2014年8月31日日曜日

サッカー部の試合を見に行く3

試合前出る選手も応援の部員も
一体になって円陣を組んで気合を入れる
サッカー部の試合を見に行ってきた。一昨年、正月の高校選手権に繋がる公式戦を見逃して以来、1回戦を見に行くことにしている。対戦校を聞くと府立F高校。体育科の3年生の生徒は、「10対0で勝ちます。」と言い切った。おいおい。大丈夫か。

試合会場は、わが自宅のある枚方市から淀川をはさんだ対岸の高槻市・府立O高校。バイクで30分ほどで着いた。3年生の生徒も多く応援に駆けつけてくれていた。サッカー部、なかなかの人気だ。

試合が始まった。ところがなかなか点が入らない。相手も必死で守っている。コーナーキックからやっと1点入った。これで硬さが取れたのか、前半で4点。中でもびっくりしたのが、10番のキャプテンY君のドリブルだ。何人抜いたか判らない。結局自分で決めた。凄いな。もしW杯だったら、スーパーゴールということで何度もTVで流れるくらいのシュートだった。

後半は、相手に疲れも出たようで、5点。どうみてもPKやで、というようなシーンもあったので、生徒の公約は、嘘ではなかったわけだ。終了10分前に控えのキーパーのT君が入った。普通科の生徒で、可愛がっている生徒だ。ニコッと笑って「行ってきます。」だが、緊張でガチガチ。危ないシーンもあった。ベンチでは、「おいおい。」(笑)とはいえ、無事に役目を果たしたのだった。ボランチのM君もなかなかいい動きを見せていた。1年生の時、担任をしていた生徒で、彼がレギュラーで公式戦に出ているのを見に行くのが前々からの約束だった。ついに念願を果たせたのだった。

彼らが、1年生の頃から、ずっと校舎の周りを走り続けている姿を見てきた。背番号も60番台とか70番台だった。それが、ついに一桁になって、公式戦で闘っているのだ。一方、3年生でもベンチに入れない生徒も、野球部同様たくさんいる。声をからして応援している姿も同じだ。

文化祭が終わった後、まだ勝ち残っていたら、応援に行きたいと思っている。

2014年8月30日土曜日

カメルーンで母子手帳国際会議

ケニアの母子手帳
8月29日の毎日新聞の朝刊に、7月に東京の国連大学で開かれた国際母子手帳シンポジウムの話と、10月にカメルーンで開催される第9回「母子手帳国際会議」の話が掲載されていた。途上国における保健医療政策改善に大きな意義があると思われるのでエントリーしたい。

大阪大学の中村安秀先生という方が、30年ほど前インドネシアにJICA専門家として子供の死亡率を下げるプロジェクトに関わった際、母子手帳の必要性を感じ、研究を始められたとのこと。小さな町でモデルケースとして母子手帳を作製、州ごとに(母子手帳の)ファンが出来て、JICAやユニセフの支援も受けて全国に広げることに成功。現在では、理解が広がり、インドネシアやベトナムで企業が母子手帳の印刷を支援したいとの申し出も出てきたという。

2009年、ケニア人女性のミリアム・ウェレ博士(米のJ・ホプキンス大学で公衆衛生学博士号、ナイロビ大医学部長やWHOエチオピア事務所所長などを歴任した凄い人だ。)が、日本を訪れた際、中村先生と知り合い、「今まで、どうして知らなかったんだろう。」と衝撃を受け、翌年、ケニアでワークショップを開いた。一般の人はとても喜んだのだが、官僚トップの理解をえるのには時間がかかったそうだ。今は保健センターを通じで配布されるようになった。(JICAの杉下智彦アドバイザーによればケニアの母子手帳の配布率は93%にまでに拡大しているという。)さらにアフリカ各国に拡大するため、会議を何度も開催。昨年は12カ国が会議に参加、理解の輪が広がっているようだ。

ところで妊産婦の死亡をめぐって「アフリカにおける妊産婦死亡率削減を加速するキャンペーン」(CARMMA)が2009年発足。12年時点で37カ国が参加している。アフリカでは出産関連で毎日450人が死亡しており、世界の妊産婦死亡の57.4%を占めている。それでもCARMMAの成果で、関連予算の増額など徐々に成果が出始めている。ウェレ博士は、中でも母子手帳の役割が大きいと考えている。今回の「母子手帳国際会議」も、このCARMMAと連動しているようだ。アフリカでは医療機関が徒歩圏内にない所が多く、地域社会におけるヘルスワーカーの役割が大きい。彼らが母子手帳を有効活用することによって、高次医療機関とうまく連携し、リスクの高い出産を削減できるのではないかと期待しているわけだ。

こんな話も書かれていた。オックスフォード大学とJICAが共同で開発した母子手帳アプリがあるらしい。ケニア女性の携帯使用率が高い点に注目して開発され、アプリを使って妊婦検診や乳児検診に行くと小額だが一定のお金が送金される仕組み。「お金がないから行けない」という問題を防ぐだけでなく、病院を訪れる動機付けとしても有効だという。

…というような経過があって、カメルーンで今回第9回「母子手帳国際会議」が開かれるわけだ。しかしここで、大きな問題となるのは、識字率である。ケニアはアフリカでも識字率が高いし、経済的にもまだ恵まれているほうだ。母子手帳以前の女性の識字率が低いという問題を抱えている国も多いのが現実。そこを乗り越えていかねばならない。ウェレ博士をはじめとした多くのアフリカ女性の壮大な戦いを、もっともっと応援していくべきであると思った次第。

世界の母子手帳が使われている国・地域
NPO HANDS(Health and Development Service) HPより
…中村安秀先生が代表理事をされているNPO・HANDSのHPは、非常に勉強になる。アフリカでは、現在ケニア以外にも、セネガル、コートジボワール、ニジェール、ベナン、ブルキナファソといった旧フランス領の国々で母子手帳の導入が進んでいた。(もちろんフランスも母子手帳制度を持っている。)マダガスカル、カメルーンなどでもプロジェクトが進んでいるようである。タンザニアとウガンダはおそらくケニアとの関わりで導入されつつあるようだ。
アフリカ以外にも目を移すと、ブータンやパレスチナが完全導入している。意外な世界地図だった。今回のエントリーに興味をもたれた方は是非、以下のHPもご覧ください。

http://www.hands.or.jp/mch/9thconf.html

2014年8月29日金曜日

”WICKED” その7 奮起

昨日、朝のSHRに行ったら、なにやら生徒がクジを引いていた。「席替えしたいと思います。」と団長とクラス代表。聞くと、文化祭の大道具や体育祭のポンポン、団旗など様々なモノが溢れてきたので5列にしたいんだそうだ。以前そういう相談を受けていたので問題はない…いや、ある。3年生は選択授業が多い。わがクラスの教室で授業している先生の承認を得る必要がある。さっそく私が聞いてみると、多くの先生方はOKだったが、地理のI先生が難色を示された。先日6列の座席で席替えをしたばかりらしい。で、団長の出番である。昼休みに平身低頭して了承をいただいたとのこと。その報告を受けて、終わりのSHRで席替えしておくように伝えた。教室に入ると、団長とクラス代表がガンガン指示していた。いいなあ。一気に、クラスの雰囲気が変わった。舞台の歌の練習も始まった。副担任の音楽のY先生の元で、レッスンを受け、6時くらいまで大いに盛り上がって練習していた。やるなあ。

そして今日、朝SHRに行くと、放課後の初の舞台練習について、すでにリーダーたちが連絡をしていた。歌の練習もあちこちでやっているらしい。やるなあ。で、放課後。講堂には30人ほどが集まっていた。部活で公式戦真近の者もいる。他の仕事をしている者もいるから十分結集率がいい。だが、結局シーン1の最初の立ち稽古(実際は2分ほどの演技かな。)で1時間かかった。複雑なミュージカルなのでリーダーたちも大変だ。懸命に変更点をメモに取る。最初だからこんなもんだと思う。できるだけ自分たちの手でやって欲しい。その中で大いに学んで欲しい。

昨日は、3組の舞台稽古を少し覗いた。元2年5組の生徒たちが、リーダーになってくれていて、ほのぼのした、いい雰囲気でやっていた。期待どうり成長した姿が嬉しい。
一方、わが4組は、そんな笑いが出るという感じではない。緊迫している。出番を待つ生徒たちもひたすら歌の練習。(笑)やろうとしていることが難しいのだ。それもいい。真剣だ。勝ちて和す。和して勝つ。

2014年8月27日水曜日

毎日 ミンダナオの平和貢献

27日の毎日新聞朝刊10面の”記者の目”を興味深く読んだ。広島支局の吉村周平記者の『「平和国家」前面に出せ』というタイトルで、フィリピンのミンダナオ島への日本の国際貢献について書かれたものだ。

6月下旬、広島で40年以上続いていたミンダナオ紛争の和平協議が行われた。WWⅡ後、ミンダナオ島げ比政府がキリスト教徒を入植させたことに、イスラム教徒が反発、60年代には分離独立運動が起こり、十数万もの死者を出した。今回和平合意に至った比政府と主要武装勢力の「モロイスラム解放戦線(MILF)」の交渉は、隣国のイスラム国マレーシアが2001年から主導。日本は、比政府とMILFの双方から国際停戦監視団(ITM)への参加を要請され、2006年IMTの社会経済開発部門に専門家を派遣した。さらに、同年日比国交正常化50周年の目玉として開発の遅れている紛争地域への集中的支援策を打ち出し、小中学校や給水施設の建設、人材育成分野など約150億円を投入した。2008年、比政府とMILFの紛争が激化し、ITMが活動停止に追い込まれた時も、日本は緒方貞子JICA理事長の強い意向で支援は継続された。

JICAの地元の生の声をすくい上げ、粘り強く続けられた支援活動は紛争地域の人々に生活の質の向上を実感させた。「平和の配当」と呼ばれるこうした恩恵を享受した人々は和平交渉を支持。和平ムードの醸成に成功し、停滞時も和平への期待をつないだ。

2009年、和平交渉が再開すると両者は信頼する日本にオブザーバー参加を求めた。特にMILFの強い希望だったという。11年にはアキノ比大統領とムラドMILF議長の会談が日本で実現し、交渉は大きく進展した。今年3月の包括的和平合意へと結びついた。6月の協議は2006年から続く「ミンダナオ平和構築セミナー」と銘打ったJICAとマレーシア科学大学が主催したもの。2016年発足を目指す自治政府の制度、地域の治安回復や開発への課題を実務者レベルで話し合い、大統領・議長も顔をそろえて合意の確実な履行に意欲を示したという。

