2024年4月24日水曜日

イスラムと Wittgenstein

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第7回目。いよいよ現代哲学に突入である。まず、ヴィトゲンシュタインとイスラムの関わりであるが、中田考氏の見識はすこぶる深く、論理実証主義を見事に解き明かしているのだが、難解に過ぎるので、その部分は割愛したい。以前から、ヴィトゲンシュタインについては、一度本気で読んでみたいと思っていた。その際にまた参考にさせてもらおうと思う。よって、イスラムとの関わりに絞ってエントリーしておきたい。かのヴィトゲンシュタインの前期哲学の集大成である「論理哲学論考」の有名な結論「およそ語りうること明晰に語りうるし、語り得ないものについては沈黙しなければならない。」で、沈黙すべきものを彼は「神秘的なもの」と名付けている。

ヴィトゲンシュタインの「神秘的なもの」の一つは、自己であると中田考氏は言う。自己は世界の中にはなく、世界の外との境界にある。世界の中にはいかなる価値もなく、しかし世界の外には、「語り得ないもの」すなわち神がいる。自己は、接点、接面といった比喩でしか語れないものであり、しかも実際には人間は4次元の世界で生きているので、時間にも厚みがあるはずで、それが哲学の一番の問題であるとと考えているとも。自己は存在しないという命題は哲学化されたイスラム神秘主義の中では、これが通説で、人間は存在せず、自己も存在せず、神だけが存在すると言われてきた。シーア派のイルファーン哲学では、これを理論化しようと試みているが、中田考氏は成功しているとは思っておらず、それに対して、スンニー派は理論化せず、沈黙し、言葉で語るのではなく実践の中で示そうとしてきた。よって、スンニー派は、ヴィトゲンシュタイン的と言えなくもないとのこと。

後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」については、言葉は生活様式の一部で単語にあらかじめ決まった意味もなければ決められた使用法もない、逆にそのような先入観を捨て虚心に実際の言語の使用法を観察することが哲学の仕事だ、とヴィトゲンシュタインは主張するが、イスラムは、全くの逆で言葉には正しい意味と正しい使用法がある、それがクルアーンの言葉であり、ムハンマドが弟子たちに語った使用法の中に示されている、と全く逆の立場を取っている。このため、イスラムでは、クルアーンの意味論的意味を確定するために、イスラム以前のアラビア語の語彙を収集し、数十巻にも及ぶレキシコンを編集すると同時に、預言者の言葉だけでなく。彼と弟子たちの言動を記録し、彼らが生きた生活様式をできる限り変えずにそのまま維持することに努めてきた。(…まるで荻生徂徠の古文辞学の如くである。)ここで、イブン・ターミヤが登場する。法学的に、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論と同様な理路(虚心で意味を探る)で、預言者とその弟子たちの生活様式を守ることでがクルアーンの意味を正しく理解できると考えた。イブン・ターミヤは、復古主義を唱え、神学的にこの宇宙を超えたこと、語り得ないことに関しては、この世界の外からきた言葉、クルアーンに自ら語らせ、その具体的な内容については自分の言葉を付け加えないとすることで、「語り得ないことについては沈黙する。」という同じ立場をとったといえると、中田考氏は語っている。

…なかなか興味深い内容だと思う。しかし、中田考氏の見識は感動的なほど深すぎる、と私などは思う次第。

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