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まずは、キリスト教とユダヤ教の終末感の相違について。ドイツの神学者・モルトマンによると、キリスト教では、イエス・キリストの出現によって、すでに終末は始まっているので、救済は先取りされており「希望」(Hoffnung)、ユダヤ教では、救済が先取りされていないので、「待望」(Erwartung)という異なる構成になる。歴史認識としては、キリスト教では、イエスパレスチナに出現した時が人類史のどん底という認識であるが、ユダヤ教にはそのような認識はなく、ボグロムやホロコーストを体験している彼らからすれば、もっと悲惨なことが起こるかもしれない、キリスト教の歴史認識は根拠薄弱だと考えている。(P117-8)
…両宗教の終末観の違いは、実に重要な学びであった。あまりこういう基本的な相違は語られていない。
割礼について、エルサレムの宗教会議でパウロとヤコブ(プロテスタントの伝承ではイエスの弟にあたる)が対立し、その後パウロ派以外のキリスト教は絶滅するので、パウロがキリスト教のベースになった。とりわけ、パウロにウェイトをおくのが、プロテスタンティズムの特徴で、カトリシズムは天国の鍵を持ったペトロが初代教皇になった。(ペトロとパウロの像が、サン・ピエトロ大聖堂にあるのは周知の事実。)それに対して正教会が重視するのが使徒・ヨハネ(画像参照:洗礼者・ヨハネではない。)ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考えによる。さらに使徒・ヨハネが記したヨハネの黙示録で終末という考えが始まっているとする。(P120)
…以前読んだ佐藤氏の本の中で、正教会がとヨハネ福音書を重視することを学んでいたが、もう少し詳しく書かれた記述だった。ただ、「ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考え」については、改めて正教会の本を読んでみようと思う。幸い、学院の図書館には正教会関係の書籍も豊富に揃っている。
よって、キリスト教の開祖は誰かと問われた場合、中学から大学までの入試なら、イエス・キリストと答えるのが「◯」だが、神学部の定期試験や大学院入試では大いに「✗」となる。なぜならば、イエス自身は自分をユダヤ教徒と考えていたことは間違いないからで、正解はパウロである。(P121)
…これは実によくわかる。私が初めて学院に登校した日に、J大学神学科卒のW先生もそう言って笑っていたことを思い出す。
やがて、アウグスティヌスのスコラ哲学へと進む。ここで佐藤氏は淡野氏のテキストの原罪思想についての間違いを指摘している。アダムとイブが禁断の実を食べたから原罪を持ったのではなく、食べる前から原罪を持っており、自由意志の濫用(禁断の実を食べたという行為)によって原罪を受けたのではない。そもそもの原罪ゆえに自由意志を濫用したのである、というのが正しいとのこと。(P124)
…この点は私も誤解していた。こういう記述が実にありがたいのである。



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