2015年5月31日日曜日

急にポーランド行きを検討する。

http://www.kunstreizenbudok.nl/
budok-krakau-warschau/
album/slides/07%20Krakau%20
en%20Warschau%202010%20076.html
鍼灸院への行きの車中で妻が「どこか行きたいなあ。長いこと道東に行ってないし。」と言い出した。たしかに、「知床にまた来よう。」と言ってから、だいぶたつ。でも、「同じオカネをかけるならポーランドやな。」という話になった。何故ポーランドかというと、アウシュビッツ収容所に行きたいのだ。(すでに行ったことがある)息子が、「早く行かないと朽ち果ててしまうで。」と言っているのである。

先日新聞に、ある旅行社がポーランドのモニターツアーの広告を出していた。そのツアーをWEBで検索してみた。添乗員さんが同行するツアーである。妻は安心だからツアーがいいと言う。私はバックパッカーの端くれだから、あまり乗り気ではない。結局値段のこともあって却下されたのだ。ところが、同じHPにもっと安いツアーが載っていた。これは、航空券とホテルのみのフリープランツアーだった。11万円台とは、えらく安いではないか。妻も一気に乗り気になったのだ。

いろいろ調べているうち、妻がパソコンの画面を見て、それが6月30日出発であることに気づいた。私は7月末のつもりだったのだ。7月を調べるとぐっと値段が上がっていた。「あ~あ。」である。「ポーランド、ぶっとんだなあ。」「じいちゃんはあかんなあ。」と妻。

しかし、さらに燃料チャージの価格とかも考慮して調べてみると、他社でそこそこの値段のフリープランがあった。最終的に、フィンランド航空でいくワルシャワ・クラクフ8日間プランと、KLMでベルリンに飛び、そこから列車でクラクフに向かい、ワルシャワから帰る8日間プランが目にとまった。金額的にも最初の6月末プラン+燃料チャージ+列車代込みくらいで大差ない。

妻と相談の上、フィンランド航空利用の方に決めた。とりあえず申し込みメールを送った次第。ベルリン経由も魅力的だったが、KLMにまた乗るのはちょっと辛い。(旅行社は今日は休みなので)明日以降のメールの返信が楽しみである。

2015年5月30日土曜日

ブラタモリ#7函館を見る。

青森駅の青函連絡船乗り場の写真 なつかしい。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2008/03/20-3.html
NHKのブラタモリ#7函館を見た。今回は、青森駅から始まる。青函トンネルを超えて函館駅につき、青函連絡船(現在は博物館になっている)に乗るという流れだった。青函トンネルの話や、連絡船の無線室の話、連絡船の貨車の連結の仕組みなど、なかなか面白かったのだ。

ところで青函連絡船に、私は一度だけ乗ったことがある。妻と結婚した年だから、指をおって計算したら昭和57年のことになる。妻の親戚が青森におられて、新婚旅行のかわりみたいな感じで妻の親戚一同で夜行寝台・日本海で青森まで行ったのだ。そこから二人だけ別れて北海道に渡ることになった。当時のことだから当然、青函連絡船である。地図をよく見ればわかるが、湾の最深部にある青森と函館は、直線距離にしても案外遠い。意外に揺れたし、時間がかかった記憶がある。

函館の街で泊まるつもりだったのだが、調べてみると函館空港から札幌まで当時東亜国内航空というのが飛んでいて、一気に札幌に飛ぶことにしたのだった。全く無計画な旅である。(笑)実は、この時のフライトが、航空ファンを自認する私の初フライトだった。短距離だが、ジェット機(今思えばダグラスDC-9)だった。

…今や、青函連絡船はない。青函トンネル経由で北海道新幹線が来年開通するのだという。私はこの時の初の北海道上陸以来、何度も何度も北海道に行っている。新日本海フェリーで2回行ったがそれ以外は全て飛行機である。

…だが、今思えば、夜行の寝台で青森、そして青函連絡船というのが、最高のルートだったように思う。

くまもんのUSBメモリー

TVで台湾にくまもん・カフェが常設されたというニュースが流れていた。相変わらずくまもんは人気らしい。なにより、誰でもくまもんのキャラクター商品をつくってもいいという凄さがある。(笑)
先日、妻がUSBメモリーが欲しいと言い出したので、探していた。最初は、フツーのUSBを探していたのだが、結局面白いのはないかと2人で探していたのだ。で、「これやぁ。」と、くまもんを注文した次第。

そのUSBメモリーが先ほど到着したのだ。やはり、かわいい。ちょっと、学校で使いたいなと思ったので、「持っていっていいか?」と言うと、予想どうり「あほか。」と睨まれた。

2015年5月29日金曜日

ハト派はどこへいったのか。

先日のTVのものではないのですが…
http://blog.goo.ne.jp/root41_1942/e/8e5e0f76fa4db1a8a2e53dd6c7086ec8
連日、国会では安全保障法案の審議が続いている。先日(26日付ブログ参照)私が感じたように、防衛大臣の答弁はキレが悪い。そこを野党に突かれ、四苦八苦していた。防衛大臣は防大卒で、陸自の二尉(中尉でいいと私は思うのだが…。英語表記を直訳すると結局中尉らしい。)でレンジャー教官もしていたというバリバリの国防族である。同時に、国会議員になってからは宏池会に所属。宏池会は、自民党内でも保守本流ながら、お公家集団と呼ばれ、ハト派が多かった派閥だ。こうしてみると、防衛大臣は、不思議な、二律背反したような人物像であるといってよい。

この「ハト派」という語彙はもう死語になったのだろうか。かつて自民党という政党は、多彩な人材を抱えていた。金権問題などでかなり批判があつまると清廉そうな人物が出てきたり、官僚のドンもいれば、地方議員叩き上げもいたり、憲法・安保・外交問題では、タカからハトまで様々な立場から意見が出てきてモメたものだ。

先週、たまたま、早朝の時事放談を見ていたら、今はもう引退した二人の元大物政治家が、この安保法制について、するどい批判をしていた。宏池会出身の古賀誠氏と経世会出身の野中広務氏である。お二人共、ハト派の重鎮だったと言っていい。

今の自民党で、ハト派的な発言(極論すれば首相批判)をするような議員は、あまりいないようだ。これは、私は小選挙区制の弊害だと思っている。党が完全に議員の生殺与奪を握っている。中選挙区制は、派閥ができたり、金権政治・金権選挙が生まれたりというデメリットもあるが、今のような状況よりははるかにいいと私は思うのだ。政治家が、様々な政争の中で鍛えられ、(批判はあるが、)実力をつけた族議員となってこそ活力が生まれるのではないか。

中田考氏の最新刊では、現在の(全ての領域国民国家における)民主主義は、「制限選挙寡頭制だ」、とバッサリ一刀両断である。中田考氏のイスラムの本義であるグローバル・アナーキズムには妙に納得するところがある。私などは、せめて、寡頭制であっても、様々な意見をもつ寡頭制であって欲しいと思うのである。

2015年5月28日木曜日

中田考氏の最新刊を読む。

中田考氏の新刊書「私はなぜイスラム教徒になったのか」(太田出版/5月25日発行)を読んでいる。まだ50ページほどしか読みすすめていないのだけれど、極めて面白い箇所がすでにあった。それは、イスラムから見たユダヤ教・キリスト教についてのスタンスを示した箇所である。読書ノートとして少しエントリーしておきたい。

イスラムでは、最初にユダヤ教があって、次にキリスト教が来て、最後にイスラムが登場したとは考えない。アダム以来の預言者の宗教は全てイスラムである。イスラムはムハンマドが創立した宗教というわけではなく、地上に預言者が遣わされた時からずっと存在していたと考える。全ての預言者の教えはイスラムである。一説では預言者の数は12万4000人にのぼり、そのうち宣教を命じられたものは「使徒」と呼ばれ、313人。その中で最も卓越した者を五大使徒と呼び、上位から順に、ムハンマド、イブラヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)、スーフ(ノア)となる。コーランでは、ムーサーの「律法」、ダーウード(ダヴィデ)の「詩編」、イーサーの「福音書」、ムハンマドのコーランが『啓典』であると言及されている。

イスラムではモーセもイエスも神の預言者として認めるけれども、ユダヤ教はモーセの律法をイスラエルの民が歪曲してしまったものをラビたちがまとめあげたものであり、キリスト教はイエスの福音を弟子たちがまちがって解釈したものであると捉えている。礼拝時にコーラン冒頭の開扉の章を読誦するが、そこには「われらを正しい道に導きたまえ。あなたが怒りをくだされた者の道ではなく、また迷い誤れる者の道ではなく」という一節がある。正しい道はイスラム、怒りをくだされた者の道はユダヤ教、迷い誤れる者の道はキリスト教をさすという。