広島は、平和構築分野での人材育成や平和に関する国際会議、紛争当事者同士の対話の場の誘致に取り組み、国際平和都市を目指している。5月から6月にはミンダナオの自治政府の職員候補を招き、戦後復興や地方自治実務に関する研修を行った。アキノ大統領は「平和への道が困難を迎えた時は、広島や長崎で起きたことを思い起こすべきだ」と広島開催の意義を強調した。

吉村記者は、主張する。集団的自衛権の行使を巡る議論で、地域や国際社会の安定に貢献する積極的平和主義の必要性が語られたが、日本が目指すべきは、唯一の被爆国であり、武力行使が制限された日本だからこそ、独自に培ってきた「平和国家」としての国際貢献ではないのか。

…このミンダナオの和平と日本の国際貢献の話、もっともっと語られていいのではないか。緒方貞子元JICA理事長はやはり凄い人だと思う。

…今、広島は、土砂災害で大変だ。ならば、イスラエルとガザの和平交渉をナガサキで行ってもいいではないか、などと思ってしまう。

…もっとも、今の政府にとっては、この平和国家的国際貢献の話、かなり都合の悪い話であるのは間違いない。

http://www.jica.go.jp/topics/news/2014/20140627_01.html

”WICKED” その6 自主

5限目の団活動 団Tシャツが眩しい
久しぶりにクラスのことをエントリーしようと思う。夏休み、舞台や団旗、体育祭のアピール準備は月・水・金、CMはほぼ毎日、生徒諸君が来ていた。8クラス横並びで見ると、ダントツで出席率がいい。活動資金の方も最も使っている。とはいえ、”微笑みのファシスト”と呼ばれたダンドリの鬼であるわたしから見れば、大丈夫かいなとストレスが溜まる日々ではある。もう1ヶ月を切っている。まあ、イベントと言うのはこういうストレスの連続であるし、結局なんとかなるものなのだが…。(笑)

団旗の製作
昨日の舞台チーフの会合で、舞台練習の日が発表になった。朝のSHRで舞台チーフのS君に黒板に日程を記すことを指示した。大道具のほうは着々と進んでいるのだが、演技のほうは全く進んでいないはずだ。とにかく終わりのSHR後、リーダーの何人かには激励をしておいた。イベントはサバイバルゲームである。都合の悪い者を誰かが補助せよ。遠慮するな。責任ある行動とは、そういうことだ。誰かかが支えればいい。着実に前に進めよ。ここからは、危機的な問題以外は口出ししたくない、とも。

今日は各団の会計報告会で放課後は忙殺された。くたくたになって校門を出ようとしたら、クラスの生徒数人とばったり出合った。みんなで最初の台本読みをしていたらしい。さっそく動いてくれたわけだ。一気に疲れがふっとんだ。

2014年8月26日火曜日

日経 EUの移民問題

スペイン沖の難民の船 
http://ec.europa.eu/dgs/home-affairs/e-library/
multimedia/photos/index_en.htm#P-024567/c_
久しぶりにモーニングで日経を読んだ。EUにアフリカ・中東などから多数の移民がなだれこんでいるのだという。南欧のスペインやイタリアにまず入ってきて、そこからドイツやイギリス、スウェーデンなどを目指すらしい。とにかくヨーロッパに入ってしまえば、国境は無きに等しい。パスポートなしでも移動が可能だ。(シェンゲン協定)そしてそのまま不法移民と化す。EUの取り決めでは、難民に関しては、最初に入り込んだEUの国が対策を取ることになっており、これにスペインやイタリアは強く反発している。今でさえ、対応にかなり苦慮しているからだ。

イギリスは、シェンゲン協定には不参加なので、徹底的に規制している。フランスでは、極右政党による排斥運動が強いので、政府もうかつに動けない。下手をすると、極右政党の台頭という事態が予想されるからだ。ドイツも人口の1/5が移民という状況で、難しい舵取りを迫られているのが現実。

…そんな記事だった。今朝は、メモを取らなかったので概要の紹介しかできない。今夏の国際理解教育学会で、私は多文化共生の難しさをイスラエルを例にとって主張した。理念として多文化共生を推進していくことに、私は反対しているわけではない。難しい、とあえて主張したのだ。とはいえ難しい、と主張したところで何も変わらない。何故互いを理解できないのだろうか。そんなことを一所懸命考えていた。

…欧米的な正義・イスラム原理主義など、一神教の世界は、多文化共生についてあまりに不寛容だ。私が20歳の頃から学んできた大乗仏教には平等代慧という発想がある。人間は全て仏の因を内在している故に、全ての人が尊いのである。この原理によって、いかなる差別(仏教で言う差別は差がある、違いがあるという事である。)があろうと、人間は全て平等なのである。仏教徒にとって異教徒であろうと、この原理は生きている。このところ、大乗仏教が、やっぱりイチバンだなあ、などと思うのであった。

2014年8月25日月曜日

コンゴ民主共和国で新エボラ熱

エボラ出血熱が発生したコンゴ民主共和国・赤道州 http://tabisite.com/gallery_af/congoDR/zaire.htm
夏休み最後の日、今日は中学生の体験入学で団活動(体育祭・文化祭準備)ができないので、夏季特別休暇をいただいた。団活動が出来ない日だけ休んでいるので、特別休暇は5日間分あるのだが、まだ消化しきれていいない。事務所にヤイヤイ言われている。で、今日は妻と病院に行ったのだ。車のラジオで、コンゴで新たなエボラ出血熱が発生し、2名死亡といニュースが流れていた。西アフリカからナイジェリアに拡大しているエボラ熱とはまた別のウィルスらしい。ラジオでは、「コンゴ」とだけ行っていたので、旧フランス領のコンゴのことだと思っていたら、コンゴ民主共和国の赤道州(画像参照)だった。うーむ。

西アフリカの感染拡大については、これまで何度もエントリーしてきた。その後もさらに拡大しており、未承認の薬でアメリカ人医師が回復したという良いニュースもあったが、悲惨な話が連日続いている。そこにまたコンゴ民主共和国からの新たな脅威。

この夏休みは、直前にウクライナ上空でのマレーシア航空機事故があり、ガザでの戦闘が続き、イラク問題が深刻化し、エボラ熱が猛威をふるった。日本でも暴風雨や豪雨による被害が相次いだ。理不尽によってなんと多くの人命が失われたことか、と思う。

このところ、「末法」的なニュースが多い。(末法はとっくに始まっているのだけれど…。)このまま世界はどこへ向かってしまうのだろうかという不安が高まる。と、言っていたずらに不安を口にするだけでは、何も始まらない。解決の糸口を人間の英知で解決するしかない。各方面、特にエボラ熱のために英知をふりしぼっていただいている皆さんに敬意を払いたい。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK25H01_V20C14A8000000/

2014年8月24日日曜日

憲法を生んだ密室の9日間

日本国憲法を生んだ密室の九日間(鈴木昭典著/角川文庫・本年7月25日発行)を読み終えた。このブログでも何度か書いているが、日本国憲法はGHQが、東京裁判で昭和天皇の戦争責任追及を忌避するために、急いで作製された草案を元につくられたものだ。この文庫本は、その日程的に切羽詰った中で、GHQ民生局のどんなメンバーが、どのようにして草案を作成したかが書かれているノンフィクションである。

まず驚かされるのが、当時のGHQ民生局のメンバーの質の高さである。その中心は、民政局長ホイットニー准将。本業は法学博士号を持つ弁護士。マニラで法律事務所を開き、鉱山開発や株の投資など様々な事業を展開していていたが、真珠湾攻撃の1年前に帰国。軍務に戻る。マッカーサーの下でフィリピンの地下ゲリラ組織を統率。ミズーリ艦上の降伏調印式のマッカーサー演説も彼によるもの。実務の中心者、ケーディス大佐。フランス(スペインとも)系ユダヤ人。ハーバード大・ロースクール卒のニューディーラー。弁護士から政府機関や財務省の法律顧問を経て軍務に。ノルマンディー作戦などヨーロッパ戦線に参加。日本に関しては全くの素人だが、頭脳明晰で人当たりがよく、クセの強いホイットニーと好対照だという。第三の男、ラウエル中佐。カリフォルニア州・フレズノ生まれで、日系人農民と接していた。スタンフォード大からハーバードのロースクールに学び、再びスタンフォードで博士号取得。もちろん弁護士で政府機関の法律顧問。当時最もリベラルな日本側の在野の憲法草案をつくった高橋岩三郎らの「憲法研究会」とのつきあいから、橋渡し役となる。さらに海軍のハッシー中佐。ドナルド・キーン博士らも学んだ日本研究の組織・民事要員訓練所で学んだ弁護士。彼らが、運営委員会を構成している。この下に小委員会(立法権・行政権・人権・司法権・地方行政・財政・天皇)が置かれていたが、その担当者も極めて優秀な専門家や日本を良く知る人々であった。

もうひとつ、驚いたこと。憲法草案は、SWNCC-150/4(初期対日方針)、SWNCC-228(憲法改正に関して具体的な指針を示した「日本の統治体制の改革」)という文書、さらに国連憲章などを軸として考えられたことである。すでに、アメリカは十分に対日占領の基本プランを制定していたのだ。草案はわずか9日間で書かれたが、実は膨大な事前準備がなされていたわけだ。

憲法草案の基礎事項であるマッカーサーノートに書かれた①天皇から権力を剥奪して地位だけを与えるという天皇条項も、②1928年のパリ条約に由来する戦争放棄に関する条項も、③封建制度の廃止も、これらの文書の上に構築されている。

さらに、GHQ民生局は日本に好意的だったことがわかる。公職追放令のリストアップは、1945年暮れには完了していたが、マッカーサーはこう言ったという。「日本の家庭ではお正月に家族全員で楽しむものだ。急ぐ必要はない。」公職追放は、年明けに延期された。

まだまだ気づいたことがある。前述の高橋岩三郎らの「憲法研究会」の案が、かなりGHQの草案に入れられていること。草案提出後、国会で第9条の自衛権について修正がなされたことなど、ポーンとGHQに憲法草案を渡されて、それを丸呑みさせられたわけではないわけだ。

まだまだ書きたいことはあるのだが、おそらく1945年当時の日本の保守政治家は、天皇を戦犯指定しようとしていたオーストラリアやニュージーランド(草案の提出時にはだいぶ軟化したようだが…。)のいる国際委員会を相手に回して、マッカーサーのようには絶対天皇(制)を守れなかっただろうと思われる。

