2015年5月24日日曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート7

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「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)で学んだ内容のエントリー第7回。今回は第3章の冷戦期のアフリカ諸国の政治経済体制についてである。独立した多くの国が一党制をとり、長期的な経済危機を経験するという共通項をもっている。

アフリカの年(60年)当初は多党制が多かったが、60年代後半から70年代にかけて一党制を採択する国が急速に増加する。(とはいえ、ガンビア・セネガル・モーリシャス・南アなどは多党制であった。)一党制の国も一様ではない。マルクス=レーニン主義をかかげた国、たとえばコンゴ=ブラザビル(現コンゴ共和国)、エチオピアの軍事政権、ベナンなどは、ソ連との親密な関係をもつことになった。

社会主義にシンパシーをもつ国は多かったものの、多数派は、外交的に中立を保つ「非同盟主義」を選択する国であった。その代表が、「ウジャマー」主義のタンザニアで、ソ連からは距離をおいた。内実はともかく、この「アフリカ社会主義」を標榜する国は多く、親西側路線をとるケニアでさえ、そうしたスローガンを掲げたのである。一方、完全に非ソ連・親西側で資本主義的発展を目指したザイール(現コンゴ民主共和国)でさえ、国内的には一党制(というよりモブツ大統領の個人支配)だった。

独立後のアフリカで一党制が広く採用された理由について、テキストには3点挙げられている。
第一に、ソ連の存在。マルクス=レーニン主義(プロレタリアート独裁)故に当然一党制となった。
第二に、一党制の導入で「国民間の亀裂が政党対立として表出することを回避する」目的があった。ベルリン会議でつくられた国境線は、多民族の寄せ集めであり、ひとつの国家として協働した経験がなかった。国家の分裂は現実の驚異であった。
第三に、権力闘争の勝者によるヘゲモニーの確立という性格がある。クーデターを経た一党独裁は権力を握った指導者は、自らの政党の一党独裁を規定することで、正当性を得た。

これらの一党制という政治体制が、国家主義型の開発政策に結びついていくのである。

…このあたりの政治学的な考察は実に興味深い。意外に「非同盟主義」の存在は大きい。当時のアフリカ・エリートの、社会主義も含めた欧米的なモノへの不信感を私などは感じてしまうのだ。

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