日本人のイスラム学者で最も信用できる人の論だからこそ勉強になる。これらは先の世界史Bで中間テストの範囲として教えた一神教の比較での中核をなす箇所である。私もなんとか大筋間違わずに教えていたとホッとしている。もちろんさらに教材研究として深みをました箇所もあってありがたい限りである。

追記:今回の世界史Bの試験は、生徒諸君がものすごく勉強してくれたようで、史上最高の平均点だったように思う。例のイスラエル12部族について質問しきた文Ⅰクラス(5月19日付ブログ参照)など平均83点くらいあった。なかなか嬉しい。

2015年5月27日水曜日

「そうせい公」 毛利敬親の話

http://www.pref.yama
guchi.lg.jp/gyosei/bunka-s
/ishin/data/p-mourit.html
「幕末大名」失敗の研究(瀧澤中/PHP文庫)を読み終えた。単に史実を描くだけでなく、日本の政治史やドゴールの話なども出てきて、なかなか面白かった。これまで幕末維新関係の本はかなり読み込んできた。松平容保や徳川慶喜、山内容堂などそれぞれ書かれた1冊を読んであるので、その批判が書かれていてもなるほどと思えるわけだ。つまりそういう予備知識がないと少しわかりにくいかもしれないと思う。同時にPHP文庫だけに、ビジネス書としてのリーダー論・組織論が展開されている。これもなかなか有効であった。

いろいろ書くと膨大になるので、最後の章、水戸藩と長州藩の比較についてエントリーしようと思う。水戸藩、長州藩ともに、藩内の抗争が他藩より激しかったという共通点がある。水戸藩の抗争は極めて悲惨である。烈公在命中はともかく、その後は血で血を争うような展開になる。「天皇の世紀」で読んだが、あまり記憶に残っていない。というか無意識下で残したくないような感じだった。長州の抗争は、意外に経済的な改革においては同根で、最後は高杉のクーデターで一気に俗論派が一掃される。水戸藩と違い、人材も常に補充されていたし、なにより明確な倒幕という目標が長州の抗争を終了させた。この差は、実は、「そうせい公」毛利敬親の存在が大きいと著者は言う。

司馬遼の作品などでは、見事なまでに「そうせい公」は無味無臭に描かれている。たしかに、他の有名な大名に比すると、個人的な時勢への主張や行動がない。長州の藩政府は、当時としてはかなり民主的で、彼らの結論に「そうせい。」と同意するだけである。だが、史実によると、なかなかの名君であることがわかる。現場主義の知事さんとしてのイメージで見れば、であるが…。ご本人はかなりの倹約家であったし、学問にも熱心で自ら藩校に学びに行ったり、軍事演習や開発現場などの視察も頻繁であった。自ら萩城内で田植えも稲刈りもやったという。

著者の表現を借りる。「つまりは律儀で真面目な性格。誠実な人柄であった。天候不順を自分の不徳と考えるような、繊細さと純粋な責任感を持っていたのである。さらに身分の低い家臣の意見も直接聴取するなど、積極的に藩内政治に関与していった。」

「家臣から報告や提案があると、なんでも「そうせい。」と言ったというのは大げさである。仮にそうだとすれば、敬親は大変な勇気と責任感を持った君主と言わねばなるまい。最終的な責任をとれる覚悟がなければ「そうせい。」と言い続けることはできなかったであろう。長州の象徴として、毛利敬親は十分その役割を果たしたし、逆に水戸藩の徳川慶篤(斉昭の子)は家臣から軽んじられ、象徴としては機能しなかった。」

…実は、毛利敬親のそのような名君ぶりは初めて知った次第。先日のNHK「花燃ゆ」で、主人公の久坂文が、偶然ではあるが、「そうせい公」と直接話すシーンがあった。この大河ドラマ、妙に学園ドラマ風で、史実とはかなりかけ離れていると感じていたのだが、その可能性はゼロではないわけだ。

2015年5月26日火曜日

新帝国主義の視点から見る。

いよいよ、安全保障関連法案の審議が始まった。先日もNHKで防衛相が出席した生討論を見たが、どうみても政府側の分が悪かった。これまでの法案の説明や横田基地へのオスプレイの配備などを見てみると、中国の覇権に対抗する米国の安全保障戦略を日本がはっきりと法制化して補完する、というものとしか私には見えない。(よく例に挙げられているホルムズ海峡の機雷の話など全く現実的なコトではない。)

米国の一極支配に陰りが見えて、日本の力を必要としているのだろう。ワシントンでの演説から逆のベクトルで国会審議しているのも、ISの日本人人質事件でトルコに対策本部を置かず、あえてヨルダンに置いたのも、沖縄の民意を全く無視するのも、そういった法制化への戦略上にあるのだと思う。

佐藤優の「世界史の極意」(NHK出版新書)に、「新帝国主義」の話が出てくる。旧帝国主義は植民地獲得を求めたが、新帝国主義は求めない。それは植民地経営は維持にコストがかかりすぎる故である。また新帝国主義は全面戦争を避ける方向性をもっている。共倒れを避けるためである。この2つが、新帝国主義の特徴。新帝国主義も、相手国の立場をわきまえず最大限の要求を突きつける。相手が怯み、国際社会も沈黙するならば、強引に自国の権益を拡大するが、その反対なら国際協調に転ずる。それは、自国の損をまねくと計算するからでしかない。

一方、佐藤優は、(新旧共々)帝国主義の時、国家機能が強化されると主張する。冷戦後グローバル化が進み、国家の介入は薄まった。しかし、国家の生存本能が、それをゆるさない。(多国籍企業などに対する)徴税機能の弱体化を危ぶみ、また格差が拡大し社会不安が増大する故に国家機能を強化するというわけだ。

2008年のグルジア(現ジョージア)とロシアの戦争で、ロシアが南オセチアとアブハジアを独立させたこと、2011年にアメリカが南スーダンを独立させたこと、中国の生命線と言われたミャンマーをアメリカが親米国としたこと、そしてクリミア問題と、新帝国主義の例は多い。

東シナ海の尖閣諸島・南シナ海の南沙諸島…。アジアでは中国の新帝国主義のジャブ攻撃が続いている。これに対抗する米国と日本の新帝国主義。全面戦争はたしかにないと私は思う。佐藤優のグローバル世界経済の中での打算的な指摘は正しいと思うからだ。だからといって、米国の補完をしても大丈夫、リスクはないとはいえないと私は思うのだ。

同時に、この安保法案は国家機能の強化であると思っている。安保法制のニュースばかりであまり騒がれていないが、いよいよマイナンバー制が導入されるそうだ。先ほどのニュースで担当相が歌で紹介していた。こういうパフォーマンスをする時こそ危うさを隠す戦略かも知れない、などと勘ぐるってしまうのだ。

2015年5月25日月曜日

ガリガリ君とバリバリ君

妻の体調は、相変わらずよくないようだ。暑い日々が続いているのもその原因の1つかもしれない。今日も枚方は30°Cを超えたらしい。このところ我が家の冷凍庫には「ガリガリ君」というアイスキャンデーが何本か入っている。義姉から珍しい種類のモノを妻がもらってきたもので、時々二人で食べることにしている。1人1本は多いのだ。(笑)

夜は夜で、自宅近くの第二京阪をちょうど深夜0時を過ぎると暴走族らしき一群が走る。我が家では、「バリバリ君」と呼んでいる。雨の日は「バリバリ君」は現れない。もちろん冬の寒い間も現れなかった。「バリバリ君」はまるで第二京阪の「啓蟄」のようである。(笑)妻は「バリバリ君」のおかげで眠れん日もある、と、お冠だ。

暑かったり、夜寝れなかったりと、妻の体調は芳しくないのであるが、実は私も、最近体調がもうひとつで、しかも「老い」を感じることが多くなった。今朝も我が家の「バリバリ君」(といっても静かな原付バイクだが…。)を駐輪場に置いてから通勤したのだが、モーニングでバイクの鍵がないことに気づいた。かなりヤバイ話なので妻に連絡した。妻は歩いて駐輪場に行ってくれたようだ。「駐輪場の係りの方が気づいて、タオルで隠していただいていたでぇ。結局、鍵はさらに秘密の場所に隠したでぇ。」とのメールが入った。一安心だが、わざわざ歩いて行ってくれたとの報に、誠に申し訳ないと思うのだった。また今日から授業が再開した。答案を返すところから始まるのだが、なんとあるクラスで、記述問題3問の採点が済んでいなかったことが判明した。あちゃー。である。結局汗をかきかき、ほとんど全員の点数を直したのだった。生徒は点数が上がって大喜びだったけど…。

