2015年5月27日水曜日

「そうせい公」 毛利敬親の話

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「幕末大名」失敗の研究(瀧澤中/PHP文庫)を読み終えた。単に史実を描くだけでなく、日本の政治史やドゴールの話なども出てきて、なかなか面白かった。これまで幕末維新関係の本はかなり読み込んできた。松平容保や徳川慶喜、山内容堂などそれぞれ書かれた1冊を読んであるので、その批判が書かれていてもなるほどと思えるわけだ。つまりそういう予備知識がないと少しわかりにくいかもしれないと思う。同時にPHP文庫だけに、ビジネス書としてのリーダー論・組織論が展開されている。これもなかなか有効であった。

いろいろ書くと膨大になるので、最後の章、水戸藩と長州藩の比較についてエントリーしようと思う。水戸藩、長州藩ともに、藩内の抗争が他藩より激しかったという共通点がある。水戸藩の抗争は極めて悲惨である。烈公在命中はともかく、その後は血で血を争うような展開になる。「天皇の世紀」で読んだが、あまり記憶に残っていない。というか無意識下で残したくないような感じだった。長州の抗争は、意外に経済的な改革においては同根で、最後は高杉のクーデターで一気に俗論派が一掃される。水戸藩と違い、人材も常に補充されていたし、なにより明確な倒幕という目標が長州の抗争を終了させた。この差は、実は、「そうせい公」毛利敬親の存在が大きいと著者は言う。

司馬遼の作品などでは、見事なまでに「そうせい公」は無味無臭に描かれている。たしかに、他の有名な大名に比すると、個人的な時勢への主張や行動がない。長州の藩政府は、当時としてはかなり民主的で、彼らの結論に「そうせい。」と同意するだけである。だが、史実によると、なかなかの名君であることがわかる。現場主義の知事さんとしてのイメージで見れば、であるが…。ご本人はかなりの倹約家であったし、学問にも熱心で自ら藩校に学びに行ったり、軍事演習や開発現場などの視察も頻繁であった。自ら萩城内で田植えも稲刈りもやったという。

著者の表現を借りる。「つまりは律儀で真面目な性格。誠実な人柄であった。天候不順を自分の不徳と考えるような、繊細さと純粋な責任感を持っていたのである。さらに身分の低い家臣の意見も直接聴取するなど、積極的に藩内政治に関与していった。」

「家臣から報告や提案があると、なんでも「そうせい。」と言ったというのは大げさである。仮にそうだとすれば、敬親は大変な勇気と責任感を持った君主と言わねばなるまい。最終的な責任をとれる覚悟がなければ「そうせい。」と言い続けることはできなかったであろう。長州の象徴として、毛利敬親は十分その役割を果たしたし、逆に水戸藩の徳川慶篤(斉昭の子)は家臣から軽んじられ、象徴としては機能しなかった。」

…実は、毛利敬親のそのような名君ぶりは初めて知った次第。先日のNHK「花燃ゆ」で、主人公の久坂文が、偶然ではあるが、「そうせい公」と直接話すシーンがあった。この大河ドラマ、妙に学園ドラマ風で、史実とはかなりかけ離れていると感じていたのだが、その可能性はゼロではないわけだ。

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