それにつけても、アメリカの占領政策体制の優秀な人材群とその能率の良さには舌を巻く次第。

2014年8月23日土曜日

若き日本の肖像を読む。5

http://reader.roodo.com/
kcn/archives/15724985.html
若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーのエントリーを今日も続けたい。サンクト・ペテルブルグ編。ロシアといえば、明石元二郎大佐である。(最後は大将にまでのぼり詰め、第7代台湾総督。)陸軍幼年学校から士官学校、陸軍大学に進学したエリート軍人で、1994年ドイツ留学。1901年駐フランス公使館付武官。翌年11月駐ロシア公使館付武官。広瀬武夫が5年間の任務を終えて帰国したのがその年の3月。日露戦争の英雄二人は、サンクト・ペテルブルグではすれ違っていることになるわけだ。1904年、日露戦争が勃発、公使館は閉鎖されベルリンへ引き上げる。明石大佐は参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀を命じられる。最初はストックホルムを拠点に、以後ベルリン、ジュネーブ、ロンドン、パリなどを舞台に対ロシア諜報・謀略活動に従事する。現在の価値で80億円と言う工作費を児玉源太郎参謀本部次長から得ていたという。

具体的にはシベリア鉄道の輸送量の調査、フィンランドやポーランドの反ツアー抵抗運動と連帯、1904年9月、前述の2カ国にアルメニア、グルジア、ラトビアなどから8つの党派の参加を得てパリで反ツアー抵抗諸党連合会議を開く。さらに、1905年の「血の日曜日事件」を受けてさらなる動乱を実現させるべく、実際に武器調達を進めていた。事故や受け入れ態勢の不備で動乱の成功はしないまま、ポーツマス条約が結ばれることとなる。ボルシェビキ勢力を巻き込むことはなかったし、どの程度効果をあげたかは疑問らしい。とはいえ、小説や映画顔まけのスパイ活動だったわけだ。

こうした明石大佐の諜報活動や扇動工作はロシアの治安対策組織・警察庁特報部などに正確に掌握、監視されていた。さらにフランス公使館からでているほとんど全ての暗号電報を入手。日英同盟VS露仏同盟が背景にあり、バルチック艦隊の動向に関する情報もほとんどロシア側に渡っていたという。日露戦争をめぐる情報戦は決して日本が優位だったわけではないことを認識させられる。だから、明石工作をあまり誇張しすぎてはならないというのが、著者・寺島実郎の意見である。

…膨大な教材の集積庫のような本書の中から、最後に明石大佐の話を選んだ。明石大佐の工作がすべてロシア側に筒抜けだったということが驚愕に値すると私は思う。

2014年8月22日金曜日

若き日本の肖像を読む。4

http://tadkawakita.blogspot.jp
/2013/02/no397.html
若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーについて今日もエントリーしたい。ロンドン編である。ロンドンといえば夏目漱石だが、エントリーしたいのはオッペケペー節の川上音二郎の話である。1964年生まれの川上音二郎は、まさに遅れ来た政治青年である。当時の政談演説は大衆芸能の趣があったようで、ここから壮士劇のような新演劇が生まれたようだ。川上音二郎は、上方講談組合に入った後、落語家として高座にも上がった経験もある。浅草で書生演劇・川上音二郎一座で「板垣君遭難実記」が大当たり。幕間でやったオッペケペー節も大当たりした。後に1900年のパリ万博で公演された際のLPが復刻され、それを聞いた著者の寺島実郎は抑揚のない早口の連続だと酷評しているが…。

1898年の衆議院議員選で落選した川上音二郎は、失意の後に海外演劇公演を思い立ちサンフランシスコに渡航する。ここでは、出演の予定のなかった妻の貞奴の「道成寺」が大うけした。ボストン公演中に英国の俳優と知り合い、大西洋を渡ることになるのだ。「なんでも吸収、なんでも利用」の音二郎一座は、ベニスの商人を「才六 人肉質入裁判 白洲之場」と翻訳して欧米公演の定番演目にする。才六はシャイロックのことである。これは笑える。英国では、皇太子時代のエドワード7世上覧の栄も得ている。さらにフランスで123日間にもわたる万博公演となるわけだ。ちなみに夏目漱石は、この公演中に万博を訪れているが、日記には何の記載もないそうだ。一時帰国後も再び欧州各国巡業を行い、日本演劇史上、舞台音楽や証明技術など欧米の新しいスキルを持ち込み、日本でのシェークスピア作品の上演や切符制・短時間公演など興行方法の改革も行って大きな軌跡を残したといえるわけだ。

著者・寺島実郎は、川上音二郎の欧米巡業によって、日本の固定観念がある程度固まってしまったと批判する。サムライ・ハラキリ・ゲイシャ…といったステレオタイプの日本観である。興行主との契約で、一回の舞台で必ずハラキリ・シーンを入れるというのもあったらしい。当時はジャポニズムへの関心が高かった時代で、1885年にギルバート作のオペレッタ「ミカド」がロンドンで初演され爆発的なヒットとなった後に、本物の日本人劇団がやってきたというわけだ。その後1904年、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」に繋がっていく。

…若い頃、地理の最初の授業で、世界の教科書に書かれている日本について講しだ事がある。当時の日本への認識はまあ、ひどいものだった。きちんとこちらも学ばないと同じ過ちを犯すことになるで、という警告的な授業内容だったのだが、今は情報化社会。リアルタイムで世界の映像が流れる時代になった。寺島実郎氏の杞憂が、この15年ほど(本書が書かれたのは2000年頃)で払拭されつつあるような気がする。

…ところで、この章に出てきたオペレッタ「ミカド」は、猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に詳しい。ナンキプーという主人公が出てくるのだが、同じキャスティング名で、オリジナルのオペレッタの脚本を書き上演したことがある。副題は、”ミカドはジグソーパズルがお好き。”
架空の「ミカド」のクニ。ミカドは個性のない国民を作ろうと画策するのだが、皇太子ナンキプーが「人間の本質は個性豊かなことだ。」と革命を起こすという物語。実存主義哲学者ハイデッガーの「(誰でもない)ひと」と「世界内存在としての疎外」を基本ポリシーに置いた物語だった。なんだかなつかしい。公演に向けて様々なドラマがあった。
川上音二郎という人物、直情的で、なんでもありで、あまりポリシーを感じないが、演劇という世界に住む魔物に取り付かれた人生、なんとなく判るような気がする。舞台に挑んでいる3年生たちにも是非味あわせてあげたい感覚だ。今日も、わがクラスは汗を書きながら準備に勤しんでいた。

2014年8月21日木曜日

若き日本の肖像を読む。3

http://sauber.yaekumo.com/prof/p_saionji.htm
引き続き、若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーについてエントリーする。まだパリの話が続く。1871(明治4)年、西園寺公望が(多感な二十歳代の)十年間の永きに渡りパリに留学している。当時のフランスは、パリ=コンミューン、普仏戦争の敗北、ナポレオン3世の退位、ベルサイユ宮殿でのドイツ帝国成立宣言という敗戦後の混乱と第三共和制を巡る騒乱であった。この留学中、中江兆民と親交を深める。九清華家の出身ながら、帰国後も自由民権運動には理解があったのはこのためである。特筆すべきことは、クレマイソーと親交を深め、帰国後も書簡を交換する仲であったたことである。クレマイソーは、第一次世界大戦中のフランス首相であり、ベルサイユ講和会議の議長である。めぐり合わせというか、帰国後約40年、日本の首席全権大使として会議に参加する。

ベルサイユ条約の主役は、ドイツへの復讐心に燃えた「タイガー」と呼ばれた議長クレマイソー。理詰めで鋭い舌鋒から「ドラゴン」と呼ばれたウィルソン米大統領。その指導力としたたかさで「ライオン」と呼ばれたロイド・ジョージ英首相。1ヶ月半も遅れでパリに到着した西園寺は「ただの一言も発言せず」に怖い顔で睨んでいたので「スフィンクス」と呼ばれていたのだという。

結局、このベルサイユ条約で、日本は(当時流行語となった)「一等国」として五大国会議に入ったものの、中国でのドイツの権益であった山東半島を得ることのみに執着し、戦勝国・中国と対立する。ウィルソンは中国を支持する。そこでウィルソンの提唱する国際連盟不参加と(カリフォルニアへの日本移民排斥への対抗策だった)「人種差別撤廃条項」を国際連盟の規約に入れることを提案する。この結果は、中国進出を悲願としていたアメリカを完全に敵に回すことになるのだ。この時の全権団のあまりに稚拙なインテリジェンスが、次の時代の悲劇を呼ぶことになるのである。

…日露戦争までの日本を絶賛し、それ以後の日本人はだめになったと評する司馬遼太郎の史観はこのところ批判されがちなのだが、著者の寺島実郎は司馬史観を大いにかっている。この西園寺の姿勢を見るとたしかに司馬・寺島派に分があるように思ってしまう。ただ、このベルサイユ条約も国際連盟も、世界史の大局から見ると明らかなミステイクだといえる。どんどんと破局点へ向かって流れていったように見える。

…少なくとも当時よりは、日本のインテリジェンスもましになっているとは思うのだが、欧米的な価値判断・インテリジェンスだけが正義だとも言いがたい。ますます欧米的価値観とアンチテーゼとしてのイスラム原理主義が対立を深めている。極めて憂慮すべき事態だ。

…果たして日本は、「スフィンクス」として沈黙を守るのだろうか。それとも「ライオン」や「タイガー」になってしまうのか。

…「世界の警察」という立場を放棄し、イラク戦争に反対したノーベル平和賞受賞者の大統領が「中東のガン」とまで「イスラム国」(ここも、”たいがい”やが…。)を罵倒した日に。

2014年8月20日水曜日

毎日 流血のミズーリ

「証拠を見せろ」が州のモットー・ミズーリ州
https://www.flickr.com/photos/shookphotos/5671007450/
「流血のカンザス」という言葉がある。南北戦争前のアメリカで、自由州(北部)と奴隷州(南部)の勢力争いの中、当時のカンザス準州で起こった事件のことだ。今回のセントルイス近郊で起こった警察による黒人少年射殺事件には、私も衝撃を受けた。あえて、今日のエントリーのタイトルを「流血のミズーリ」とした次第。

ミズーリ州についても再勉強した。州の東側がミシシッピの中流で、セントルイスがある。西側にはカンザスシティ。それぞれMLBのチームをもつ大都市圏である。人種別人口では83%の白人、12%の黒人。残りがアジア系やネイティブという感じだ。ヒスパニックがわずかに増加しているが、この比例は20年前から変化していない。白人は中西部らしくドイツ系・アイルランド系が多いが特に大きな特徴がない。宗教についてもプロテスタント45%、カトリック19%で、大きな特徴はない。経済的には、工業も農業もなかなかのもの。州の生産高が全米26位。要するに、平均的な州だといえるわけだ。