昔はこんなことは滅多になかった。仕事においてはまさに「バリバリ君」だったのに…。と悔しい気持ちになってしまうのだった。

2015年5月24日日曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート7

http://crossroadsbook
sonline.net/product/
ujamaa-the-hidden-
story-of-tanzanias-
socialist-villages/
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容のエントリー第7回。今回は第3章の冷戦期のアフリカ諸国の政治経済体制についてである。独立した多くの国が一党制をとり、長期的な経済危機を経験するという共通項をもっている。

アフリカの年(60年)当初は多党制が多かったが、60年代後半から70年代にかけて一党制を採択する国が急速に増加する。(とはいえ、ガンビア・セネガル・モーリシャス・南アなどは多党制であった。)一党制の国も一様ではない。マルクス=レーニン主義をかかげた国、たとえばコンゴ=ブラザビル(現コンゴ共和国)、エチオピアの軍事政権、ベナンなどは、ソ連との親密な関係をもつことになった。

社会主義にシンパシーをもつ国は多かったものの、多数派は、外交的に中立を保つ「非同盟主義」を選択する国であった。その代表が、「ウジャマー」主義のタンザニアで、ソ連からは距離をおいた。内実はともかく、この「アフリカ社会主義」を標榜する国は多く、親西側路線をとるケニアでさえ、そうしたスローガンを掲げたのである。一方、完全に非ソ連・親西側で資本主義的発展を目指したザイール(現コンゴ民主共和国)でさえ、国内的には一党制(というよりモブツ大統領の個人支配)だった。

独立後のアフリカで一党制が広く採用された理由について、テキストには3点挙げられている。
第一に、ソ連の存在。マルクス=レーニン主義(プロレタリアート独裁)故に当然一党制となった。
第二に、一党制の導入で「国民間の亀裂が政党対立として表出することを回避する」目的があった。ベルリン会議でつくられた国境線は、多民族の寄せ集めであり、ひとつの国家として協働した経験がなかった。国家の分裂は現実の驚異であった。
第三に、権力闘争の勝者によるヘゲモニーの確立という性格がある。クーデターを経た一党独裁は権力を握った指導者は、自らの政党の一党独裁を規定することで、正当性を得た。

これらの一党制という政治体制が、国家主義型の開発政策に結びついていくのである。

…このあたりの政治学的な考察は実に興味深い。意外に「非同盟主義」の存在は大きい。当時のアフリカ・エリートの、社会主義も含めた欧米的なモノへの不信感を私などは感じてしまうのだ。

2015年5月23日土曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート6

タンザニア ドドマの農地のイメージ
http://flickrhivemind.net/Tags/dodoma/Timeline
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容のエントリー第6回。前回は、植民地支配が与えたアフリカ経済への影響について書いたが、イギリスの植民地時代に大失敗した開発政策「東アフリカ落花生スキーム」について北川勝彦先生(関西大学経済学部教授)が書かれたコラムから概要を紹介したい。

WWⅡ後、イギリス本国の食糧事情が悪化した時代、タンガニーカ(現タンザニアの大陸部)で落花生プランテーションを開発し、料理用の油を供給するという目的であった。ロンドンからのトップダウンの計画推進。ユニリーバの子会社・連合アフリカ会社のフランク・サミエルの発案だが、彼は現地の気候や土壌の知識を欠いていたし、社会的経済的インパクトのマイナス面を見落としていたし、ロジ(補給と調達)を過小評価していた。最悪である。調査チームも、地域の不毛性と低生産性は伝統的な農業慣行によるもので、西洋の技術で改良できるという傲慢な姿勢で、現地のワゴゴ人からも何の聞き取りも行わなかったという。

その結果は散々である。開拓地に選ばれたコングワ(画像にあるドドマの近く)は、ダルスからの鉄道に近かったが洪水に見舞われ、資材設備は港から泥道を運ばなければならなかった。砂と粘土の混じった土壌は乾くと固くなり、16台のトラクターが使用不能となり、シャーマン戦車を改造したトラクターがブッシュの上を碇用の鎖を引きずりまわしたという。1年目は、その他にも野生動物の攻撃、鉄砲水、設備の不足、意思決定の遅れ、機械の欠陥、運営の誤り、労働者の反発など様々な問題が噴出。わずか4000/15万エーカーしか開拓できなかった。1000トンの種子はわずか2000トンの落花生収穫にしかならなかった。

…今の開発は、周到な準備、現地の人々の意見や潜在力を重視しながら、持続可能な開発を目指している。このスキームは、その見事な反面教師になったわけだ。先進国とは、それだけの失敗を重ねているものだ。それにしても、と思うのは2015年という現在から見ているからだろうか。

…南アのバックパッカーズ(安宿)で接したアフリカ人の従業員たちは、(オーナーや客の)白人に絶対的な格差を感じていた。アパルトヘイトはすでに昔の出来事になっていたが植民地支配が与えたものの大きさを肌で感じたのだ。ふと、そんなことを思い出してしまったのだった。当然ながら、植民地支配による影響は、経済的な問題だけではない。

2015年5月22日金曜日

日経 春秋「小菅留治先生」

昨日に続いて、日経の記事についてエントリーしたい。「春秋」である。内容は、小菅留治という師範学校を出たばかりの新任教師が山形県の小さな中学校に赴任した際の話である。
ここで主張されていることは、教師の資質はどこで磨かれるのかということである。大学での学びなのか。教師のなってからの研修なのか…。私は、ここに書かれている「熱い領域」という極めて文学的に表現されている部分だと思うのだ。

戦後まもないころ、師範学校を出たばかりの小菅留治先生は山形県の小さな中学校に赴任した。意気盛んな新人だったが、やがて壁に突き当たる。ひどく多忙で、思うように生徒も動かないのだ。すっかり落ち込んだその先生はのちの直木賞作家、藤沢周平さんである。
▼「一応は発達心理学なども勉強したはずなのに、何の役にも立たなかった」。藤沢さんは当時を振り返って「半生の記」に書いている。理屈と現実がかみ合わないのはどの職業も同じだが、こと教員ほどその落差に苦しむ仕事はないのだろう。しかし先生たちへの世間の注文もまた多く、制度改革の声が絶えることはない。
▼教員採用に全国共通の筆記試験を――。政府の教育再生実行会議がまとめた提言も、そんな資質向上願望が背景にあろう。能力を段階別に示した「育成指標」導入も打ち出した。かたや自民党では教員免許を国家資格にする案も出ている。そういう策で指導力抜群の、できる先生が輩出するはずだと構想はどんどん膨らむ。
▼小菅先生を元気にしたのは、結局は子どもたちだった。「私はその生徒たちがかわいくて仕方がなくなった。多分ここが教育というものの原点だったのだろう」。藤沢さんの教員生活は病気のためわずか2年で終わるが、教え子たちは後年、学校に記念碑を建てた。どんな制度改革も力の及ばぬ熱い領域が、教育にはある。                       
…このところ、教員の質の向上のために上記のような提言がなされているのだが、私の勤務する地域では、今の民間企業の「派遣社員」に近い存在である期限付き講師さんが増えている。私などが若い頃は、そういう存在は稀だった。本校でも多くの講師の先生方が頑張ってくれている。だが、それが正常な姿だとは私は思わない。この春秋で言われている「熱い領域」は、教師が生徒の学習面・生活指導面や部活の成長など全てにおいて、責任を持っているのだという自負が前提であると思うのだ。1年という期限を付けられての教育活動は、どうしても、そこまでで打ち込めないと思うし、また打ち込んではいけないと思うのだ。政府の教育関係者は、こういう現場の矛盾を解決して欲しいと念願する次第。教育は経済的効率を追求する場ではない。

2015年5月21日木曜日

日経 戦後70年の世界経済 俯瞰

このブログ、面白い! http://blog.livedoor.jp/barukannnabc60w/archives/cat_566256.html
モーニングで日経を読んでから、今日は近くのローソンで改めて買い求めた。メモするには多すぎるほどの重要な記事があったからだ。国際通貨研究所理事長の行天豊雄氏の経済教室である。タイトルは「戦後70年日本の立ち位置は」その4”将来に希望を持てる国に”というものである。戦後70年を俯瞰した内容なのだが、なかなか良い教材となるはずだ。少し整理しておきたい。

戦後70年の世界経済の歴史は「米国の時代」といってよい。圧倒的な力を持った経済大国として君臨し、ドルは世界の基軸通貨、NYは世界の金融センター、米国企業は競争と革新の象徴だった。この70年で重要な節目が3つあった。

