2014年8月20日水曜日

毎日 流血のミズーリ

「証拠を見せろ」が州のモットー・ミズーリ州
https://www.flickr.com/photos/shookphotos/5671007450/
「流血のカンザス」という言葉がある。南北戦争前のアメリカで、自由州(北部)と奴隷州(南部)の勢力争いの中、当時のカンザス準州で起こった事件のことだ。今回のセントルイス近郊で起こった警察による黒人少年射殺事件には、私も衝撃を受けた。あえて、今日のエントリーのタイトルを「流血のミズーリ」とした次第。

ミズーリ州についても再勉強した。州の東側がミシシッピの中流で、セントルイスがある。西側にはカンザスシティ。それぞれMLBのチームをもつ大都市圏である。人種別人口では83%の白人、12%の黒人。残りがアジア系やネイティブという感じだ。ヒスパニックがわずかに増加しているが、この比例は20年前から変化していない。白人は中西部らしくドイツ系・アイルランド系が多いが特に大きな特徴がない。宗教についてもプロテスタント45%、カトリック19%で、大きな特徴はない。経済的には、工業も農業もなかなかのもの。州の生産高が全米26位。要するに、平均的な州だといえるわけだ。

毎日新聞の今日の朝刊によると、根強い「白人支配」への不信と憎悪が、今回の抗議デモに凝縮されていると見ている。ところでミズーリは、中西部だが、複雑な歴史があって、「奴隷州」としての歴史を持つ。「南部」と見るべきだという論もあるらしい。州知事が、州兵など動員する必要があるのか、と誰しもが思う。非は警察にあることがかなり明確である。しかし、こういう地域的な伝統というものは、なかなかぬぐえないものだと私は思う。

私の世代は、今で言う人権学習をそれこそギンギンに受けた世代である。同和問題や外国人問題、障害者問題など、徹底して平等だという教育を受けた。だが、両親の世代とはギャップがあり、意識の差に愕然としたものだ。その子供の世代になってそれが普遍的な価値観として定着していると思っていたのだが、最近のヘイトスピーチやホームレスの方への暴力、また被爆者の方への中学生の暴言などの事件を知るにつけ、人権問題と言うのはそう簡単なものではないと再認識するようになった。

学生時代、左翼の知人と論争になったことがある。彼が言うには、唯物論的に、すなわち経済的平等が達成されなければ、そういう人権問題も解決できない、と。哲学・宗教学の徒である私は、人権問題は、あくまで実存的な意識改革の問題であると。

私は、どうも今回の問題は、アメリカのかかえる古くて新しい白人VS黒人という問題でありながら、昔、左翼の友人が言った様な経済格差の問題であるかもしれないという印象をもっている。富の少数派による独占が顕著なアメリカでは、黒人はもちろん、白人も苛立っているように見えるのだ。ミズーリは平均的な州だ。富を独占している少数派は東部やカリフォルニア、あるいは隠棲の地フロリダやアリゾナにいる。いわば、負け組同士の傷つけあい。アメリカが内向きになり、新たなフロンティアも世界的な名誉も失った。そんな苛立ちの中で平均的な州で起こった古くて新しい事件、という印象が強いのだ。

これは、中国の地方での経済格差が生む、党幹部への憤り・暴動に近いものではないのか。これからも、様々なアメリカ各地でも同様の事件が起こりうるような気がしてならないのだ。世界で反アメリカの動きが加速している。そしてアメリカ内部でも…。

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