ニーチェは、キリスト教の愛はルサンチマンから生まれたと考える。すなわちローマ帝国に抵抗することが出来ないため、本来は戦わないといけないのに自分たちはあえて愛の実践を選んだと考える。敵を愛していることにして、自分の置かれている立場を卑屈に合理化した、まるで自分の手がブドウに届かないから「あのブドウは酸っぱい。」といって納得するイソップ童話の「酸っぱいブドウ」のようだ、と。さらに、佐藤氏はルサンチマンについて、弱者特有の自分のほうが上だといった発想になる。近代の競争社会には付き物であると述べている。(P361)
新カント学派でユダヤ思想家・コーエンの思想について。淡野氏のテキストには「コーヘンは思惟を一切の実在の根本とし、全ての科学的知識もかような純粋思惟の内面的な発展に他ならぬと考え、それならば、いわゆる知識の内容として思惟によって要求せらる感覚は、abcなどのアルファベットのような言葉をカタチづくる符号であるがまだ言葉ではないような、単に実在の一つの指標であるにすぎないとした。感覚は思惟の力によって論理化されて、はじめて実在の知識となる。よってコーヘンは、論理化されない意識(=神話)と論理化された意識(=学問)を区別した。」とある。佐藤優氏は、コーヘンの、この神話と学問の連続性、すなわち神学と哲学の間の差を論理化した場合、同じ事柄を別に表現したものに過ぎないという事を明らかにしたこととし、これを重要だとしている。(P370-1)
…高校倫理で私は、ギリシア哲学のはじめに、神話から哲学へという内容でエディプス神話とフロイトのエディプス・コンプレックスの話をする。このような神話と哲学の連続性は、特に旧約聖書にあてはまる。コーエンはユダヤ思想家なのでなおさらであると思う。
ニーチェは競争社会が激しくなると、必ず流行る。敗け組がそれでも勝っているのは自分だと思いたい時、ニーチェが便利に使われやすいからである。実存主義やニーチェは、自分可愛さが透けて見えるから、共通していじけた感じがする。神学とは相性が良くない。(P375)
…佐藤優氏は神学の立場から、もっとニーチェを批判的に論述しているのかと思ったが、意外にもルサンチマン関連の記述が多い。前述のように、ニーチェが死んだと言った「神」は、デカルトから、スピノザ、そしてヘーゲルに至る「神」でキリスト教の神ではないという前提があるからだと思われる。
(キルケゴールの)「神の前に立つ単独者」については、神の前と言うけれど、神の前でたむろしている人は、すでに神と共にあるから「単独者」ではない。「単独者」とは、神なしで単独で、一人立つということになる。(P375)
…たしかに言われてみれば、そうだなと思う。これまで普通に違和感なく「神の前に立つ単独者」として語ってきたが…。本書にはこういった気づきが実に多い。



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