1つは、1970年代初頭のブレトンウッズ通貨体制(金価値を保証されたドル)の崩壊。米国による安定した為替相場制度と米国の膨大な消費需要に支えられた自由貿易体制が崩壊したのだ。この黄金時代は同時に米国の対外赤字という出血を伴うものだったからだ。ニクソンショックで、米国は変動相場制に移行、保護主義に転じた。米国が一国で世界経済を支える時代が終わったのだ。しかし、世界は新しい制度を構築することはできなかった。その理由は、米国がいぜん世界最強の国であり、米国にとって変わろうという意志と能力をもつ国はなかった。ソ連は80年代に自滅、統合を進めた欧州も世界の指導者となることに何の興味も示さなかった。結局、価値保証のない一国の通貨が基軸通貨となるという矛盾をはらみながらドル本位制は続いた。

2つ目は、経済活動における金融と情報の重要性が決定的に高まったことである。その背景は、大規模な国際収支不均衡と世界的な金融緩和で流動性が急増する一方、IT技術の革命的な進歩が金融工学の隆盛をもたらしたことである。歴史的には経済社会の公共財であった金融が所得と雇用を創出する巨大なサービス産業と化して経済社会に君臨することになった。その一方で、金融が実体経済から乖離し、投機化、カジノ化し、金融危機の国際伝染力も著しく高まった。

3つ目は、世界の力のバランスの変化である。中国は世界第二位の経済大国となった。中国は、戦後の世界を支配してきた米国による一極覇権体制を認めない。もちろん米国との差はまだ大きい。1人あたりのGDPは米国の1/7だし、「中所得国の罠」を抜け出せるかもわからないし、国際的に信認される指導国家としてのイデオロギーも持っていない。しかし、米国にとって最初でかつ容易ならざる挑戦者になることは間違いない。

以後、日本の発展がブレトンウッズ体制下の安定した円安と自由貿易、官の統制と民の活力を巧妙に配合した国家資本主義であったとし、これからの課題を説いているのだが、私が重要視するのは、上記の3点の戦後70年の世界経済の俯瞰であるのでここまでで止めておく。

…この俯瞰から、今の日本政府の立ち位置を見ると、日本は、水野和夫氏の「資本主義の終焉と歴史の危機」で告発された、米国が作ったIT化された仮想の金融世界に翻弄されながらも、あくまで米国の覇権(といっては言いすぎか?)の側に立とうともがいているように見えるのだ。私には、それが良いのか悪いのか判断できないが…。

2015年5月20日水曜日

「幕末大名」失敗の研究を読む。

通勤時の文庫本が切れたので、昨日書店で補充した。「幕末大名」失敗の研究(瀧澤中/PHP文庫本年2月発行)である。まだ60ページほどしか読んでいながなかなか面白い。

最初に登場するのは阿部正弘である。私は阿部正弘のことを優れた政治家だと思っている。当時の身分制の中、老中になれるのは譜代大名だけである。藩主は、子供の頃から教養を無理矢理にでも付けられているとしても、所詮は(苦労知らずの)ボンボンである。国を任せるだけの優秀な人間であるとは限らない。そんな中、若くして老中になり、12年間も幕府の中枢で、人の話をよく聞き、調整してきた阿部の能力は卓越している。

阿部が黒船来航に際して、譜代大名の意見だけでなく、親藩・外様大名にも、さらに全ての人びとに意見を求めたことは、まさに幕府の権威失墜につながる「パンドラの箱」となった。阿部の真意は、①本当に役立つ意見を求めた②意見書を見て役に立つ人物を登用したい③親藩・外様大名の幕政参加を可能にするという目標があったようだが、阿部が病死してしまい、保守派(譜代大名)の大反発を招くことになる。歴史に「if」はないが、阿部と島津斉彬がもう少し長生きしていたらおそらく水戸の烈公や松平春嶽らとともに、幕政参加に意欲的な外様大名を入れて雄藩会議のような組織を作ったと思われる。

烈公は、「攘夷」の大親分であるが、水戸学の権威として朝廷をも巻き込み、表向き「攘夷」を唱えながら与党的な現実問題として「開国」に持っていったと思うのだ。(となると尊皇攘夷の志士の出番がない。)これが上院的な動き。だが、実務については殿様の論議でしかない。そこで雄藩の各臣下が知恵を出し合って実際の政策を審議する下院的な組織ができたのではないか。開国を前提に、国防のために有能な人材を集めていくわけだ。ただし、そうなると、本当に優秀な下級武士の出番は難しくなるはずだ。

おそらく幕府がそのまま延命していたら、廃藩置県は行われず、国民国家化=近代化はかなり時間を要したと思う。阿部と島津斉彬の死は、それなりに必要なことだったのかもしれない。

もうひとり、保守派で不人気な井伊直弼の死も歴史の必然として入れておかなければなるまい。私は井伊直弼も、当時の幕府にあってかなり有能な政治家だったと思う。彼はボンボンではない。本書にもあるように、十四男で苦労して藩主になった変わり種である。そのへんの譜代大名とは覚悟が違う。

…てなことを再認識しながら読んでいるわけだ。

2015年5月19日火曜日

中間考査が始まったのだ。

http://riversidechapel.blog.fc2.com/blog-entry-49.html?sp
昨日から中間考査が始まった。世界史Bの試験は今日の2限目だった。金曜日もそして昨日も、文Ⅰ(文系の進学クラス)の生徒たちが質問に来た。面白いのは、その内容が、かなり専門的なものだったことだ。今回の範囲は世界史理解の大前提としての比較宗教学的な一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の内容なのだが、時間の関係で説明を割愛した部分もあった。そこを聞きたがる。たとえば、アブラハムとイサクの話は非常に重要なのでちゃんと説明したが、ヤコブの話は流した。そのヤコブについての質問だったりするのだ。イスラエル12部族とは何か?詳しく聞きたいというわけだ。試験で高得点を取りたいという質問ではない。旺盛な知識欲のなせるものである。ウィキなんかで調べた上で聞いてくる。本校では初めての経験である。こういう「学び」の姿勢が実に嬉しい。

ところで、中間試験の間に、採点もしながら私は教材研究を進めていくのが常である。世界史Bでは、2単位の中で、資本主義の発達の歴史と領域国民国家の形成について語るという大テーマを掲げている。(今回の一神教の話は、そのための土台である。)期末の学習範囲は、中世から近世を一気にやってしまう必要がある。封建経済から貨幣経済への移行。中世がいかに発展していくか?傭兵をキーワードに都市の発達による絶対君主の成立と、同時期に起こった大航海時代・ルネサンス・宗教改革…。なかなか面白い内容だ。担任した卒業生の時の約2倍のスピードになる。

きっとまた、流した部分を期末試験前に聞きにくる生徒がいるような気がする。それもいいかなと思ったりするのだ。

2015年5月18日月曜日

祝 妻の誕生日(5.17)

イスラエルから届いたカップ
昨日は妻の誕生日だった。イスラエルの息子夫婦からすでにプレゼント(化粧品やカップ)も届いていた。私も「何か欲しいかあ?」と聞いたが、特にないようだ。昨日も宝くじが当たったら、という話になったが家のローンを払って、その後は「うーん。」結局、二人でポーランドに行くという話になった。(笑)

それより、体調の方が重要である。相変わらずよく眠れないらしいし、疲れやすいとのこと。今日も朝起きれなかった。私の弁当を作れないことを気にしているようだ。そんなん、どうでもいいのに…。

そんな妻が、このところTVを見てやたら怒っている。某長いCMのおかげだ。さすがにもう今日は流れなくなった。昨晩は2人で遅くまで(関西限定の)NHKを見ていた。

深夜11時を過ぎて、府内の小学校に勤務する友人から電話があった。「おめでとう。」ちなみに妻の誕生日に対してではない。

2015年5月17日日曜日

祝 エアレース日本開催

岩国での室屋氏 機体を斜めにしながら飛んでいる。凄い。
http://blogs.yahoo.co.jp/masarucherrylake/29466673.html
先日、岩国のフレンドシップデーで、室屋義秀さんというエアレースに参戦している選手のことを知った。雨中、プロペラのレース機でデモフライトをしてくれていたのだ。私はジェット戦闘機の爆音も好きだが、プロペラ機の爆音も好きだ。キレッキレの操縦で魅了してくれたのだった。

その後、NHKで偶然彼のドキュメンタリー番組を見た。大学のグライダー部から始まり、アメリカでの修行、師匠の死を乗り越えて、アクロバットのパイロットとなり、世界最高のエアーレース・パイロットとなり、ついに前回6位入賞。これを受けて、今日、千葉で日本初開催となったのだ。

