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ダンテの『神曲』で、地獄に堕ちる最も悪い「貪欲」は、食糧生産が乏しい時代ゆえ「食欲」である。16世紀、カトリックとプロテスタントは互いに非難し合っていた。ルターがすごく太った人物として描き、プロテスタント側も神父を太った人として描いている。(P92)
…実に子供っぽい話だが、なるほどと思う面がある。(笑)
西洋哲学の原動力は、一元論と二元論のあいだを振り子のように揺れ、螺旋を描いているというのが(テキストの著者)淡野安太郎さん独自の考え方である。その2つの流れの中で弁証法的な発展を遂げるというのが、彼の基本的な西洋哲学の見方であり、独自のものだがそれなりに説得性がある。やはり教育者として優れている。自分の頭で考えているから、こうやってわかりやすく、しかも実態から外れない組み立てができる。(P93 )
…この箇所は、実に教育者にとって示唆に富んでいる。私も浅学ながら自分の頭で考えてやってきた。これまで見てきた多忙な教師の多くは、出版社のつくったモノでお茶を濁しているように思えてならない。
(人間の理性:ヌースに対して)キリストは通常の人間が持つヌースではなく、ロゴスを持っているとアポリナリオスは言った。これに対し、テキスト(浅野氏)では、「アポリナリオスは、世界の一切を機械論的に説明しようとしている故に、最初の運動の起源の説明に行き詰まり、その解決策として突然舞台に天降らせた「機械仕掛けの神」(Deus ex machiina)たるそしりを免れることができなかった。」とある。この「機械仕掛けの神」は、中世の宗教劇によく出てくる。古代ギリシアの劇では、行き詰まって大変なことになるとハッピーエンドにるために、機械仕掛けのキリストがコロコロと天上から出てきて、お告げをする筋になっていた。ハッピーエンドに終わる劇のことをコメディと呼ぶ。それがいつしか喜劇という意味になってしまった。ダンテの『神曲』は、最後に天国に行くのでハッピーエンドの神聖喜劇と呼ばれている。(P98-99)
…「機械仕掛けの神」の存在もコメディの意味も初めて知った。この「機械仕掛けの神」、日本では水戸黄門の「徳川家の家紋の印籠」が最も近いという論もあるようだ。ところで、本日の画像は、中学生時代に見に行った「時計じかけのオレンジ」。ただ単に「機械仕掛け」の韻を踏んだだけのことである。当時、ベートーヴェンにハマっていたので見に行ったのだが、よくわからなかったスタンリー・キューブリック監督の問題作であり名作映画である。



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