淡野氏のテキストでは抜けているとのことだが、現代の哲学思想史に欠かせないピコ・デラ・ミランドラの話。中世の神学と新プラトン主義の調停・融合を図った人物で、1486年に『人間の尊厳についての演説』(画像参照)が有名とのこと。人間は自己の本性を、ある固定したカタチで与えられるのではなく、それを自分で決定する能力をもつ被造物として表現した。この見解は、後期ルネサンスで非常に大きな影響を与え、神の面前で人間の自律をうたう啓蒙主義的主張を準備するものだった。(P410-1)
このピコが示したのは、人間の本性に関するキリスト教の伝統的見解(原罪論)に対して、人間は努力次第で上昇もできるし下降もあるという、原罪観がない主張で、近代の人間を先取りしている。この後、自然法で中世の自然状態(悪に満ちあふれているという概念)をひっくり返すことになる。(P413-4)
ルターの召命観、ベルーフ(独語/職業・使命)観とカルヴァン派のベルーフ観は違う。ルターの場合は、「お前の職業がおまえの仕事だから、そこで一生懸命やれ。」だが、カルヴァンは「神様に選ばれていないから、その場でうまくいかないのだ。うまくいかないのは、選ばれている自分の場所ではないからだ。」と考える故に、その意味では自分探しにつながる。ただ、選ばれていない人は前向きに考えられない、そのように(ルサンチマン的に)考える人は生まれる前から決まっており、「滅び」に定められている、そういう発想にもなるわけだ。(P421 )
アウグスティヌスは万人救済論をとり、一部のプロテスタンティズムも同様に見えるが、少なくともキリスト教が万人救済説をとっていないのは確か。カルヴァンは勝ち組だと言えるのか、勝ち組でないとカルヴァン教会に留まれないのか難しいところ。実際に長老派の教会に貧乏な人はいないように思われる。カトリックや正教会では貧しくても平気だが、長老派はチャリティに参加できる中産階級や上層部だけが集まっている雰囲気がある。(P422)
1547年のトレント公会議では、カルヴァンの義認(=洗い清め:人間が第一のアダムの子として生まれた状態から、第二のアダムで我々の救い主イエス・キリストの思想と「神の子」の状態への移行)の本質についての見解に強く反対した。この”洗い清め”は、受け止める人間の主体がないと恩寵のみでは救われない、教会で清い生活をし、きちんと努力せよという考え方になる。一方で、そういう人間的な行為はいささかも関係がないというのが、カルヴァンの考えで、ルターも基本的には一緒だがカルヴァンほど強調しない。その意味で、プロテスタンティズムのほうが反知性的で神がかり的である。特にカルヴァン主義は神の絶対性や恣意性を強調するので、構成としてはイスラムのハンバリー派に近い。気をつけないと、(三位一体ではなく)単一神論に堕ち入る可能性があるので、三位一体論を強調する東方神学と合わせて理解する必要がある。(P426-428)
…おそらくこのブログの書評シリーズとして最長のエントリーとなったと思う。高校倫理の教師として、実に意味深い教材研究となった。カトリックの学校でありながら、このようなプロテスタント系の神学書を入れていただいている学院の図書館に心から感謝したい。さて、来年は東方神学について読んでいこうかと思っている。幸い、学院の図書館には正教会関係の図書も充実している。



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