毎日新聞の今日の朝刊によると、根強い「白人支配」への不信と憎悪が、今回の抗議デモに凝縮されていると見ている。ところでミズーリは、中西部だが、複雑な歴史があって、「奴隷州」としての歴史を持つ。「南部」と見るべきだという論もあるらしい。州知事が、州兵など動員する必要があるのか、と誰しもが思う。非は警察にあることがかなり明確である。しかし、こういう地域的な伝統というものは、なかなかぬぐえないものだと私は思う。

私の世代は、今で言う人権学習をそれこそギンギンに受けた世代である。同和問題や外国人問題、障害者問題など、徹底して平等だという教育を受けた。だが、両親の世代とはギャップがあり、意識の差に愕然としたものだ。その子供の世代になってそれが普遍的な価値観として定着していると思っていたのだが、最近のヘイトスピーチやホームレスの方への暴力、また被爆者の方への中学生の暴言などの事件を知るにつけ、人権問題と言うのはそう簡単なものではないと再認識するようになった。

学生時代、左翼の知人と論争になったことがある。彼が言うには、唯物論的に、すなわち経済的平等が達成されなければ、そういう人権問題も解決できない、と。哲学・宗教学の徒である私は、人権問題は、あくまで実存的な意識改革の問題であると。

私は、どうも今回の問題は、アメリカのかかえる古くて新しい白人VS黒人という問題でありながら、昔、左翼の友人が言った様な経済格差の問題であるかもしれないという印象をもっている。富の少数派による独占が顕著なアメリカでは、黒人はもちろん、白人も苛立っているように見えるのだ。ミズーリは平均的な州だ。富を独占している少数派は東部やカリフォルニア、あるいは隠棲の地フロリダやアリゾナにいる。いわば、負け組同士の傷つけあい。アメリカが内向きになり、新たなフロンティアも世界的な名誉も失った。そんな苛立ちの中で平均的な州で起こった古くて新しい事件、という印象が強いのだ。

これは、中国の地方での経済格差が生む、党幹部への憤り・暴動に近いものではないのか。これからも、様々なアメリカ各地でも同様の事件が起こりうるような気がしてならないのだ。世界で反アメリカの動きが加速している。そしてアメリカ内部でも…。

2014年8月19日火曜日

若き日本の肖像を読む。2

さっそく「若き日本の肖像ー1900、欧州への旅ー」(寺島実郎/新潮文庫)について、少しエントリーしておきたい。

ビクトル・ユーゴーが死んだのは1885年。代表作「レ・ミゼラブル」は1962年の作品。ロングランを続けたミュージカルを見て、欧米人はよく泣くそうだ。
「Do You Hear the Peoples Shing?」(民衆の歌が聞こえるか?)を聞きながら、民主主義のために闘った人々の子孫としての深い共感だという。日本にこの物語が紹介されたのは1902年。黒岩涙香が翻案した形で万朝報の連載小説で「噫(ああ)無情」と訳した。レ・ミゼラブルは直訳すれば「惨めな人々」なので、名訳だとも言われるが、このタイトルのおかげで、日本ではジャンバルジャンという男の数奇な運命の物語になってしまったと著者は批判する。…私も同感である。

(福沢諭吉らが訪欧した)文久元年の使節から20世紀の初頭にかけて多くの日本人がパリを訪れた。ほんぼ例外なく彼らは西洋文明に衝撃を受け必死に科学技術文明を吸収し、経済開発へと立ち向かった。しかし、欧米の18世紀から19世紀にかかての大きなテーマだった「デモクラシー」については真剣に学ぶことをしなかった。著者は、佐久間造山の「東洋道徳・西洋芸術(芸術は技術の意)」や「和魂洋才」という流れが、日本人であることの自尊をかけた抵抗線として、技術は学ぶが精神・思想は譲らないという心理を強く働かせたというのだ。だから、今日に至るまで、日本人は民主主義、個の尊厳と自由について主体的に考察することをしてこなかったというわけだ。

…なるほど。同感。岩倉使節団では、米欧回覧実記を書いた久米邦武や大久保・木戸などは、ヨーロッパの個の尊厳や民主主義の奥底に、キリスト教の存在を感じ、(キリスト教徒には大変失礼だが)その教理に対して、不信感をあらわにしている。この辺の明治人のスタンスをどう見るかは意見の分かれるところだ。

2014年8月18日月曜日

若き日本の肖像を読む。

「若き日本の肖像ー1900年欧州の旅ー」(寺島実郎著/新潮文庫)を読み終えてだいぶ経つ。文庫本は本年8月1日発行だが、単行本化されたのは2000年2月である。よって、寺島氏のコメントは若干古く感じてしまう。それをさしおいて、この本が素晴らしいのは、1900年のヨーロッパの様々な都市を定点に置いて、そこに学んだ、あるいは関わった日本人の面白い逸話が満載で、その国に関わる考察が俊逸だからだろう。読後感をゆっくり熟成させてからエントリーしたくなるほど、面白かったのだ。

第一章はパリ。登場する人物は、秋山真之に始まって、夏目漱石、西園寺公望など。そして、ピカソ。
第二章はロンドン。夏目漱石、川上音二郎、南方熊楠。そしてマルクスとケインズ。
第三章はウィーン。クーデンホーフ・光子。クーデンホーフ、ヒトラー、ワルトハイム。そしてフロイト。
第四章はローマ。ここには日本人は登場しない。バチカンとムッソリーニ。
第五章はマドリッド。ここにも日本人は登場しない。フランコの話が中心。
第六章はハーグ。秋山好古。ハーグの平和会議のことが綴られる。
第七章はサンクトペテルブルグ。明石元二郎、広瀬武夫。
第八章はベルリン。森鴎外。そしてビスマルク。

各章で考察されるヨーロッパ各国と日本の考察がまた面白い。少しずつエントリーしていこうかと思う。今日のところはアウトラインの紹介で終わりたい。

2014年8月17日日曜日

ピーター会’14 IN 四ツ橋

バリ島レストランのランチコース 
ケニアにJICAの教師研修旅行を共にした高校教師の集いであるピーター会の集まりが今日あった。静岡から日帰りでお二人参加していただいた関係で、ランチを共にしたわけだ。場所は、大阪市内四ツ橋のインドネシアはバリ島のレストラン。画像はそのランチ。食後のコーヒーとアイスクリーム付き。なかなか廉価なのに美味しかった。先週の月曜以来、ずっと胃腸の調子が悪かったのだが、ようやく回復したようだ。店の雰囲気もよかったし、大満足である。

今回は、仲間の一人であるM先生が、JICAのシニア・ボランティアでウズベキスタンに派遣されることになり、その壮行会の意味も込めての集まりだった。息子が以前、学生時代にウズベキスタンには行ったことがあり、我が家にもウズベキスタン関係のモノも多い。(宗教学の徒の一家である故に、ほとんどイスラム教関連のもだけれど…。)私には、ウズベキスタンは、比較的近しい国である。

M先生は日本語教師として派遣されるのかと思ったが、日本に法学などを学ぶため留学する15名の大学生に、日本の歴史や文化生活習慣などを日本語で教えるのが派遣内容で、M先生が3代目なのだという。

私など、語学が苦手だし、何より社会科教師がJICAの役に立つなど思っても見なかったのでびっくりした次第。それでも、研修センターで日常生活のためにウズベク語を学ぶらしい。シニア・ボランティアでは先輩のガーナに行った教授に、M先生がいろいろと質問するのを我々もワイワイ言いながら聞いていた。いいなあ。うらやましい。

2014年8月16日土曜日

ナポレオン2世の憂鬱

先日、電車で読む本が切れたので、名画で読み解くハプスブルグ家12の物語(中野京子/光文社文庫)をなんとなく買って読んだ。それがなかなか面白い。今回の3年生の世界史Bは、新カリキュラムで減時間になったので、2年間で4単位になってしまった。(私の転勤前に決定した話なので不如意である。)近世から近代にかけてのヨーロッパ史では、ハプスブルグ家のからむ「スペイン継承戦争」「オーストリア継承戦争」は割愛せざるを得なかった。そんな深層心理からハプスブルグ家の本に触手が伸びたのかもしれない。

この本は肖像画をもとに書かれている。だからこそわかることもある。どうやら、ハプスブルグ家の「青い血」には、受け口であごが出ているという特徴があったらしい。かのカール5世(=カルロス1世)は、歯のかみ合わせが悪く、常時口を開けていたらしい。こういうことは、あまり歴史書には出てこない。

授業で、ナポレオン3世のことは詳しく教えたが、2世については全くだった。ナポレオンが、利用するだけ利用したジョセフィーヌを離縁し、ハプスブルグ家から迎えたマリー・ルイーズが生んだのが2世だ。ナポレオンがエルバ島に流された後、母とウィーンに。当時3歳である。

ハプスブルグ家からすれば、領土を奪い自由主義を広めた憎き敵の子であり、同時に皇帝の孫でもある。かのウィーン会議の主催者・首相のメッテルニッヒは、2世を「ちびナポレオン」と呼んではっきり迷惑がった。不安定な政治状況の中、ナポレオンが皇帝を退位した直後、少年はほんの短期間だが、2世として名目上の皇帝位についた。外に出したら危険以外の何者でもない。まさに「高貴な囚人」となった。7歳の時ライヒシュタット公の称号を与えられた。だが、2世は父を崇拝し、軍人になることを望んだという。この2世と恋仲になったのが、皇帝の弟の妻ゾフィ(血の繋がらない叔母と甥の関係になる。後に女傑としてハプスブルグ家を引っ張ることになる。)である。希望どうり軍人になったものの、結核になり、若くして死ぬ。母・マリー・ルイーズはついに息子に会いに来なかった。

2世は、シェーンブルン宮殿のハプスブルグ家霊廟に葬られた。しかし1世紀後、ヒトラーによって、オーストリアは併合された際、占領したフランスへの懐柔策として、その遺骸はパリに送られ、父ナポレオンの横に埋葬され、現在もそこに眠っているというわけだ。…数奇な人生だよな。

