ9世の命によりカラコルムでモンケ=ハンに面会)、イブン=バットゥータ(モロッコから世界中を回ったウラマー・探検家)、マルコポーロ(ヴェネツィアの商人)モンテ=カルバノ(教皇の命により、イルハン国経由で元に行った修道士)などの旅行記が残された。

文化では、シャーマニズムが本来の宗教であるが、仏教やネストルウス派キリスト教、イスラム教を信仰する人々と古くから接してきたため、神を信じる宗教を平等に扱った。また、支配者層であったが人口の上では少数派であったので現地の文化を徐々に取り入れる傾向が強かった。ジュチ・ウルスはイスラムに改宗している。ただし、モンゴルのジャサクと呼ばれる遊牧民の慣習法とジンギス=ハン勅令・訓言を固く守り、14世紀以後、東方ではチベット仏教、西方ではイスラム教を受け入れていくが、シャサクに基づく社会制度は極力維持された。中国では、イスラム科学が伝えられ、科挙が廃れ儒学全体が廃れたが現実的な朱子学が地位を高めた。科挙の部分復活に際しては朱子学も採用される。バグダッドの知恵の館消失によってモンゴル帝国は文明の破壊者というイメージがあるが、フラグはニザール派の文書庫を摂取して守ったり、マラーガに天文台と図書館を建設したりして、イルハン朝は文化を守ったといえる。

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