2017年11月18日土曜日

ジンバブエのクーデター

http://www.bbc.com/japanese/41993142
先日から、ジンバブエのムガベ大統領が軟禁され、軍の主導で、大統領の妻の影響で解任された副大統領が復権か?というニュースが流れた。WEBだけの情報、それがたとえ、BBCやCNN、あるいはロイターやAFPなどの複数の報道であっても、なかなか真実はよくわからない。様々な憶測と解説があって、うーん、である。

私がジンバブエに旅したときは、ハイパーインフレの始まりの頃で、ムガベが白人を追い出して経済が傾きかけていた時だった。あれから、さらに凄いことになっていった。ただ、いくつかの記事にあるように、ムガベは独立時の英雄であり、ハラレなどの都市生活者はともかく、田舎では人気ある、と当時、バスの車内でガーナ人が言っていたのを思い出す。今は、すでに田舎でも実質的な支持は下がっていたのだろう。

…副大統領だった人物も独立時の盟友らしい。少なくとも若い大統領の妻よりははるかに為政者としては適任なのかもしれないが、いずれにせよジンバブエの失敗国家を再生するには、抜本的な改革が必要であると思われる。

…ムガベの白人追い出し政策で、欧米の投資は激減している。おそらく、中国の支援を渇望するだろうが、中国のアフリカ政策は、アメリカ以上に自国中心主義であるから、実質的に中国の植民地化する可能性もある。ジンバブエは、資源大国ではない。気候の良さと土地の良さ、それに人の良さがウリである。果たして、中国が内陸国のジンバブエ再建にどれくらい力を入れるかは未知数だ。

…欧米も当然、その動きを阻止する方向に動く可能性もあるが、かつての宗主国イギリスは、政権が変わっても、独立革命の盟友であり、これまでのムガベ政権の副大統領だった人物を容易に受け入れないだろうと思う。

…いずれにせよ、悪魔的ですらあったムガベが排除されたことは喜ばしいが、再建の道は険しい。私は、うーん、と唸るのみである。

2017年11月17日金曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(4)

http://islamchapter13.weebly.com/dar-al-islam-and-treatment-of-women-in-islam.html
帝国の復興と啓蒙の未来、さらに備忘録の続きである。ダール・イスラームについてのエントリー。イスラームは、全人口の8~9割を占めるスンナ(スンニ-)派、1~2割のシーア派に大別されるが、シーア派の9割を占める12イマーム派、その他のザイド派、シスマイール派、さらに300万人弱のハワリージュ派(アリーに反旗を翻し粉砕され、分裂を繰り返し、他宗派を異端視して殺害する狂信カルトともいうべき宗派だが、イスラームには正統教義を決める資格のある聖職者制度を設けることもなく、カリフが教学に介入し正統教義を定めなかったので、排斥されていない。)の流れを引くイバード派、さらにはイスラームの一派か否か曖昧なアラウィー派(例のシリアのアサド大統領が信仰する少数派)、ドルーズ派(イスラエルに行ったとき、その寺院に入ったことがある。)などの分派が存在する。ウンマ内で分派が特に殺し合いに至る争いを繰り返しながらも、ついに1000年以上にわたって一度も内包(教義)と外延(メンバーシップ)を公式に制度化して、どれか一つを正統としてそれ以外の諸派を排斥することもなく、「不可視的教会」として存在してきた。

キリスト教世界に対応する概念としては、「ダール・イスラーム」という概念がある。イスラームの世界観では、宇宙の創造心アッラーは天と地の主であり、主権はアッラーのみにあり、大地は全てアッラーに属する。領域国民国家という地球の分割という発想はない。地球の主権は神にあり、神授の天啓法シャリーアを世界の隅々まで施行することが人間の義務とされる。そこで、イスラーム法学では、ムスリムが支配しイスラム法によって統治されている法治空間を「ダール・イスラーム」とし、異教徒が「不法」に治めている「ダール・ハルク」(戦争の家)に二分する。このダール・イスラームを弘める義務をジハードと呼ぶのである。ジハードの規定において、ムスリムはダール・ハルクの住民にムスリムと成るか、ジズヤ(税金)を治め生命・財産・名誉の安全を保障されるズィンミー(庇護民)として、その居住地をダール・イスラームに編入するように呼びかける。

この庇護民となれるのは、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ゾロアスター教徒のみとする学説と、全ての異教徒とする学説があるそうだ。(フィクフの本にもそのあたりが詳しく書かれている。またいずれエントリーしたい。)このダール・イスラーム、ダールハルクという大別は、スンニー派もシーア派も同様である。重要なのは、キリスト教世界には、異教徒の存在は想定されていない。イスラームでは、異教徒との共生が前提になっている。ジハードの目的は、あくまでイスラーム法の法治空間/ダール・イスラームの拡大であると中田氏は説いている。このキリスト教の排他的な信徒組織とイスラームの異教徒を支配下に置く都市国家の「国教」であるという相違が、文明としての西欧文明とイスラーム文明の相違を生み出したというわけだ。…なるほど。

帝国の復興と啓蒙の未来(3)