結果は、10Gを越えるGを受ける(危険な)飛行を行ったとして失格したとTVで報道されていたが、予選9位から攻めての失格である。サムライらしい戦いだと思う。室屋さんのドラマは(日本では)始まったばかりだ。

航空ファンの一人として、これからも頑張って欲しいと思う次第。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/17/muroya-yoshihide_n_7299682.html

意外なページビューへの推測

このところ、我がブログのページビューが増えている。昨日はなんと600ちかいアクセスがあった。ありがたいことである。これまで特定のエントリーに集中する場合が多かったのだけれど、今回のは少し趣がことなる。まんべんなく見ていただいているようなのだ。おそらくだけど、ブログ内の様々なエントリーを何件も続けて見ていただいているような感じである。

さらに意外なのは、国別のページビューである。実は昨日はアメリカ合衆国の方が372、日本は199となっている。(現時点)つまり、アメリカ在住の方が、日本語のままか英語に翻訳されたものを見ていただいていると推測する。

Chromeでは、最近英語のページなどが一気に日本語に翻訳されて出てくる。「?」と思う翻訳も多い。私のブログも不思議な英訳をされていると思うと、ちょっと不安になったりするのだった。(笑)

2015年5月16日土曜日

「アジアにこぼれた涙」を読む。2

AMDAジャーナルの難民キャンプ画像
http://amda.or.jp/journal/?work_id=553
先日「アジアにこぼれた涙」を読み終えた。あとがきを読んで驚いたのだが、このノンフィクションは、およそ10年前に書かれたもので、バックパッカーの月刊誌だった「旅行人」(ちょうど連載された頃、季刊誌になった。)に連載されていたのだという。私も「旅行人」が月刊の頃愛読していたが、季刊誌になってからはあまり読まなくなったのだ。改めて、しまった、と思ったのだった。

前回のエントリーで、目次から3つだけ紹介したが、残りのものも紹介しておこうと思う。
イメルダが私に願ったこと
クリシュナと<長髪>の花園
歓楽街の注射器娘
はかない夢
誰がために鐘は鳴る
砂漠に消えた少年
白浜で踊る

こうしてタイトルを書くだけで、その濃厚なノンフィクションの内容が脳裏に浮かんでくる。あまり詳しく紹介するのは、悪趣味だと思うのだが、今回はこの中で最も印象に残った「誰がために鐘は鳴る」について少し書いておきたいと思う。これは、ブータンのネパール難民の話である。ブータンは、国民総幸福の概念を提示したりして、世界的に好感をもたれているが、1990年に前国王がネパール系住民を国外追放したことはあまり知られていない。私も耳にしたことはあるが、詳しく調べたのは初めてだった。本書でレポートされている時点では、このブータンからのネパール人難民キャンプは先行きがかなり見えない状況で衝撃的だが、その後アメリカ、オーストラリア、カナダ、デンマークなどへの第三国への移住が世界最大規模で進んでいた。職業訓練を行いながらの定住プログラムである。ブータンとネパールの貧困の”ハザマ”で先が見えなかった状況が、最善の方策ではないもののUNHCRの貢献で改善されていることはたしかなようである。
http://www.japanforunhcr.org/act/a_asia_nepal_01.html

…ブータンのネパール難民、WEBで少しばかり調べてもよくわからない部分が多い。正義などというものは、そう簡単に規定できるものではない。じっくり考えていかなくては。

2015年5月14日木曜日

アムトラックの思い出

http://www.987thebull.com/win-an-amtrak-train-ride/
ブルンジで、クーデターが起こったらしい。マリでも武装勢力が勢いを増しているらしい。核拡散防止条約の最終文書で中国が「被爆地訪問」削除要求を出したらしい。韓国では日本の世界遺産を国会で否定したらしい。などなどエントリーしたいことはたくさんあるのだが、今日はあえてアメリカのアムトラックの話。そう、フィラディルフィア近郊での事故を受けてのことである。

http://leaseneko.blog.fc2.
com/blog-entry-484.html
私は、このニューヨーク・ワシントンDC間のアムトラックに乗ったことがある。ニューヨークはペン駅から乗ることになる。この駅は、エンパイアステートビルのすぐ近く、マジソン・スクウェア・ガーデンの地下にある。私が乗った当時は片道$60くらいだったと思う。米会話の本どおり読んで切符を買ったら、2枚出てきたのを思い出す。情けないことに"TO"が"TWO"と聞こえたらしい。あわててサバイバルイングリッシュで1枚に変更してもらった。格好良くいこうというのは間違いだとわかった。(笑)

アムトラックは、発車ベルもなく静かに動き出す。日本のような無駄に親切な鉄道ではない。地下駅からハドソン川の下をくぐって、外に出るともうニュージャージー州である。ガーデンステートというニックネームは伊達ではない。まさに園芸農業地帯で、大都市近郊の農業はこうなるという地理の教科書どおりである。フィラデェルフィアに近づくと郊外の住宅が市の周辺に発達しているのがよくわかる。中心部に近づくにしたがって、沿線のレンガなどに落書きが増えてくる。治安が悪そうだ。ドーナツ現象のモデルを見せつけられた。この頃のアメリカでは、都市部に黒人が取り残され、財政が悪化、白人が郊外に脱出するという状況が多く報告されていた。メリーランドの湿原地帯を抜けると商都ボルチモア。ワシントンDCのユニオン駅はあと少しである。ユニオン駅は、地上駅である。駅前広場には50州の州旗が翻り、構内は素敵なお店が並ぶ。ここで、民主党のロバが胸に刺繍されたポロシャツや車掌車(緩急車)の鉄道模型を買ったりしたこともある。

このアムトラック、私にとっては思いい入れの強い鉄道なのだ。それが、まるで尼崎の事故のように高速でカーブに突っ込み脱線してしまったという。誠に残念である。詳しいことはこれから先わかってくると思う。

アメリカの交通機関としては、旅客鉄道はかなりマイナーであることは確かだ。(貨物の鉄道輸送は意外にメジャーである。)だが、このニューヨーク・ワシントンDC路線は大西洋メガロポリスを結ぶメジャーなドル箱路線。日本の東海道新幹線のちょっと遅い版と言っていい。これがかなりの間不通になるらしい。もちろん、航空機の路線は、シャトル便がガンガン飛んでいる。ニューヨークには、国際線の玄関口・JFK空港、国内線のラガーディア空港、さらにニュージャージー州にニューアーク空港と3つの空港がある。ワシントンDCにも国際線の玄関口・ダレス空港、国内線のナショナル空港(今はレーガン空港という名前になったらしい。)がある。ちなみに、私はダレス空港はもちろん、ナショナル空港も利用したことがある。ナショナル空港からボストンに飛んだのだった。ナショナル空港は市内にかなり近い。だから、おそらく増便されるんだろうな、と思う。

とりとめもない思い出話とアメリカの薀蓄のエントリーになってしまった。ちょっと反省。

2015年5月13日水曜日

中間考査対策プリント’15

この3年間、担任として同じ生徒に接してきた。私の授業のやり方など周知の事実で、気を使うこともなかったのだが、今年は初めての生徒を受け持っている。私は、定期試験前には、特別な試験対策プリントをつくっている。試験ができてから作成するプリントであるので、これをやればある程度点数が取れるという触れ込みのものである。(笑)

ただ、解答のプリントは出さない。解答を出すと、生徒は丸写しすることになる。私の対策プリントは、あくまで自分で学習するためのツールなのだ。今回は、最初だということもあって、ちょっと気合を入れて作った。今回の世界史Bの対策プリントは、まず旧約聖書の内容を整理するところから始まっている。創世記から出エジプト記の主な流れと家系図を真ん中に書き、ポイントなどを漫画の吹き出しのように整理するようにしてある。アダムとイヴの息子たちや、アブラハムの一族を書き込むことになっている。さらにユダヤ教の概念図やキリスト教の学習ポイントも細かく整理するようにしてある。

画像はないが、裏面にはイスラム教の学習ポイントと、登場した人名(アブラハムやパウロなど)の英語読みなどとともに、そんな人物かをまとめる表と、語句(終末や救世主など)のヘブライ読みやギリシア語読みとその意味をまとめる表を用意してみた。もちろん、人物名や語句は生徒がプリントを読みながら拾い集める努力が必要になっている。対策プリントは両面刷なのである。これを完成させるだけで、かなり勉強しなければならないはずだ。

生徒はよく「ここを丸暗記したら点取れますかあ?」などど聞く。私は「理解していないと無理。」と答える。私の試験はほとんど記号だ。だから正確な暗記能力より、理解した上で頭にひっかかっていれば回答できるのだ。私は社会科は暗記教科であることを否定はしないが、それ以上に理解のほうが大事だと思っている。