サンディエゴのブルース爺

サンディエゴのハードロックカフェ
http://www.holidaycheck.de/vollbild-Hard+Rock+
Caf%C3%A9+San+Diego+Hard+Rock+Caf%C3%A9+in
+San+Diego%C2%B4s+Gaslamp+Quarter-ch_ub-id_1148658889.html
鍼治療の帰り、ラジオからジェイソン・ムラースというアメリカの歌手の歌声が流れていた。初めてだが、なかなかいい。DJの解説によると、この歌手はサンディエゴで頑張って世に出たのだという。そうか。サンディエゴか。私は、ニューヨークもボストンも、シカゴも大好きだが、サンディエゴという街も大好きだ。サンディエゴはカリフォルニア州の南端にある軍港の街。と、同時に観光の街でもある。なにより、治安がいいし、街の人々が親切で実に雰囲気がいい街である。

市内にはオールドタウンという歴史的景観を残したところもある。おそらくジェイソン・ムラースは、この辺の店で歌っていたのではないかと思う。ところで、このオールドタウンで夕刻ぶらぶらしていたら、黒人のじいさんがある店のベンチの一角に座ったままブルース・ハーモニカを吹きだした。それが凄くいいのだ。身なりは貧しそうだが、タダ者ではない。うっとりと聞き惚れていたのだった。演奏が終わったら、$1札を渡そうと思っていた。

すると、演奏が突如止まってしまった。パトカーがやってきて、「じいさん、またかよ。ここでは演奏したらダメだって、言ってるじゃないか。」と、やさしく拘束されパトカーに押し込まれて行ってしまったのだ。あーあ。最後まで聞きたかったし、$1札を渡してあげたかったのになあ、と私などは思ったのだ。

ブルースといえば、有名な街がアメリカにはたくさんある。カリフォルニアのイメージとは、あまりそぐわない。しかし、貧しそうなあのじいさんでさえ、聞き惚れるようなレベル。アメリカの音楽の底の深さを感じた次第。

サンディエゴから出てきた歌手。そんなに多くはないのだと思うが、決して不思議な話ではない。そんなことを考えていたのだった。

2014年8月15日金曜日

アフリカ理解の新作ゲームⅡ

団活動の様子をリーダーたちの報告を受けながら、今日も一日中新作ゲームの調整に精を出していた。これまでのオリジナルゲーム製作の経験から、数値の設定がいかに重要か判っている。実際に頭でシミュレーションしながら、そう簡単にゲームオーバーしないよう、またある程度目標達成(今回なら資源開発で得たポイントを使って地域間の経済格差を克服する、また徐々にでもGDPを拡大する)できるように設定しなければならない。

まず、失敗国家(ゲームオーバー)の設定を改変した。人口ポイント-農業ポイント+商工業ポイント+鉱産資源ポイント>-50とした。昨日の時点での指標では-20だったが、案外、干ばつなど農業ポイントが減る場合が多いことに気がついた。人口支持力の原則で、開始時の人口100、農業ポイントも100だが、人口が減る機会(感染症など)は少ないし、難民の流入やモノポリー的なマス目の道の一周後に人口を+10とすると、-20では、かなり苦しい。およそ鉱産資源の収入や商工業のポイントアップの機会も増やしたのだが、このあたりが妥当な数値かなと思う。

ガバナンスで、地域格差を是正したり、GDPのポイントアップを行うマス目を、モノポリー的な開発している鉱産資源を増やせるマス目の後ろに設定した。ポイントを溜めてガバナンスを考えれるほうがより親切だ。地域も、ブルキナファソをモデルに北に乾燥地、南に森林を配置しなおした。

ガバナンスの政策は、前回のアフリカSDゲームのものを一部改良して使うことにした。地域格差(都市と農村・乾燥地・森林)是正に有効な政策、特に教育や保健医療、交通インフラなどは、各地域ごとに政策実現することにした。全体的なGDP向上に資するものもある。これらをポイント化していく。

まだまだ調整が必要だが、チャンスカードや、現代アフリカの学習も加味したカードの内容もおよそ、SDゲームの資産を転用しながら、「観光振興」も入れて、ポイント化して整理してみた。

ふと、気づくと15:30だった。クラスに行ってみると、男子が大道具、女子が団旗に分かれて頑張ってくれていた。例のCM隊も頑張っている。他のクラスもお盆なのに頑張っている。クーラー入れてやって欲しいなあ。

2014年8月14日木曜日

NHK ペリリュー島の記録を見る

http://www2u.biglobe.ne.jp/~akashids
/ryokou/palau/palau24.html
昨夜、たまたまだが、NHKスペシャルで「狂気の戦場 ペリリュー~”忘れられた島”の記録」~を見た。毎年、終戦の日が近づくと、戦争の特集が組まれるが、近来稀に見る内容の濃い番組で大きな衝撃を受けた。生徒にも是非見せておきたい内容だった。

1944年9月。米軍は、フィリピン・レイテ島への上陸支援のために飛行場のあるペリリュー島の制圧を目指す。攻めるのは海兵隊の中でも最強の第1海兵師団第1連隊。一方、日本側は関東軍の精鋭を中国から呼び寄せた。しかも参謀本部は、アッツ島玉砕以降、バンザイ突撃を禁止し、持久戦に持ち込むように指示する。こういう背景の中、3日で終わると簡単に見ていた海兵隊は、未曾有の戦いに巻き込まれる。

日本軍が行ったのは、ブービートラップのないベトナム戦争的ゲリラ戦だった。最後尾の兵を音もなく殺戮し、山岳地帯に掘ったトンネルに逃げ込む。狙撃で隊列を狙い撃ち。米軍はたこつぼで睡眠を取る羽目になったという。まさに狂気の世界である。当然、恐怖感に勝てない海兵隊も続出し、自軍に射殺された例もあると言う。海兵隊といえば、たとえ死体となってもママの元に届けるのがモットーだ。だが、ここでは、死体を「丸太」と呼んでいた。(中国東北地方の生物兵器を研究していた)731部隊で生体実験された人々と同じ呼び名ではないか。私は驚愕したのだった。

業を煮やした米軍は、火炎放射器やナパーム弾を使用する。山岳地帯に潜む日本軍を焼き殺す策にでるのである。硫黄島、沖縄でも使われた、容赦ないこの地上戦の攻撃方法は、ペリリュー島の戦いから波及したものらしい。都市への焼夷弾による無差別爆撃も、結局はこの島での恐怖から派生したものではないかとも。

海兵隊の死傷率は60%。あまりの高さから、長い間語られなかったのだという。しかも、ペリリュー島攻略を待たず、(陸軍の)マッカーサーはレイテ島に再上陸してしまう。海兵隊としては面子丸つぶれである。結局、両軍とも何のために殺し合いをしていたのか、ますますわからなくなる。

最後に見た呆然と座り続ける海兵隊の映像が衝撃的だった。彼は、偶然出会ってしまった日本軍ともみ合い殺害した。その軍服のポケットから彼の家族の写真が出てきて、動けなくなったのだ。

国益のために、普通の人間が殺しあう。国益とは何か。国民に誰も殺させない以上の国益があるのだろうか。集団的自衛権の問題がなんとなく収まりつつある中、そんな感想をもったのだった。

アフリカ理解の新作ゲームⅠ

今日作ってみたゲーム板のイメージ
夏休みは、団活動が出来なかった7月31日と8月1日、先日の親友の告別式の12日を除いてすっと学校に行っている。団活動の進展状況を見ながら、進学用・就職用の調査書を完成させたり、2学期の教材研究などをつらつらやっていたわけだ。それらが一息ついた昨日から、アフリカ理解・開発経済学の新ゲームの構想に取り掛かっている。

昨年実践したアフリカSDゲームは、具体的なレンティア国家が得た国富を、様々な政策に使うことを中心課題にした。学習教材としてはなかなか良い出来だと思っているが、ゲームとして勝敗がつかないことが問題だったと思っている。

今回の新ゲームは、同じくレンティア国家としてのアフリカを基盤にすえる。「その資源収入をどのように国民全体の所得と福利向上に使うかが課題である。」という平野先生の「経済大陸アフリカ」の結論部分を基本ポリシーとした。国内の経済格差をいかに克服し、治安を維持するかという問題は今なお、ナイジェリアやウガンダ、ケニアをはじめ多くのアフリカ諸国の大きな課題である。そこで、ゲーム版の中央に4つに区切ったエリアを設定した。都市・農耕地域・乾燥地域・森林である。実際にこのような国土になっている国は少ないが、経済格差という問題を際立たせるためには、有効だと思われる。(いっそブルキナファソをモデルに森林を南に、乾燥地帯を北にもってこようかなとも考えている。)

その周囲に、モノポリーのように、コマを進める道を作ってみた。チームで順にサイコロを振りながら、一喜一憂するのもゲームの醍醐味である。スタート直後に、鉱産資源開発(石油・天然ガス・希少金属・ダイヤモンド・金)のマスを設定した。ここに止まると、その鉱産資源の開発が開始され、それに応じた収入が決算時に入ることとした。後半には、ガバナンスのマスを6マス設定した。そこにかならず1度以上止まることになる。そこで、どの政策を打つか考えさせる。たとえば、保健医療を乾燥地帯に1つ、森林に学校を1つというふうにである。さらに、その後には、鉱産資源の開発単位(油田や油井、鉱山など)を増やすマスを設定した。うまく止まれば、収入が増えるしくみである。運がよければ、一国で、石油を3単位、希少金属も2単位、ダイヤを2単位というふうに収入増が可能である。

もちろん、一周する中で、投資によって商工業が栄えたり、干ばつ(農耕地域と乾燥地域に分けた)が起こって農業生産が低下したりするようにしてある。前回のゲーム同様、様々なアフリカの学習にかかわるイベントが起こるマス(今日のチャンスカード)も設定した。

今回は、これらを紙幣ではなく、ポイント制でゲーム進行する。私の熟慮したゲーム構成は以下の通りである。

ゲームの勝利は、失敗国家(経済格差で内戦にならないこと。人口が50%まで減少しないこと。)にならずに、いかに1人あたりのGDPを増やすか、で決定する。

基本設定 人口100(都市40・農耕地帯50・乾燥地帯5・森林地帯5)
       農業生産100(都市 0・農耕地帯90・乾燥地帯5・森林地帯5)
       商工業(都市20・農耕地帯5・乾燥地帯0・森林地帯0)
  鉱産資源(1単位):石油20・天然G18・希少金属25・金10・ダイヤ10

GDP=農業生産100+農業生産100+商工業25+鉱産資源(たとえば石油2単位:40)となる。

一周する中で、農業生産がプラスになったりマイナスになったりする。人口も、難民の流入や決算時に増えたりするし、感染症の流行で減少する。基本設定で人口と農業生産を100と同数にしたのは、人口支持力の立場からである。農業生産が人口より下がった場合は商工業や鉱産資源収入のポイントで輸入することになる。(1周の最終マスの決算時に、そのポイントを残していないと飢餓が発生するわけだ。)