アウグスティヌスの洗礼
http://www.b-family.org/public_
html/omoi/027/augusdoc.htm
「帝国の復興と啓蒙の未来」備忘録エントリーの続きである。キリスト教の神の国とイスラームのウンマ(共同体)の相違について。

アウグスティヌスは、教会がキリストを頭とするキリストの身体であると見なす。キリストとその教会を神の国と呼んだ。しかし地上の可視的教会には「地の国」(その覇権を代表するのはローマ帝国)が入り込んでおり、すなわち悪人が善人の中に混ざっており最後の審判でふるい分けられると説いた。このアウグスティヌスの二国論に基づく中世の世界観は、神の国・ローマカトリック教会と、西ローマ・神聖ローマ帝国、さらに異教世界の地の国という二重構造かつ二元論的なものであった。歴史が示すとおり、この地上に於ける神の国の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で教権と俗権の対立を生む。宗教改革後は教皇権が弱まり、カトリックの独占が崩れると様々な教派が神の国を代表するようになり可視的な教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、主権国家の成立となる。キリスト教では全ての異教徒の支配は、「地の国」の覇権として範疇的に悪である。

カトリック教会では、第1回バチカン公会議(1869)で教皇の無謬を正式に決定した。伝統的には、教皇だけでなく、公会議の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。

イスラームにおいて、キリスト教の教会とおおまかに対応する概念はウンマである。イスラームでは、ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、スンナ派法学は「私のウンマは無謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意は「イジュマ-」は無謬とされ、イスラム法のクルアーン、ハディースに続く第三法源となっている。(他方、シーア派は、イマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したと考える。)

キリスト教には、資格のある聖職者による公式な洗礼があり、メンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会が成立するが、イスラームには聖職者もいなければ認可の手続きもなく、登録する機関もないので、ウンマにはメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものも成立しない。

つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め世俗権力が聖職者階級人事や彼らによる教義の決定に公式に介入すると言った制度はイスラームのウンマには成立しないわけだ。

私はブティストであるが、アイオワでルーテル派教会の日曜礼拝を見せて貰ったこともあるし、マレーシアでムスリムの事情も見聞きしていて、なるほどと思うのだ。

2017年11月16日木曜日

子どもたちの生きるアフリカ

先日、ブルキナファソでお世話になった文化人類学者の荒熊さんの編集による新刊が出たとのブログを読んで、これは是非手に入れなければと思っていた。で、中之島のCANONサービスセンターに行く用事もあったので、久しぶりにJ堂に行ってきた。

「子どもたちの生きるアフリカ-伝統と開発がせめぎあう大地で」という本で、検索したら3Fの人文書/文化人類学のコーナーにあると出てきた。最新刊なので、ちょっと心配だったが、ホッとしたのであった。さすがJ堂である。

こうして、自分の本が出るというのは、ちょっと大げさだけど、男子の本懐であると思う。私もいつか、機会さえあれば…と思う。

荒熊さん、おめでとうございます。そのうちに、書評をエントリーさせていただきます。
http://cacaochemise.blogspot.jp/

2017年11月15日水曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(2)

http://www.gregorius.jp/presentation/page_79.html
中田考氏の「帝国の復興と啓蒙の未来」のエントリー続編である。今回は、十字軍パラダイムについて。現在の社会をリードしているのはヨーロッパ(特に西欧)だが、昨日エントリーしたフランスのベストセラー作家の「服従」という作品に見られるように、イスラーム・コンプレックスがある。

イスラームはトラウマである。西欧によるイスラーム理解の歪みは単なる無知ではない。イスラームに自己の内にある譜のイメージを投影することで自己イメージを護ろうとしている、というのが中田氏の言うイスラーム・コンプレックスである。

西欧思想は、ヘブライズムとヘレニズムを二大源流としている。私も今まで倫理の授業でそう教えてきたが、イスラームこそが、ヘブライズムとヘレニズムの正統な継承者はイスラームだと中田氏は説く。これは、確かにその通りである。アブラハムを始祖とする一神教はユダヤ教・キリスト教・イスラム教を生んだ。これがヘブライズムである。ギリシア哲学を中心とする合理的精神はヘレニズムと呼ばれるが、その学問の中心地は、エジプトのアレクサンドリアであり、東ローマの正教世界からイスラームの世界に編入されている。一方、西ローマ帝国は早く滅び、ラテン語を中心としたカトリック化する中で、ヘレニズムは忘れられた。西欧のルネサンスは、イスラーム世界でアラビア語化されていたヘレニズムを十字軍以後再認識したにすぎない、というわけだ。これは、日本の学校であまり教えない厳然とした事実である。

十字軍パラダイムとは、ヨーロッパ・キリスト教世界とイスラームの対立を殊更に取り上げて絶対化、固定化させ、キリスト教同士の量的にも質的にもはるかに凄惨な相互殺戮の歴史の事実から目を逸らさせ、平和なヨーロッパと好戦的なイスラームという誤った自他イメージを心の中に植え付けるイデオロギーなのである。