今回は問題数は97問と生徒に伝えてある。3問だけは記号ではなく書き込む解答ということだ。これも生徒に伝えておいた。さてさて、初めての私の試験、初体験の3年生たちはどう取り組んでくれるだろうか、授業態度が真面目なだけに大いに楽しみである。

2015年5月12日火曜日

不快指数の高い大阪の一日

http://blogs.yahoo.co.jp/kabanomo/32122147.html
昨日のドライアイな一日に続いて、今日は不快指数の高い一日だった。台風6号が近畿にも近づいているとのことで、3限目の世界史の授業時には雨が降っていた。今年の3年生は、極めておとなしいクラスが多い。試験前だし、こっちも熱が入る。最初窓が開いていて、少し涼しい風も吹いてきて、快調だった。ところが、学校の近くをでかい音量で選挙カーのような車が走っている。どうやら、この日曜日の住民投票への政治活動のようだ。気をきかした生徒が窓を閉めてくれた。

うん。かなり静かになったぞ。と、さらに講義に力を入れていた。なぜキリスト教国が先進国となったのか?律法の成就という概念から、ユダヤ教・キリスト教の律法やシャリーアの体系と比較しながら熱弁していたのだった。するとどうだろう、汗がダラダラと流れてくる。

授業が終わって職員室へ帰るとヘトヘトになった。まるでサウナでスクワットを100回したような体力消耗だった。

あの時、住民投票の車が大音声で走っていなければ、こんなに体力消耗することもなかったような気がする。普通の選挙の終盤でも、学校のそばでは、連呼さえも遠慮するのが常識ではないか。大阪市がおかしくなった、と痛感しているのは私だけではないと思う。

2015年5月11日月曜日

試験作成 ドライアイな一日

http://ukiyo-e.org/image/ritsumei/shiUY0185
GWが終わって、今週は中間考査前の一週間。きっちりと授業がある。世界史Bの方は、一応先週に試験もつくり、試験準備のプリントも作成済みである。月曜日は4時間授業であるが、残る日本史演習の試験をずっと作っていた。

日本史演習の1学期中間のテーマは、「日本史を俯瞰する」である。まずは、古代・中世・近世・近代の時代区分の確認。これに天皇制をかぶせて見てみる。古代の権力者としての天皇が権威に変遷していく過程を「官位」で説いてみた。

清和源氏から生まれた武家政権だが、源頼朝は、幕府=将軍の許可なしでは官位=任官を認めないようになる。幕府>朝廷なわけだ。この犠牲になったのが源義経である。生徒に発問したら、この難しいクイズを答えてくれたりした。なかなかやるぞ。戦国時代には、織田信長など勝手に官位を家来に与えたりしている。官位は地に落ちるわけだが、これを江戸幕府なんぞは禁中並公家諸法度でギンギンに締め付けながら幕府の権威付に利用する。

天皇制は、このように長らく「権威」でしかない。それが、近代になって、一気に大日本帝国憲法で天皇主権になるわけだ。もちろん、幕末の志士の尊皇のスローガンはあったわけだが、それがすぐに結びつくわけでない。岩倉使節団が欧米で実感した違和感が大きな影響を与えている。大久保が資本主義化の重要性を感じ、桂小五郎が民主主義の確立の重要性、特に近代憲法の必要性を実感したわけだが、共にキリスト教が根ざしている欧米に違和感をもつのだ。憲法を作るときは、日本的なものにしなければならないと、それぞれが意見書を出している。その日本的な原点として、天皇を置くのである。暗殺と病死で二人を失うが、その後を継いだ伊藤博文は、この原則を守る。ただ、ドイツ風の憲法にした際、専制君主的な憲法に衣替えされてしまう。明治天皇は、五箇条の御誓文を心肝に染めておられたようで、自らは「権威」であり、「権力」を行使しないという立場を貫くのである。それが、どんどん変な方へと向かっていく。昭和初期には、天皇機関説が否定されていくのである。

一方、日本はなぜ植民地にならなかったか。というテーマで話した。これにはいくつかその理由がある。大前提としての日本の就学率・識字率の高さ。外来文化を受け入れる柔軟さ。武士の気概。特に多分に無謀な「攘夷」思想。(実際、攘夷を実践した薩摩・長州ともに開国派に転じている。)攘夷実践のために、洋学を学び、実際に軍事技術を吸収しつつ、一気に転換していったこと。さらに、徳川慶喜の恭順。これは水戸学の血を引く将軍が錦の御旗に敗北したといえる。この判断が薩長についていたイギリスと幕府を応援していたフランスの代理戦争を、はからずも回避することになる。勝海舟の江戸を内乱に巻き込まなかったことも大きい。戊辰戦争が全国的なものとならなかったことが、最終的に植民地化を防いだともいえるわけだ。

こんなことを試験にしていたのだった。授業時以外、ずっとPCに向かっていた。ドライアイ?目の焦点が合わなくなってしまった。もう歳なんだよなあ。

2015年5月10日日曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート5

https://permacultureghana.
wordpress.com/the-solutions/
sustainable-cocoa-farming/
「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容のエントリーを続けたい。今日は、植民地支配が与えたアフリカ経済への影響についてである。

移民型植民地と小農型植民地における貧困の遺産の比較
ヨーロッパによる分割前夜から、アフリカはすでに輸出向け農業において比較優位を示していた。西アフリカでは、ガーナでカカオの栽培に参入したイギリス人農場経営者も、コートジボワールで強制労働の廃止後のフランス人農場経営者もアフリカ人農民との競争に直面し、衰退した。アフリカ人農民が要素賦存にうまく融合した土地粗放的な方法による生産に敗北したのである。一方、南アフリカにおいては金とダイヤモンドの開発で利益をあげるには労働コストを低く抑える必要があった。低賃金労働者を得るために政府は土地を収奪し、強制的に移住させ、借地農としてではなく不熟練の出稼ぎ労働者として働く以外にヨーロッパ人の所有する土地や鉱山や都市で働くことを禁止した。これでようやく鉱業で比較優位を得たのである。

富と所得の分配は「小農型」よりも「移民型」のほうが、現在も不平等なままである。移民型の代表である南ア、ジンバブエの実質賃金の低さは、「小農型」のガーナやウガンダ、中間型のケニアの比ではない。

アフリカの工業化が進まなかった理由
アフリカの工業化が進んでいない最大の理由は人口問題である。アジアのように人口が多くなく、労働集約型の工業のルートをたどることがなかったのである。とはいえ、アフリカ諸国が独立を達成した時点で、南アには大規模な製造業部門が存在していた。これは、鉱業で得た資金を製造業に回し、輸出代替工業を保護関税で守る南ア政府の政策の賜物であった。したがって、国内の消費者価格が世界市場価格を上回っていた。南アでさえ、工業は比較優位をもっていなかったわけで、他のアフリカ諸国にいたっては当然である。ところでサブ=サハラ・アフリカの人口は1900年から1960年の間に2倍に増加したと推定されている。就学率も、1950年~60年の間に2倍ないし3倍になっている。しかし、まだまだ高い質の労働者の供給には十分ではないという。

…比較優位という切り口で植民地支配が与えたアフリカへの経済的影響を考えるというのは、なかなか面白い。

2015年5月9日土曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート4

http://heartofdarknessimperia
lisminthecongo.wiki
spaces.com/The+Berlin+Confer
ence+and+the+Scramble+for+Africa
このところ、アフリカのことをエントリーしていない。「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容を久しぶりにエントリーしようと思う。今日は、アフリカの植民地支配についての確認事項である。やはり補足的な知識が面白い。

アフリカの分割の真実
19世紀後半までヨーロッパ列強は、一部(ケープと北アフリカ)を除いてアフリカの植民地化にあまり熱心ではなかった。この状況に変化をもたらしたのはベルギー国王レオポルド2世である。1880年代初頭にコンゴ盆地全域の権益を得ようとしたので、ドイツが会議の開催を呼びかけた。これが、アフリカ全土の分割に拍車をかけた。実効支配が進んだのである。とはいえ、この支配は他の列強を締め出すことが主眼で、本国の納税者は植民地に財政的自立を望んだ。統治費用の収入源はアフリカ人社会に見出すか、経済開発によって課税可能な所得源を生み出すことが必要となったのである。
イギリス得意の間接統治は、人件費削減という目的があったのである。一方、フランスは同化政策を打ち出す。アフリカ人が最高のフランス文明のエッセンスを獲得できると信じたのだが、セネガルなどでは成功したかに見えたものの画一的文化の押し付けに破綻をきたし、やがてイギリス流の統治を取り入れていく。白人の入植と商業用目的のために土地が収奪された「移民型」植民地では、アフリカ人の抵抗が長く続く。ドイツ領東アフリカのマジマジの蜂起、ショナ人とンデベレ人の一斉蜂起(チムレンガ)などがそれにあたる。一方、西アフリカでは植民地支配前数世代に渡ってヨーロッパの商業的文化的影響を受けていた故に、小農たちが商品作物を栽培し、富裕なアフリカ人商人のネットワークが形成されていた。厳しい気候と現地の病気のためヨーロッパ人の移民は難しく、ヨーロッパ化されたアフリカ人エリートが台頭した。すなわちアフリカ各地で、植民地化の過程で多様な動きがあったわけだ。