したがって、多少の余裕を見込んで、人口P-農業生産p+商工業P+鉱産資源P>20を失敗国家のラインに設定した。

経済格差については、農耕地帯30、遊牧民の住む乾燥地帯20、少数民族の住む森林地帯20のポイントを設定した。格差が生まれる場合は、地帯を指定するので、ガバナンスで手を打たないと一気に失敗国家になる恐れがある。乾燥地の干ばつは+5、農耕地での先進国の農地買収は+15に設定している。

細かな点は、さらに詰めていくが、レンティア国家であることで、商工業は貨幣価値が上がる故に消費増以外に大きな進展は見込めない。それよりもいかに各地域の経済格差を是正していくかがこのゲームの大きなポイントになるはずだ。

2014年8月13日水曜日

暑中お見舞い申し上げます。2

暑中見舞いの入っている「伽草子」
この2日間、ブログをエントリーできなかった。実は、おとつい学生時代からの親友の御母堂が他界され、お通夜に行ってきたのだが、その夜二度も嘔吐したのだ。その直前の夢は、よく覚えている。昼間に、我がクラスのCMのことで、生徒と打ち合わせをしていた。中心者のI君は、それこそ120%頑張っているのだが、見通しが甘い。このままでは、舞台の進行にも影響を与える。それで、どうしたものか、(夢の中でも)一生懸命考えていたのだ。実際には、寝る前に名案は出たのだけれど…うーん、キリキリと胃が痛い。ふと、目が覚めて…。という次第。

ふと、もし今私が入院したり死んだりしたらどうなるだろうか。今のところは打つべき手は全て打っている。案外生徒たちは、やってくれるのではないか。嘔吐の後、そんなことを実は考えていたのだ。

昨日は、それが尾を引いて、妻もちょうど体調が芳しくなく、夫婦で出席予定だった告別式も欠席し、一日中寝ているはめになったのだ。

実は今日も、体調は芳しくなかった。昼食はみかんゼリーという状況で、しかもやたら汗が出る。補習を終えて、教室へ行ったらI君がCMの仕事をしていた。嬉しいなあ。彼女なりに懸命だ。こうして、ああしてと、私の提案をすると安心してくれたようだ。その後、たくさんの生徒が来てくれて、団旗製作や台本の第三稿づくりに汗を流してくれていた。嬉しい。

私の体調を心配してくれている妻が、最寄り駅まで迎えに来てくれていた。ラジオからふと、なつかしい曲が流れてきた。拓郎の「暑中見舞い」である。

♪子供のように笑えないけれど何も考えず 駆けて叫んでそれから飛んで 
何も考えず 何も考えず きれいに笑っていたいんです 
暑中お見舞い申し上げます 暑中お見舞い申し上げます

拓郎の歌は、歌詞をほぼ覚えている。車中でつい口ずさむ。うーむ。曲のアレンジも含めて、極めて軽い歌だと思っていたが、なかなか深いぞ。…こう感じてしまうのも、歳なのかなあ。

2014年8月10日日曜日

永井隆先生の名言

http://www.city.nagasaki.lg.jp
/peace/japanese/abm/insti/nagai/
「永井隆の生涯」を読んでいて、この言葉が脳裏に突き刺さった。
「節約すべきは金ではない。時間と労力だよ。」

永井先生は天才でも、スーパーマンでもない。田舎の小学校では優等だったが、中学は補欠で合格している。体育も、走るのも器械体操も大の苦手であった。高校では弓道をやったが、一度も的に当たらなかったという。大学では、はやりかけてきたバスケットボール部をつくり、中国人留学生と中国式の速攻の戦略を用い、大学の選手権で3位になっている。永井先生は、運動音痴から、スポーツマンになるのに、長い時をかけているわけだ。

無理をしないで、ゆっくりゆっくり、しかも絶えずたゆまず、やさしいことから始めて、むずかしいことに進みつつ、からだの成長に合わせてきたからである。と述べておられる。だからこそ、「節約すべきは金ではない。時間と労力だよ。」と言われているのだ。

最近、スマホを夜中までいじっている児童・生徒が増えているそうだ。その時間が全く無駄だとは言わないが、教育に携わる者としては、そんな彼らにとって大いなる金言だと思う。全ての人間に平等に与えられた時間をいかに使うか。その姿勢は、人生に決定的な格差をもたらすと思う。

もうひとつ。我が家(夫婦だけだが…)で、今はやっているフレーズがある。よほど気に入ったのだろう。妻が暗誦してよく口にする。永井先生が昭和25年に、白血病の病床から原稿を書き、絵を書きして資金を集め、子供たちのために設けられた図書館「うちらの本箱」の入り口に掲げられていた「おきて」である。実にユーモラスである。

  おきて
ブタのようにおしりのよごれた子
ネコのようにあしのよごれた子
サルのようにてのよごれた子
イヌのようにわめく子
ウマのようにあばれる子
ウシのようによだれをたらす子
ヤギのように本をちぎる子
 はいることおことわり
     1950年 こどもの日 永井隆

永井先生の母堂のエピソード。永井先生の家で、兄弟と近所の子供たちでかくれんぼをしていて、漬物小屋でらっきょうを見つけた。みんな我慢できずポリポリやりだした。だいぶ食べてしまった。母堂が物音に気づいて小屋にこられたが、何事も言わず去られた。皆、どうしようと悩んだが、結局兄が代表してあやまりに行くことになった。皆茶の間で小さくなっていたら、母堂がお茶と大きな器にらっきょうを入れて「さあ、遠慮なくおあがり。」と言ったそうだ。皆、ひしひし後悔したという。この母堂は、年に1・2回ごちそうをつくって、近所の子供らとともに遠足に行ったり、算術や書き取りを教えたりしていたという。この「うちらの本箱」のおきてには、その母堂の暖かくも、厳しく子供を育てようという教育の精神が生きていると思われる。

…妻と、次に長崎に行くときは、永井先生の記念館に行こうということになっている。

2014年8月9日土曜日

長崎原爆の日に永井隆氏礼賛

先日、長崎の原爆資料館を訪ねた(8月3日付ブログ参照)際、妻が「永井隆の生涯」(片岡弥吉著/サンパウロ)を買い求めた。その後一気に読んだという。妻に勧められるままに、今、私も読んでいるのだが、ほんと凄い人物である。どこから永井隆博士のことを書けばよいのか、迷うのだが、まずは、原爆被災までの生涯のアウトラインを示したい。

松江の藩医の家に生まれ、松江中学・高校を経て長崎医大へ。急性中耳炎を患った関係で、内科をあきらめ、放射線医学を専攻。二度の召集に軍医として従軍。長崎医大に戻り物理的療法科部長。喘息の持病だけでなく、(まだ技術が未完成だったレントゲン撮影を繰り返した関係で被爆)白血病となり余命3年の診断を受ける。その2ヵ月後原爆被災。右側頭動脈切断、出血をおして救護活動に挺身すること3日間。

今日は長崎の原爆の日である。永井先生の救護活動の様子をまず記しておこうと思う。永井先生のいた長崎医大の物理的療法科は原爆が爆発した松山町上空550mのところから約700mの距離にあった。8000℃の高温と秒速2kmの風圧に等しい圧力を受けたが、鉄筋コンクリートの建物だったゆえに負傷だけですんだ。とはいえ、全身にガラスの破片が突き刺さり、特に右目の上の動脈を切って全身血だらけで、破壊されたからくたからやっと抜け出した。

婦長ら部下が集まってきた。さっそく外来患者でまだ生きている人々の手当てを始める。三角巾も包帯もまもなく使い果たし、シャツを切り裂いては傷を巻いていく。両手で手当てしていると永井先生の右頭の傷から水鉄砲で赤インクを飛ばすように血が吹いて婦長の方を赤く染めたという。凄いのは、「この動脈は小さいから、まああと3時間は私の体はもてるだろうと計算しながら、ときどき自分の脈の強さを確かめつつ患者の処置を続けた。」という危機に際して冷静な判断をされていることだ。さらに、まず隊の集結、編成、衛星材料の確保、食料の調達、野営の準備それができたら(病院関係、軍、行政等の)上下左右の連絡、野戦病院の位置選定とこれからの打つ手を思い浮かべていく。被災後20分。各地で火の手が上がる。部下に、物理的療法科の機材の確認をさせ、報告を受けると、ニヤリと永井先生は笑う。「おたがいのざまを見ろ。それじゃ戦場へ出られんぞ。」「さあきちんと身支度をして玄関前へ集まろう。おべんとうを忘れるなよ。腹は減ってはいくさはできぬぞ。」部下に平常心を取り戻させた永井先生は、燃え盛る病棟から患者を担ぎ出し、玄関前や裏山へ運び出させる。3時間後、救出できるだけ救出した永井先生は、重傷の身で横たえている学長に報告すると卒倒した。以来、3日間さらに自分たちの家のことはおくびにださないで医療班の任務につく。

永井先生が、指揮者の許しを得て浦上の自分の家に向かったのはその後である。あとは、原文のまま。

わが家の焼け跡の狭さ。
あった、あった。灰の上に少し高まって現れている黒いものー春野よ!
台所のあと、茶わんのかけらのかたわらにーたったこれだけの骨になって…。
近寄って手をかけた。まだほのぬくかった。拾い上げたら、ああ軽くーぽろりとくずれた。
骨にロザリオのくさりだけがまつわっていた。(春野はみどり夫人をさす)

永井さんは妻みどりさんの遺骨ー骨盤と腰椎とを拾って、焼バケツに入れた。まだぬくかった。骨をいだいて防空壕にころがったまま昏眠に陥った。明くれば12日、空はほのぼのと白みゆき、さわやかな朝風が永井さんの意識を呼びさました。ロザリオを取り出して、灰の上にひざまずき、聖母に祈った。

義母と息子・娘は光山町に疎開させていたので無事だった。永井さんは母を失った子を慰める暇もなく、すりこぎとなってまた駆けずり回る。負傷者もかなり落ち延びてきていた。巡回診療を開始するのである。

