2022年1月2日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー25

https://ameblo.jp/m-battleship-lykeion/entry-12478352520.html
ウマイヤ朝からアッバース朝への歴史が、今日の研鑽である。
ウマル2世の治世、イスラムに改宗する原住民が急増、軍に入隊を希望する者、アラブ人ながら従軍を忌避する者が増えた。これを受け、ウマル2世はアラブ国家からイスラム国家への転換を図る。塀の採用や徴税(アラブ人もハラージュ:土地税を払うことになった。)で全てのムスリムを平等とした。さらにズィンミー(ユダヤ教徒やキリスト教徒の庇護された啓典の民)にイスラムへの改宗を奨励し、改宗が進んだ。これによって、ウマイヤ朝のジズヤ(人頭税:ムスリムには課せられない)は大幅に減少した。コンスタンチノープル攻略を目論んだが失敗。
ヤズィード2世の即位後、反乱が頻発、第10代カリフヒシャームは経済基盤の健全化と専制化を進めたが、マワーリー(征服民の改宗者)問題を解決できず、744年ワリード2世の統治に不満を持つシリア軍がヤズィード3世のもとに集まり反乱、ワリード2世を殺害、ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去、兄弟のイブラーヒームが第13代カリフとなったが、マルワーン2世(メソポタミア北部とアルメニア総督)が反乱、第14代カリフとなった。(第三次内乱)

一方、カルバーラの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝に復習の念を抱いていた。フサインの異母兄弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、正当な後継者であるとされていたが700年死亡。「隠れイマーム」とされ、その息子アブー・ハシームがイマームの地位を継いだとされたが彼も死亡。そのイマームの地位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたとされた。彼は各地に秘密の運動員を派遣、741年に挙兵、750年ウマイヤ朝・マルワーン2世はザーブ河畔の戦いで敗れエジプトに逃れたが殺害され、ウマイヤ朝は滅亡。(ちなみに残存したウマイヤ家は、イベリア半島に後ウマイヤ朝を建国。)

…要するに、ウマイヤ朝崩壊の原因は、改宗したマワーリーとアラブ人の間の税制上の矛盾への不満と、シーア派の怨念であるといえる。なお、シーア派の運動はペルシャ人などのマワーリーがムスリムであるにも関わらずジズヤ(人頭税)の支払いを強要されており、イスラムの原理の平等性に反するものであった。

シーア派の力を借りてカリフの座に就いたアッバース朝のアブー=アル=アッバースは、安定政権の為には、アラブの多数派を取り込む必要がありシーア派を裏切りスンナ派に転向した。(以後シーア派の反乱は続く。)とはいえ、ムスリムの平等の確認、非アラブ人ムスリムへのジズヤと、アラブ人への特権であった年金の支給を廃止した。さらに、ウラマー(宗教指導者/法学者)を裁判官に任用し、シャリーアに基づく統治を行い、征服朝朝のアラブ帝国からイスラム帝国に姿を変えた。これをアッバース革命という。
751年、アッバース朝軍は、高仙芝率いる3万の唐軍をタラス河畔の戦いで破りシルクロードを支配下に置く。しかし、756年前述の後ウマイヤ朝、776年にはアルジェリアでシーア派(ハリージュ派)のルスタム朝が成立し、イスラム帝国の統一性は崩れた。

第二代カリフのマンスールは、首都のハーンミーヤがアリーの故郷クーファに近くシーア派の影響が高まるのを恐れ、バグダードに新都を建設した。(762年~)さらにマンスールはペルシア人の軍を近衛軍とし、ササン朝ペルシアの学問を大規模に移植した。さらに、カリフに、イマーム、神の代理人といった称号を加え神権的な指導者としての権威位を確立したが、あくまでウラマー(宗教指導者・法学者)の同意に基づき、無謬の解釈能力は認められなかった。(スンニー派の指導者としてのカリフの特性)
第五代ハールーン・アッラシードの時代、アッバース朝は最盛期となり、バグダードは、人口150万、6万のモスク、3万ちかくの公衆浴場をもつ、産業革命以前の世界最大の都市となり繁栄した。しかし、マグレブ地方では、789年モロッコのイドリース朝(シーア派)、800年チュニジアのアグラブ朝(スンニー派)が成立、アッバース朝の統治下から離れた。
第六代カリフは、父から帝国中枢部を託された弟のアミーンが即位(809年)したが、2年後東部を任された兄のマアムーンがバグダードを攻略して処刑、第七代カリフ位につく。819年、東部を託していた武将のターヒルがターヒル朝を起こし支配下におさめた。とはいえ、マアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ち「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書(ネストリウス派キリスト教徒に命じて、ギリシア語をアラビア語に翻訳させた。)からなる総合的研究施設をつくる。バグダードは一代文化センターとしての機能を果たすようになる。836年、第八代カリフにムウタスィムが即位。彼はマルムーク(軍事奴隷:この頃ではテュルク系遊牧民)を導入したが、各地で反乱が頻発。第十代カリフ・ムタワキル没後は無力なカリフが頻繁に交代し衰退していく。868年には、エジプトがトゥールーン朝のもとで事実上独立した。9世紀後半には、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により穏やかに統合される時代になり、10世紀には、北アフリカのシーア派のファーティマ朝、後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、3人のカリフが並立した。
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945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領、アッバース朝のカリフの権威を利用し、「大アミール(司令官・総督を意味する)」と称してイラン・イラクを支配した。これにより、アッバース朝の支配は形式的で宗教的・政治的権威だけになった。
1055年、スンニー派の遊牧トルコ人の開いたセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバクダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を得て、イラン・イラクの支配権を握った。
以後、モンゴルの襲来でバクダードは破壊された。しかしマムルーク朝によって、カイロでアッバース家のカリフが擁立され250年ほど次々と位に就く。(マムルーク朝の合法性を与える価値があったからである。)1517年、オスマン帝国のセリ無1世によって、マルムーク朝が滅ぼされ、最後のカリフ・ムタワッキル3世はイスタンブールに移った。同年の彼の死後、アッバース朝は完全に滅亡した。

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