WWⅡのアフリカの脱植民地への影響
WWⅡで徴兵されたアフリカ人たちは、軍事経験をするとともに異なる地域出身者と接することになる。これは後の独立運動にも影響する。イタリアは北アフリカと東アフリカで植民地から排除されたし、フランスが降伏後は植民地も混乱に陥った。一方、戦中は戦略物資、復興期はアフリカの資源と開発が進められ、経済が発展する。この圧迫的な経済的変化は、商品作物の栽培の増産で食用穀物の生産が阻害され、多くの人びとが農村から都市に移動しスラムを形成した。この新しく流入した賃金労働者から植民地支配からの開放を支持していく。同時に、WWⅡ以降のアジアのナショナリズムの成功に大きな刺激を受けるのである。

2015年5月8日金曜日

日経 JAXAの宇宙太陽光発電

私は完全文系なので科学技術の記事を読むことは珍しい。それくらいこの記事は魅力的だったわけだ。宇宙空間に太陽光パネルを浮かべ、作った電力を地球に無線で送るという壮大な計画があるそうだ。

そもそも電力を無線で送る=無線給電ということが可能だというのが凄い。JAXAが3月にこの無線給電の実験に成功したらしい。三菱電機の兵庫県内の施設で、電気エネルギーを電子レンジや携帯電話などにつかう「マイクロ波」に変換、55m先に正確に送れたという。300W=パソコン3台分の電力を取り出すことに成功したとのこと。すごい話だが、電力の5~10%ほどを送れたにすぎない。

この先にあるのが、宇宙空間に2km四方の太陽光パネルを浮かべる構想。これで100万kwの発電能力が生まれる。ただし、現在の日本のH2Aロケットで運ぶと1000回の打ち上げが必要だとか。1兆2436億円の費用がかかるらしい。凄い話だなあ。

最大の問題は「電離層」とのこと。よくわからないが、電波の方向を変えたり吸収する層があるとのことで、送電・受電の効率も50%を地表に送れなければ実用化は難しいらしい。安全性の問題もあるよな。

とはいえ、この壮大な計画、すばらしいと私は思う。このプロジェクトの進展の中で様々な新しい技術が生まれてくるだろうと思う。モーニングでじっくり読んでいて、いつもよりかなり登校時間が遅くなってしまった。(笑)

http://www.nikkei.com/article/DGKKZO86490090X00C15A5TJN000/

2015年5月7日木曜日

「アジアにこぼれた涙」を読む。

文春文庫の「アジアにこぼれた涙」(石井光太/4月10日発行)を読んでいる。ノンフィクションで、10話ある中で、まだ3話しか読んでいないが、物凄い本だ。

アフガントラックの絵師
ダルフールからやってきた兄と妹
ジャカルタの失恋者たち

内容は新刊だし、あまりあからさまにしないほうがいいと思う。タイトルに少しだけ注釈をつけておく程度にとどめようと思う。「アフガントラックの絵師」は、あの沢木耕太郎がクレイジーバスと称したデコレーションと荒い運転で有名なバスが行き来するパキスタンの山岳地帯を行くトラックに絵を描く父親とその息子の話だ。アフガン内戦が落とした暗い影が身にしみる。「ダルフールからやってきた兄と妹」は、マレーシアの港町での話である。ダルフールは、スーダンのダルフールである。あまりに酷い現実に戦慄する。「ジャカルタの失恋者たち」は、著者が日本人であること大きな立ち位置を占める話。想像を絶する現実を知る事になる。

世界の最貧困地帯を歩く著者の作品は「絶対貧困」以来だ。私は、高校社会科の教師として、こういう作品をきちんと読んでおかなくてはいけないと思うのである。

2015年5月6日水曜日

春一番2015 最終日に行く。

以前から楽しみにしていた春一番に今年も行ってきた。昨年は雨で大変だったが、今年は快晴。それも最初から最後まで7時間におよぶコンサートに参加したのだった。

昨年は、雨の関係で、私と妻と親友のH氏それぞれのご贔屓の出番が終わると帰る羽目になったが、今年はじっくり聴くことができた。すると、これがイイのだ。知らない出演者であってもじっくり聞くと味があってイイ。

今回のお目当ては、まずは私・妻・H氏とも昨年、衝撃を受けたアチャコ。そして元憂歌団の天使のダミ声・木村充揮、金子マリ、山下洋輔の三人である。私は、木村の大阪バリバリのエンターテーメント、心底凄いと思った。いやあ、痺れたのだ。実は、木村の出番の少し前から、アチャコ氏が出番を終えて私服で通路を挟んだ私の隣席にいてびっくりしたのだった。結局握手してもらった。(笑)この辺の出演者との距離が近いのが春一番の大きな魅力である。

妻は、山下洋輔のピアノに衝撃を受けていた。とにかく表現の仕様がないほど凄い迫力なのだ。彼も春一番には縁があって昔々参加して、4年前にも参加したのだそうだ。フォークやロック、ブルースだけでなくジャズも春一番で聞けたりするわけだ。

高田渡の息子の高田漣(れん)も良かった。野外音楽堂の舞台背景に普通の自転車が吊ってあるのを不思議に思っていたのだが、あれは高田渡の自転車であったのだ。当然、「自転車に乗って」の大合唱になった。(このブログを読んでいただいている方の果たして何人がご存知だろうか?)AZUMIもまるで講談のようなフォークを聴かせてくれた。私は好きだな。ヤスムロコウイチというシンガーも、沁みた。最後の曲は地雷を踏んで亡くなった子供を歌っていた。幕間のような感じで登場したナオユキというコメディアンも良かった。大阪でしかウケないかもしれないけど。細かく論評すれば長くなるので、この辺でストップ。明日は、仕事である。(笑)…ホント楽しかったけれど大いに疲れたのであった。

2015年5月5日火曜日

毎日 朝刊・国際面の憂鬱

ボルチモアのインナーハーバー http://www.phillipsseafood.com/locations-and-menus/baltimore
毎日の朝刊・国際面に本来なら一つひとつエントリーしたくなるような記事が載っていた。

まずは、イスラエルのテルアビブで、エチオピア系の若者が人種差別に対して数千人の抗議デモを行ったという記事。4月末にエチオピア系の兵士が路上で明確な理由もなく警官の暴行を受けたことが引き金である。「二級市民」のような差別を受けてきたと、不満をもつエチオピア系と治安当局が衝突し、60人以上が負傷、40人以上が逮捕された。ネタニヤフ首相はエチオピア系市民の代表者と会談、暴行を受けた兵士とも面談するという。
…エチオピア系のユダヤ人は、「ソロモン作戦」でイスラエルが脱出させた(12年6月23日付ブログ参照)経過がある。イスラエルは、人種的には極めて多様である(12年8月10日付ブログ「家庭内別居?イスラエルの現実」)が、エチオピア系の人々が「二級市民」的に扱われているらしいことは、実際テルアビブの下町を覗いてみて実感した。対外的に緊張感を常にもつイスラエルが、このような内側の問題を容認することはできまい。ネタニヤフの素早い動きがそれを表していると思う。

次にサウジ空軍が、イエメン北部のフーシへの空爆でクラスター爆弾を使用したようだ。このクラスター爆弾は新型で、(クラスター爆弾禁止条約には不参加だが、それに押されたカタチで開発された)不発弾が1%以下だというアメリカ製。しかし、実際には10%以上の不発弾が見つかったという。(記事では、この辺が詳細に記されていた。)
…問題は、不発弾のパーセンテージではないと思う。先日のイスラム国人質事件の際、イスラム教徒(だけではなく一神教徒全てが)が火に焼かれ、元の肉体を失うカタチで死ぬことがどれだけ宗教的な憎悪を新たに生むかを再認識した。どうあれ、戦争は悲惨である。まして、クラスター爆弾は極めて非人道的な兵器であることは論を待たない。憂鬱な話である。