2014年8月8日金曜日

朝日 米、初のアフリカ首脳会議

朝日新聞の朝刊に、米国が約50カ国のアフリカの首脳を招いて初の「米・アフリカ首脳会議」が開かれたというニュースが載っていた。要するに日本のTICADの米国版である。このところ、アフリカ経済のニュース配信がほとんどなかったので久々のエントリーである。
アメリカ企業(GEやコカコーラなど)もCSR(corporate social responsibility:企業の社会的責任・2013年3月7日付ブログ参照)を伴った140億ドルほどの投資を行おうとしているようだ。米国らしいのは、テロ対策への支援を表明したことである。まあ、中国のアフリカ進出への対抗策であることは間違いない。

http://www.asahi.com/articles/ASG874DS4G87UHBI019.html

ウォールストリート・ジャーナル(日本版)によれば、AUの副議長(ケニア)は、経済関係の構築はアフリカを動揺させてきた紛争の封じ込めに寄与するだろうと述べた、とある。また、これまでアフリカ諸国との間で結ばれてきたアフリカ成長機会法(Agoa)が、来年失効するのを受けて、綿花の問題は言うまでもなくアフリカの主要な関心事になっていると述べたようだ。

http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303513604580072182526006138

…オバマ政権が「世界の警察」を降りて久しい。そもそもアメリカが国連PKOから引くことになったソマリア紛争の現在の覇者アルシャバブ、さらにナイジェリアのボコハラムをAUは当然念頭においているのだろう。現在、これらのイスラム原理主義の流れが、アルカイダとイスラム国(旧ISIS)の綱引き状態になっている。(7月26日付ブログ参照)しかし今日、イラクのイスラム国への空爆を認めたとの事。このままでは米国の国威の低下のデメリットの方が大きいと判断したのだろう。今回の「米・アフリカ首脳会議」でのAUの表明も、間接的にでも米国の姿勢の変化に影響を与えたのかもしれない。

…綿花については、米国は強固な保護貿易体制を敷いている。サンベルト地帯(今はかなりテキサスが中心だが)の綿花農家が、かなり複雑怪奇な保護を受けているのは有名。要するに、Agoaを延長し、アフリカの綿花を輸入させてくれとAUは言っているわけだ。これはオバマ政権としても苦しいところだと思う。綿花農家は、強烈な圧力団体で、ユダヤ・ロビーと並んで力が無茶苦茶強い。AUもなかなか言うのである。

また、ロイター(WEB版)によれば、南アのズマ大統領は、南アの対米輸出の95%がAgoaの免税措置を受けており、米国民はこの機会を逃したくない(と考えている)と確信する、と述べ、Agoaの15年延長を要請したらしい。

http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL4N0QB0E320140805

…先日読んだ「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫/集英社新書:7月27日付ブログ参照)にもあったが、現在、投資する(地理的)「市場」は極めて小さくなってきている。最後のフロンティア(周辺と言った方がいいかもしれない)はアフリカだと言われている。実際、経済成長率の上位10カ国のうち6カ国はアフリカ諸国である。(但し、石油をはじめとする鉱産資源で儲かっているレンティア国家ばかりだが…。)まさに、米国は、ITの金融市場にばかり力を入れないで、投資するならアフリカだ。「今でしょ。」と言われているのだ。

2014年8月6日水曜日

”WICKED” その5 胎動

http://rikouchan.deviantart.com/art/
Wicked-Elphaba-and-Glinda-108375211
夏休みに入って、我が4組は、月・水・金をベースに、コツコツと9月の体育祭・文化祭に向けて、団活動を行っている。週3日というのは、皆でそう決めたらしい。

さて、我がクラスのプロデューサーともいうべきダンス部のN君と主役の一人であるT君が、先日ダンス部の府大会で2年連続全国出場を果たした。やったなあ。とにかく、本校のダンス部はレベルが高いのだ。(高笑い)

ところで本校では、今、耐震工事とともに、文部科学省の指導とかで、武道場の天井板を撤去する工事を行っている。(さらに体育館や講堂も天井板も撤去するそうだ。現場の教師としては、そのデメリットを考えると、なぜ必要なのかよくわからなくなる。)武道館を追い出された剣道部と柔道部が、ダンス部の横で稽古する羽目になっている。お互い極めてやりにくかろうと思う。(工事を計画・推進した人々には、そういう現場の実情を知らないのではないか、と思う。)N君やT君のチームは、仕方なく私費で外部会場で練習場を確保していたとか。そんなわけで、中心者の2人は、なかなかクラスの団活動に顔を出せなかったらしい。

これまで、アドパネルという団ごとの広告塔作製チームはコツコツと下絵を仕上げていたし、体育祭の団アピールで使うポンポンを240個つくるバートもコツコツと作業を進めてくれていた。団旗も下絵は完成。団のCMの方も少しずつ前進していた。舞台の方もシナリオが第二稿に入った。大道具も基本的な構想がまとまってきていた。

今日は、久々に団長のA君、プロデューサーのN君、シナリオ担当のS君とO君、アドパネルのチーフのI君、それに大道具担当のN君をはじめ、多くの生徒が集まった。O君とN君は、最も製作が困難な大道具の部品を買出しに出かけた。S君もシナリオ書きを止めて、何か役に立てればと来てくれたI君と大道具つくり。残りの女子はポンポンとアドパネルに別れて、クーラーも止められた教室で汗だくになって頑張っていたのだった。(冷暖房費が切迫しているらしい。補習は冷房OKだが、団活動には冷房がゆるされないのだという。本校の事務長とだいぶ討論したのだが、これも現場の教師から見ると、信じられない。「徳育」の意義や重要性をどう考えているのだろうか。)長崎土産のお菓子をみんなに配りながら、A君やN君とこれからの打ち合わせをした。

その後、団長のA君はさっそく、CMの遅れを取り戻すべく、自分で考えて時間を有効に使おうと私のカメラを預かって動き出した。いいぞ。それでこそ最高責任者である。N君は部活を終えて駆けつけてくれたO君を激励していた。いいぞ。それでこそ、人は動く。団活動は本校の重要な「徳育」である。

そんなわけで、今日は実にハッピーだったのだ。

2014年8月5日火曜日

ハマスのプロパガンダが大ウケ

イスラエル・エレサレム在住の息子から、メールが来た。近くでテロがあったらしいので、ドキッとしたが、全く違った。ハマスが、プロパガンダ用につくった曲と映像があるそうだ。

元の曲はヘブライ語で、ハマスのロケット攻撃の画像が中心だ。平和な日本にいると無茶苦茶恐ろしい映像である。以下のWEBサイトにアクセスすると、何を歌っているのか英語で内容がわかる。一気に見たのでくわしく解説できないが、やたらシオニストという語が出てくる。

凄いのはこれからである。この曲、イスラエルのユダヤ人たちに大ウケしているらしい。さっそく、その曲をベースに様々なバージョンがつくられている。WEBサイトにはいくつか紹介されているが、私がユダヤ人の芸術性を感じたのは、ライオンキングのアニメを使ったものである。

本物の映像と、このライオンキングの映像を見て、いかにイスラエルのユダヤ人がハマスのプロパガンダを茶化しているかがわかると思う。

何度かこのガザの話をエントリーしているが、私はどちらの味方でもない。ただ、イスラエルは、我々の想像をはるかに超えた異次元空間だということと、日本のマス・メディアに報道されない真実がここにあるということだ。

<是非アクセスしてみて下さい。>
http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/183718#,U-DEvIB V6s

最も上の映像が、ハマスのオリジナル・プロパガンダ映像と曲/英語の字幕つき
その下にユダヤ人がこれを茶化した映像/4番目がライオンキングである。

暑中お見舞い申し上げます。

http://candies1676.com/
shochuomimai-moshiagemasu/
昨日、前任校で担任したOGから暑中見舞いが届いた。嬉しいものである。さっそく「軍艦島」の絵葉書で返信した。今は、もう大学を出て社会人として頑張っている。近隣県の某大手住宅メーカーで営業の仕事をしているのだが、なかなか充実した仕事をしているようで一安心だ。

TVのCMを見るたび、「売れているのかなあ。」と心配していたのだ。営業と言う仕事、なかなか大変である。私も学生時代、労働生産性を考えて営業のバイトばかりしていた。(笑)消火器から始まって、塾の添削指導、法人向けのレギュラーコーヒーのサービス…。緊張感があるが、成果次第である。コーヒーサービスのバイトでは、新人のコーチとして回ることも度々だった。「こんな感じで、予約を取るんや。」と教えながら、次々と予約を取っていく。大変だったが、営業するモノ(この時はコーヒーのサービスシステム)自体にほれ込んでいたし、味にも自信があったから、やれたのだと思う。営業と言うのは、自分の利益というより、これはホントにいいからお勧めしている、という渋沢栄一的な倫理観が大事だと思う。

一度、京都のダウンタウンの雑居ビルに飛び込み営業に入った。そこの社長がじっと私の営業を聞いていた。反応がないのが怖かった。すると、「いいよ。契約しよう。ところで、君は学生かね?何回生?」「はい。4回です。」「就職は決まっているのか?」「教職につきたいので、今、発表待ちです。」「やめろやめろ。教師は儲からん。」「はあ。」「それより、うちに来い。月30万出す。君を教師にするなどもったいない。俺が一流の営業マンに育ててやる。」

…この会社、某教育関係企業の営業所だった。とにかく予約(無料で3日間ほど試してもらうシステムで、我々が営業していたのは、その予約だった。)してもらったのだが、帰社後、社員さんに「あの会社、正規契約してくれるらしい。ただし、お前を差し出せって言われたよ。」と大笑いされた。で、その後真剣に「教職試験、だめだったら、とりあえず1年間ウチで正社員になれよ。」とも言われた。(笑)母校での教育実習の際、恩師に「どうせ試験通らんから、来年は非常勤講師に来い。」と言われていたので世話になっているバイト先の話も断ったのだが、結局一発で試験に通ってしまったというわけだ。

定年までカウントダウンの私だが、「もし、試験に落ちていたらどうなっていたかなあ。」などと今更に想像してみる。営業の鬼になって、大きな家に住んでいたかもしれないが、やっぱり今の方が幸せだと思う。社会人になった教え子から暑中見舞いが届くのだもの。

2014年8月4日月曜日

長崎余話「海援隊英和いろは」

今回の長崎での戦利品 軍艦島と亀山社中のもの
長崎はなかなか面白い街だった。妻が「長崎」「長崎」といい続けていたのがよくわかった。(妻の場合、魚が新鮮でおいしいということも大きいようだが…。)私の属性はやはり幕末維新にあり、亀山社中をはじめとした様々な幕末の人々の長崎での遊学に思いをはせてしまう。今日の画像は、今回手に入れた教材群である。中でも、亀山社中で手に入れた海援隊のつくった「和英通韻以呂波便覧」は貴重なものだと思っている。すでに海援隊は英語に転換していたわけだ。