この十字軍パラダイム、実に面白い。EJU後に今年も哲学講義をする予定なので、さっそく使わせてもらおうと思う。マレー系の学生は少し喜ぶと思う。

2017年11月14日火曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(1)

飛行機の中で、内田樹氏の「日本辺境論」(これも日本人会の無人古本コーナーで手に入れた。)を読んでいた。この本の冒頭で、内田氏は「大きな物語が消えてしまった」ことを嘆いている。大きな物語とは、たとえばマルクスの階級闘争の歴史論(自由人と奴隷・貴族と平民・領主と農奴・ギルドに属する親方と旅職人の4種)のような、「大雑把な括り方」を意味する。

ところで、今「帝国の復興と啓蒙の未来」(中田考著/太田出版・2017年7月28日)を読んでいるのだが、冒頭、中田考氏は、以下のように地政学的な「大きな物語」を提示している。

現在の世界は、西欧文明がその特殊な啓蒙の歴史的使命を終え、ローカルな1つの文明の地位に沈降しつつある一方、グリーバリズムの名を纏ったアメリカのどう猛な経済覇権主義が世界各地に防衛本能として経済ブロック化を招来し、そのブロック化が文明圏の再編の形を取ることで、ロシア、中国の領域国民国家の枠を越えた帝国としての存在の復興の野望をあからさまに誇示するようになり、第三次世界大戦前夜とも言える状況になりつつある。こうした動きの触媒となっているのが、文明の十字路に位置したユーラシア大陸とアフリカ大陸にまたがるイスラーム世界の中心部オスマン帝国の旧領である。

2015年1月7日、パリのシャルリー社が襲撃された。この日は、「服従」という近未来小説が発売された日でもある。浅田彰は、「あらかじめベストセラーになるべく予定されていた「服従」は歴史的事件となった。」(パリのテロとウエルベックの服従)と言った。この「服従」という小説は2022年にフランス大統領選挙でムスリム同胞団の候補者が勝利し、フランスがアッラーに服従するという衝撃的な内容だったのだ。著者のウエルベッグはフランスのベストセラー作家である。

この「服従」を元に、中田氏はヨーロッパとイスラムの関係性を説いていくのだが、それはまた次回以降のエントリーということで…。

2017年11月13日月曜日

イスラムのフィクフ考3

https://play.google.com/store/
apps/details?id=com.MoslemWay.
Fiqih4Mazhab&hl=ja
中田考氏の「イスラーム法の存立構造」という本は、極めて難解な法学書であるが、意外な発見があって面白い。昨日エントリーした内容が、実は「イスラムのフィクフ考3」というタイトルでもいいと思うが、気にせず3回目の備忘録とする。

今回はイスティンジャーゥの話。前述の「満足を求める者の糧」という書物から。日本では、浄・不浄という考え方が強い。しかし、イスラム法の浄・不浄はもっと徹底していると思う。このイスティンジャーゥは、用便の始末という意味である。

トイレに入る前は、「アッラーの御名において。悪と悪魔からアッラーに助けを乞います。」と唱え、出る際には「あなたの御赦しを」「私から有害物を取り去り、私を癒されたアッラーに称えあれ」と唱え、トイレに入る際は左足から、出る際は右足を先にし、モスクに入る場合や靴を履く場合とは逆にするそうだ。用を足すときは左足に重心を置き、空き地の場合は遠くに行って姿を隠し、柔らかい場所に向かって放尿し、放尿の後は左手で陰茎の根本から先まで3回撫で、3回しごき、もし汚れる恐れがあれば場所を移して別の場所でイスティンジャーゥを行うことがムスタハッブ(望ましいもの)である。

至高なるアッラーの御名の記されたものを身につけたままトイレに入ること(預言者=ムハンマドがトイレに入られる際に、”ムハンマドはアッラーの使徒である”と掘られた指輪をはずされたとハディースにあるそうだ。)、地面にしゃがむ前に服をまくり上げること、右手で陰部に触れること、2つの光(太陽と月)に向かって用を足すことはマクルーフ(避けたほうがよいもの)である。

お気づきの方もあるかもしれないが、ムスリムには、義務行為(絶対に行わなければ来世で罰を受ける行為:礼拝や断食などをさす)、推奨行為(行わなくても来世で罰は受けないが、行った方がよい行為)、合法行為(どちらでも良い行為:フィクフに特に規定がない行為)、自粛行為(来世で罰は受けないが避けた方がよい行為)、禁止行為(行えば来世で罰を受ける行為:飲酒や婚外交渉などをさす)と5種類の規定がある。上記のイスティンジャーゥは、推奨行為と自粛行為について述べられているわけである。

正直なところ、この項には少し驚いた。イスラームとは「神に服従すること」という意味であり、ムスリムは、シャリーアの体系に従って生活していることを頭では理解していたが、トイレに出入りする際にも、聖句を唱えるという事実。これは、文系の国費生にも確認した。彼らからすれば当然のことであるので、至極普通に「そうですよ。」と答えてくれた。

エルサレムで、ユダヤ教の律法に即して安息日の食事をごちそうになった際の、あの様々な約束事を思い出した。啓典の民というのは、なかなか大変である。