最後はアメリカの話である。ボルティモアの夜間外出禁止令は解除されたようだ。アフリカ系男性への警官の犯した事件での騒動も、警官6人を訴追で一段落したようだ。
…ボルティモアを初めて訪れた時、ドイツ系、イタリア系など多くの民族で住居地域が分かれていた。アフリカ系の人々の地域には、洗濯物が干されていたりして、一気に雰囲気が変わった。その差に驚いたことを思い出す。経済格差と根深い差別。これは未だにアメリカに巣食う病根である。

さらにテキサスで、「米国の自由防衛構想」というNYに本拠をおく反イスラム団体が、ムハンマドの風刺画コンテストを開催、これにおそらく抗議する2人が会場で発泡し射殺された事件。コンテストには350点以上の応募があり、約200人がイベントに参加したという。
…これも暗澹たる気分にされる事件だ。多文化共生というのは、地球市民の理想だが、現実には極めて厳しい。仏教的に見れば、人間の煩悩、とくに他者に勝ろうとする「修羅」をいかに抑えるかが、今世界に必要だと感じざるを得ない。

2015年5月4日月曜日

オスプレイ、ネパールへ

岩国の航空ショーでオスプレイが展示されていなかったことを先ほど書いたが、普天間基地のオスプレイが、ネパールの地震支援に使われているようだ。たしかに長い航続距離と、垂直降下が可能なオスプレイは、こういう時大いに活躍できる。昨日、沖縄からそのままカトマンズに到着したという。昨日訪れた海兵隊は、そもそも有事に最も早く駆けつける部隊である。こういう使われ方もあるわけだ。

軍事と支援、全く180度異なる使われ方である。オスプレイは、山岳地帯の被災地にも物資を容易に運べる可能性を秘めている。ややこしい批判は置いておいて、とにかくもネパールの人々の役にたって欲しいものだ。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/obiekt/20150504-00045395/

雨の岩国 航空ショー(後編)

海上自衛隊側の滑走路からブルーと米軍F16を望む
弾丸ツアーの帰路の予定は、実はブルーインパルス次第だった。本来は15時過ぎには岩国を出る予定だったが、15時から飛ぶという情報が入ったらしい。で、集合は16:00に変更になった。(携帯電話に添乗員さんから連絡が入ったのだった。便利な時代である。)なんといってもブルーインパルスは大スターだ。私たち夫婦はこれでブルーを見るのは3度目である。ただ、基地内が広いのと参加者が多いので、滑走路沿いで悠々と見ていることはできない。徐々に駐車場に近づきながら、管制塔から流れる放送を聞いていた。1番機に今、隊長が乗り込んだとか…。岐阜基地での記憶が蘇る。ところで、私は心配でならなかった。この雨の中、かなり危険なフライトなのではないか、と。しかし、ブルーは飛んだ。雨中であろうと、ブルーはブルーである。駐車場からだが、やはり素晴らしいフライトだった。空が全面グレーなので、それこそ忍者が現れるように突然現れる。

雨の岩国 ブルーインパルス
今回の岩国、雨だったことは最大の残念な事だが、それ以外にも残念だったこともある。ハリアーが展示されていなかったことである。展示機の発表もあったので事前に知っていたのだが、極めて残念だった。もしかしたら、オスプレイも見れるかなと思っていたのだが、これも近隣との友好を主旨とした関係で展示されていなかった。当然といえば当然。でも、前編で書いたように、これらを全て払拭できるほどの、すばらしいデモフライトを体全体で感じることができたので十分満足である。

最後に貴重な体験をしたので、エントリーしておきたい。行きのフェリーでのことだ。ツアーごとに2等の部屋に泊まったのだが、超満員。シートとシートの隙間がないほどだった。これには大いに閉口した。見ず知らずの人々との間合いがあまりに近い。私はふと、奴隷運搬船を連想した。きっともっと酷いだろうが。また、阪神大震災や東北大震災の時の避難所、ネパールの避難テントなど、ずいぶん気を使うだろうと今更に感じたのだ。

様々な経験をした1泊2日の岩国フレンドシップデーのツアーだった。このツアーのために体調を整えてきた妻も、「また岩国に行ってもいいと思うけど、船で行くなら個室希望。」と言っていた。(笑)…同感。

雨の岩国 航空ショー(前編)

岩国の米軍海兵隊基地と海上自衛隊基地のフレンドシップデーに行ってきた。梅田からバスで大阪南港へ向かい、バスごとフェリーに乗船。門司から岩国へ入り、航空ショーを楽しんだ後、一気に大阪まで高速を走り、終電までに帰り着くというナカナカ凄いツアーである。(笑)

数日前から気にしていた天気予報は、3日の昼から崩れるような感じだったが、すでに門司では雨だった。傘をさしての航空ショーは辛い。しかし、バスから見た岩国駅から基地へ向かう長蛇の傘の列に圧倒された。凄い人数だ。まだ8:00である。観光バスだけは基地内に設定されたエプロンに駐車場があるのだが、ツアー以外の人はこれまた長蛇の列に並ぶシャトルバスか、歩くしかない。とにかく20万人の人出予想は、雨だろうがなんだろうが関係ないようだ。

F-15のタッチアンドゴー
雨だが、航空ショーはほぼ予定どうり行われた。最大の魅力はやはり戦闘機のデモフライトである。爆音と実際の飛行のズレこそが、醍醐味である。米軍のF-16は、私の最も好きな機種である。やはり、垂直上昇や旋回能力などの軽快さが素晴らしい。航空自衛隊からは、Fー15が飛んで来た。爆音はF-16より重い。タッチアンドゴーの迫力はでかいだけに凄い。ちなみに、米国では、予算削減のためにF-15のデモフライトは行われていないのだという。米軍・空中空輸機によるデモ飛行の予定は変更された。空中給油機はネパールに支援に行っているそうだ。その代わりに、A6イントルーダーの機体を改良したEAー6BとFAー18の編隊飛行と攻撃のデモフライトが行われた。自衛隊の航空ショーではありえない。軍のもつプラスとマイナスの意味を痛感させられるよな話である。

今回の航空ショーの滑走路は、米軍側と航空自衛隊側に分かれていて、米軍側には有料のヒナ段がある。(会場図参照:最上部が滑走路で左米軍・右自衛隊)だから一般人にとっては意外に見にくい。航空自衛隊側は少し見やすいので、そこで主に見ていた。だが、雨がカメラのレンズに当たったりして撮影は難しい。バックも曇天だし…。

複葉機などのアクロバット飛行もあった。雨の中、機体の上に立つ人はかなり危険だったのではないか。パイロットもかなり視界が悪かったはずで、雨ならではのヒヤヒヤ感である。

私はこれまで、岐阜基地と小松基地に行ったが、岩国は規模がかなりでかい。ピザやホットドックなどの米軍らしいフードをはじめ、店も多かった。米軍関係者も多く参加していて、米軍基地の規模自体のデカさにも驚いた。以前、ヴァージニア州ノーフォークの海軍基地のツアーに参加したことがあるが、日本の国土の狭さを考慮しても同様に感じるほどの規模だと思った次第。つづく。

2015年5月1日金曜日

5月からバイク(定期)通勤

駅から駐輪場へ帰る時、こういう風景だ。ホッとする。
このところ、妻の体調が思わしくない。不整脈やら甲状腺やらが悪くて、愛用のバイクに乗らなくなった。で、妻が言うに、「家から駅までバイクで行けばええやん。」たしかに、徒歩での行きは下りなのでさほど苦にならないが、帰りの登りがきつい。夏など汗びっしょりになる。というわけで、4月下旬から、晴れた日にバイクに乗り出した。そして駅近くの市営の駐輪場にとめることになったのだ。

原付の駐車料金は、1回200円。駐輪場から駅までは1分くらい。なかなか快適である。なにより帰りが無茶苦茶楽なのである。妻が今度は、「定期にしたら。」と言い出した。定期代はひと月3000円である。まあ、15回以上利用したら元はとれるが、そんなに晴れの日があるかなあと躊躇していたのだが、半ば強引に定期に切り替える羽目になったのだった。

その初日が今日だったわけだ。幸い快晴。5月は連休もあるし、あまり得するとは思えないのだけれど、いちいち係員さん(シルバーの方だ。)の仕事を増やさなくていいのは確かだ。

学校と放出駅間の自転車の定期駐輪場代(2400円)は私持ち。
家からは津田駅までの駐車場代は妻が支払うということになったが、なんと贅沢な話だと思ってしまうのは、大阪人的貧乏性故か。

今日の画像は、「枚方つーしん」のもの。http://www.hira2.jp/archives/50323224.html