軍艦島も極めて興味深かった。近代産業発展のための海底炭田の開発の話は実に面白い。軍艦島についての本もたくさんあったのだが、グラバー園のショップで手ごろな冊子を見つけた。船中でいろいろと解説していただいたが、それを補足する意味でもなかなかいい資料である。なお、シーマン商会から上陸できなかったのに上陸記念証明と石炭をもらった。(笑)

長崎で、知りえた凄い人の話もまだまだある。アウシュビッツで身代わりに餓死したポーランド人のコルベ神父。放射線を研究していて、すでに被爆し白血病となっていた永井隆医師。さらに原爆で被爆、重症をおいながら救護活動に献身した人だ。

またおいおい長崎余話について、エントリーできれば、と思っている。

2014年8月3日日曜日

そして、長崎は今日も雨だった。

長崎原爆資料館
昨年の北海道修学旅行で、カラオケに「中の島ブルース」が入っていた。1番に札幌と2番に大阪の中の島が入った曲でもあるし、一発歌ったのだが、生徒には全然受けなかった。(ガイドさんにはかなり受けたけど…。)内山田洋とクールファイブ。超弩級演歌。ここには3番に長崎の中の島も入っている。だが、クールファイブの「長崎」といえば、「長崎は今日も雨だった」である。

3日目は、五島列島近くにまで台風が接近し、いくら「スーパー晴れ夫婦」(前回のエントリー参照)でもかなわない。が、もともと、市電に乗って「原爆資料館」に行く予定だったので、大きな影響はない。昔、広島の原爆資料館に行ったことはあるが、長崎は始めてである。広島のリトルボーイと違い、プルトニウムを使った原爆であることくらいしか正直認識がなかったので大いに驚くことが多かった。なにより爆心地が市街地より北にずれていることである。長崎滞在3日目にしてわかる話で、調べてみると、小倉を目指した米軍が、かなり混乱して、最後は第二目標だった長崎の、しかもずれた位置に落としたということになる。

からす第14部(1972年)
ところで、気になった展示が被害者の訴えのコーナーにあった。からす第14部(1972年)という絵である。(おそらくは強制連行されてきた可能性が高い)在日朝鮮人の方々の遺体が描かれている。すっと解説を読むと当時の差別的な状況が浮かび上がる。
私が、違和感を持ったのは、その内容というより、他の展示の多くが日本語・英語・中国語・ハングルの解説を行っているのに、ここには日本語と英語の解説しかなかったことである。帰宅後、少し調べてみたが、これまでにも、多方面からこの展示には批判があるようだ。極めて難しい問題であると思う。戦争を知らない世代であり、人権学習を叩き込まれた世代であり、今の東アジアの歴史認識のぶつかり合いに危惧を抱く地球市民の私としては、結論をすぐに出せるような問題ではない。ただ、私の感じた違和感は、この批判への資料館の対応なのかもしれないと考える次第。

長崎の原爆資料館も、極めて長崎的な充実した展示で、我々の胸にせまるものだった。隣接する国立の追悼平和記念館にもよって、妻と静かに黙祷を捧げてきた。市電に乗って長崎駅まで戻る際も、まだ、長崎は雨だった。

https://www.tengyu-syoten.co.jp/book/162453
時間があったので、妻がイエズス会の「日本二十六聖人記念館」に行こうと言った。長崎駅から歩いていけるところにある。(近くに勝海舟の住んでいたところがあったりする。)これがまた、すごい資料館だった。キリスト教関連の資料については、私はあまり属性がないのだが、二階で大航海時代の地図が大量に展示されていたのには驚いた。さすがイエズス会。メルカトルの日本地図まである。(左の画像はWEBより。館内は撮影不可だった。)長崎の資料館、恐るべし。

というわけで、♪探し探し求めて~ 二人二人さまよえば~ 行けど切ない石畳 嗚呼 長崎は~今日も~雨だった~と歌いながら、空港バスに乗り込んだのだった。

追記:長崎駅前で、古そうな喫茶店に寄った。(前々回のエントリー参照)ウェイトレスの娘さんはいなかったが、カウンター内におばちゃんがいた。加川良の歌は30年も前の話だから計算は合うか…。心の中で…加川良がよろしくとのことです…。

スーパー晴れ夫婦 in 長崎

長崎歴史文化博物館
今回の長崎行きを阻むように台風が接近していた。7月31日、出発時の大阪は晴れていたが、3時すぎの長崎空港は雨だった。とりあえず、市内中心部の大波止(おおはと)にあるホテルにチェックインし、さっそく長崎歴史文化博物館へタクシーで向かう。私には長崎の坂を登るのは絶対無理だということだった。(笑)しかも小雨である。スーパー晴れ男と晴れ女の夫婦旅なのだが…。

妻によると、長崎は博物館の充実度がハンパではないらしい。その言に嘘はなかった。時間があまりないので急いで見たのだが、素晴らしい博物館だった。長崎には、様々な歴史が刻んだ魅力が凝縮している。常設展の最初は、貿易の展示だった。様々な貿易品を目利きする展示は、実際に体験できて、実に凝っている。こういう体験的展示やVTRを使った展示の豪華さと言う点では、我が大阪が誇る国立民族学博物館をも完全に超えている。オランダ語の辞書や唐人街の模型、中国磁器の展示…。息を呑むほどの素晴らしさだ。
幕末期の長崎留学についても興味深い展示が多い。伊藤博文、大隈重信、河井継之助、五代友厚、吉田松陰、貝原益軒、高野長英、前野良沢、中江兆民、平賀源内、福沢諭吉…。凄い面子である。

解体新書の展示も、薩長が輸入した西洋銃の発展の展示も長崎ならでは、でないか。さらに長崎奉行所が復元されていている。なかなかの見ごたえなのである。ここには、隠れキリシタンの展示もされていた。浦上四番崩れの展示もあった。(この話はさすがの私も遠藤周作の本を読んで知っている。)

意外なものを2つこの博物館で発見した。ひとつは、長崎遊学者の代表格・勝海舟が西南戦争で自刃した西郷を想って書いたという詩(西郷南洲追弔詩)と、特別展(お化け屋敷を科学する展示で面白かった。)に、なぜかあった芥川龍之介の河童の絵である。
西郷南洲追弔詩(勝海舟)と河童(芥川龍之介)
博物館を出ると雨は上がっていた。しかしスーパー晴れ夫婦の力を実感するのは、翌日の軍艦島ツアーである。出発時には、どんどん晴れ間が広がった。まさに、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」である。(笑)私たちが予約したのは、(妻が前回利用した、ちょっとマイナーな)シーマン商会のさるく号である。現在、軍艦島には、台風被害で上陸できないそうで、かわりに近くの高島に上陸するとのことだった。残念だが、仕方がない。それより台風で欠航しなかっただけラッキーだった。
最も戦艦「土佐」(意味深である。)に見える位置で
このツアー、参加者は我々と神戸の家族連れだけ。(笑)最も軍艦らしく見える地点で、写真を撮ったが、凄い波である。迫力満点だった。詳しい解説がありがたい。高島は、軍艦島同様海底炭鉱の島で、資料館もあり、ある意味、端島(軍艦島)の産業的位置がよくわかったのだった。私はこれで十分満足した。うむ。なるほど長崎は岩崎弥太郎以後は三菱の街だ。

グラバー園のフリーメイソンの門柱
さらに晴れ、暑くなった。桟橋から大浦天主堂・グラバー園へ歩く。ここは長崎の(京都にある清水寺へ続く)三年坂のようなオミヤゲ屋の連なる観光地である。キクさん(遠藤周作の浦上四番崩れの小説に出てくる)が他界するマリア像を探し、グラバー園ではフリーメイソンの門柱を探ししていた。

長崎に来たら、行かなければならないところはたくさんあるのだが、長崎駅前の喫茶店(この前にエントリーした加川良の「あの娘と長崎」参照)はともかく、竜馬の「亀山社中」である。妻は、全く興味がないらしく、前回は来ていないそうだ。結局遠いし、山の中腹にあるので、タクシーで行くことになった。

「亀山社中」はまさに山麓の住宅街の中に隠れるようにあった。タクシーに待ってもらっていたので、急いで坂を降り、見て回ったのだが、これも十分満足した。ちょっとだけ竜馬のブーツをはいて記念写真も撮った。(笑)もと来た坂をひいこら登ってタクシーに乗り込んだ瞬間、凄い雨になった。さすが、スーパー晴れ夫婦の面目躍如である。

♪加川良「あの娘と長崎」…。

加川良の「アウト・オブ・マインド」というLPに「あの娘(こ)と長崎」という歌がある。このところ、我が家(私と妻だけだけど…)は、毎日のようにこの歌が(鼻歌として)歌われていた。

♪もしも誰か長崎へ旅することがあったら
 ほんの少し通りすがりに寄り道してほしい
 あの娘は今も あの喫茶店で
 ウェイトレスをしてるかどうかのぞいてほしい
 どうぞよろしく伝えておくれ 名前も知らないあの娘に
 どうぞよろしく伝えておくれ 僕の片思いあの娘に

そう、ついに私が長崎に足を運ぶ時がきたのだ。昨秋、妻が長崎に行って以来(昨年9月30日付ブログ参照)、「長崎」「長崎」と妻が言い続けて1年。ピーチの関空-長崎便で行ってきたのだ。ちょうど、学校の行事で団活動(生徒の体育祭・文化祭準備)が出来ない2日間と土曜日の2泊3日の日程が取れた。今年は、どこへも行けないと覚悟していたのだが、妻の熱意がピーチの空席を確保させたようだ。

たしかに長崎は、妻が言うように見所いっぱいだった。少しずつエントリーしていこうと思う。
まずは、航空ファンとして、LCC・ピーチ航空の話。関空の第二ターミナルには、エアロプラザから無料バスが出ている。ほんと隔離されているような感じだ。さすが長崎往復12000円である。第一ターミナルとは凄い格差である。だが、私がイメージしていたよりはるかにいい。なんとなくサービスのいい長距離バスのディーポという感覚だった。ただ放送設備は、もう少し充実して欲しいところ。

当然、タラップで乗り降りするのだが、復路は台風の影響か雨が降っていた。エンジ色の傘もなかなかかわいい。LCCとしては、十分だと思う。

機内の狭さは予想どうりだ。フライトが短いので全く問題ない。ただ、通路はかなり狭く感じた。LCCに多い、A320機材的な特徴なんだろうと思う。もし、台湾に行くことがあったらピーチを利用してもいいな、と思った次第。

画像は、ピーチのオリジナル・ストラップ。往路の関空のショップで購入したもの。航空ファンとしては、嬉しい一品。