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| https://note.com/aokikendi/n/n22393f3e599d |
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(パウロがガラリア人に宛てた手紙/第3章23-24)ここで、示された「養育係」というギリシア語は、前述のクレメンスが、哲学の役割の言及に用いた言葉と同じである。クレメンスは、読者がこの類比に気づくように意図したことは疑いがない。(P65)
ユダヤ教の時代、律法は救済への道を示したのだが、キリストの登場によって律法は完成した。ゆえに律法とは、イエス=キリストのことであるというのがパウロの立場。これに対して、マルキオン(85年~160年頃)という人物は、律法とキリストは完全に対立しているとして、パウロ書簡の一部とルカの福音書のみ(旧約部分は削除)の聖書を作る。このマルキオンの聖書(画像参照)に対し、正典派が起こり、旧約と新約を一体にする形で聖書をつくった。このマルキオンは異端とされ、彼への危機感がそうさせたらしい。(P66)
クレメンスによって哲学に与えられた役割も律法と同じ。神が受肉したからこそ、それを描くことが出来、概念化が可能になった。概念で表すことが出来たから、信仰に繋げることが可能になった。つまり、律法によって、我々は罪を知ることが出来た(=「律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となった」)が、罪から解放されるためにはキリストが必要だった。これと同じように哲学、概念によって神を理解する備えがされているとして「養育係」という同じ言葉が使われたといえる。(P67)
…本書は、あくまでプロテスタント神学生のための哲学講義なので、このような論議がされている。高校倫理の教師のテリトリーを遥かに超えた内容で、実に面白い。



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