普遍論争は、「普遍」という概念について、実念論と唯名論に分かれて論争が起こっている。この両者の対比を佐藤氏は果物で譬えている。果物という概念がある。その果物には、メロン、栗や柿もある。このような考え方が実念論で、プラトンのイデア論的な発想に立つ。一方の唯名論は、栗は木になる。メロンは草、分類からはキュウリの仲間である。ということは栗がある、メロンがある、柿がある、そういった個物しかない。そこに便宜上付けた名称が果物である。すなわち普遍とは名前に過ぎず、個物を分類するための言葉で、実在するのは個物のみである。この普遍論争は、実在とはなにか、概念は現実にどう関わるのかといった根源的な問いであった。(P129)
カトリックの中にはいろいろな流派があるが、今のバチカンは、トマス・アクィナスが正統とされ、神学の基本になっている。トマス・アクィナスは、実在論の立場から唯名論の立場も調停して、普遍は神の知性においては、事物に先立って存在し、世界の中においては、事物の中に存在し、そして人間の知性においては事物の後に存在するとした。(P132)
ところで、トマス・アクィナスは、たいへんな量の本を書いている。その理由は24時間、3~4人の筆記係がそばに常駐し、口述筆記したからである。ちなみに『神学大全』は未完で終わっている。「私には出来ない。これまで書いたものは全てわらくずのように見える。」と言って、思考に疲れたからであるらしい。(P150)
…本書では、この普遍論争、これに、アベラールのアリストテレス的な思想や、オッカムのウィリアムの唯名論についても詳しく触れられているのだが、難解で何度読み返したことかわからない。ブディストの私としては、どう考えても不毛な議論にしか思えないからかももしれない。今日は少し、AIやウィキの助けを借りて記した次第。



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