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デカルトの神の存在、その完全性(第二証明で、神は完全なものであると明記し、空想や経験で得られることはないとした。)という概念は、理性に過度な信頼を寄せたことで、長きに渡ってその責任を負わされることになった。なぜなら、神は完全であると強調すればするほど、遠藤周作の『沈黙』に描かれた悪の放置という問題にぶちあたり、神の存在証明と合理主義の結合は無力化することになる。これは、啓蒙思想を経てニーチェまで行って「神の死」などと言われるようになった神はデカルトが作り出した神であるということになった。フォイエルバッハやマルクスが否定した神でもある。キリスト教では、人間が「神はこうなっているのだ」と考えるような神は偶像であるとする。(P195 -7)
デカルトの神の存在証明は、発表された瞬間にパスカルに徹底的に叩かれている。デカルトはそれを無視した。このデカルトとパスカルの関係は、カントとヘーゲル、プラトンとアリストテレス、マルクスとキルケゴールといったそれぞれの時代精神を表す両極の「対」であり代表者であるといえる。それぞれ両極のどちらにシンパシーを感じるかで思考の鋳型が決まる。通常、プラトンに関心を示す人は、カント・キルケゴールが好きで、アリストテレスが好きな人は、デカルト・ヘーゲル・マルクスが好きだといえる、と佐藤氏。(P198)
ところで、デカルトは、デカルト座標を考案し代数学と幾何学を結びつけた数学者でもあるが、パスカルも「確率」という従来と違う数学を作り出した。人間の思考が変わる時、数学が変わるということも重要らしい。この後にライプニッツとニュートンによる微積分が考え出され、さらに天文学の発展により対数が使われるようになった。(P201)
さて、デカルトと「対」であるパスカルは、限界のある理性でなく、心によって真実を知るとし、「隠れたる神」を知ることができるのは神が受肉したことだけで、神性の部分は描けないとした。これが明らかにされるのが、神学的には「啓示」となる。ちなみにパスカルはあくまで哲学的で実存主義に近づいている。またルターはこの「隠された神」が可視化されるのは十字架(神は我々のために犠牲になられた)であるとしている。(P209)
…このデカルトの神の存在証明の西洋哲学における重さを再認識するとともに、パスカルや神学から見た批判は、かなり新鮮である。デカルトが数学Ⅰ、パスカルが数学Aに関わっているというも面白い。いや文系バリバリの私からしたら迷惑極まりない話である。(笑)



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