2010年3月31日水曜日

タイトな1日に春の爽曲


 今日は年度末である。タイトな1日であった。学年末で欠点を取った生徒の補習・認定試験の結果を審議する成績会議に始まり、御退職・御転勤の先生方の離任式、転任されてきた先生方の紹介、さっそくの第1回職員会議。それが終わって、新しい校務分掌にそった職員室の机の移動大会&大掃除。昼食休憩後、校務分掌ごとの会議。教科会。ご退職の校長と転任の主席の挨拶、校長の送りだし…。ほとんど分きざみのスケジュールであった。

 ところで、次の日曜日もいろいろある。私が関係するだけで3つ。1つは、女子バスケット部のOG会。(一応顧問である。顔を出さねば!)ブラバンの定期演奏会。(最初はなんとなくだったのが、第1回から8年間皆勤で見に行っている。)それと筝曲部の演奏が近くの高津の宮で行われる。今年卒業したOB・OGは、私の倫理の生徒であり、仮想世界ゲームでいうと、E地域の政党主と、リサーチ係と地理Bの進行係といった関係の深ーい、かわいい生徒たちなので、顧問のA先生に請われて見いに行く約束をしたのであった。
 その筝曲部のOB・OGが、このタイトな日に桜の下でちょっと野外演奏をするという。A先生が「是非聞いてやってください。」と言ってこられた。タイトな日故にいいじゃないですか…。忙中閑あり。私はさっそく本校の庭に行った。あとから沢山の先生方も駆けつけてこられた。卒業生3人はびっくりしたようだったが、桜の下で演奏をしてくれた。なんとかメロンの「コナユキ」という曲だったと記憶する。Jポップの曲らしい。本校の筝曲部は、案外こういった曲が得意で、中国の訪問団などJポップが好きな子もいて、大いにうけるのである。私は最近の曲など知らないのだが、なかなかよかった。今日転任してきた先生方も来られていた。きっと、いい学校に来たと思われたことだろう。

 その後某国公立大学に行っているOBが来て社会の教員免許の件で相談を受けた。またまた近くの喫茶店である。ふと気付くと5時半を回っていた。

 タイトな1日だった。でも筝曲部のおかげで、爽快な1日にしてもらえたと思う。ありがとう。

2010年3月30日火曜日

開発経済学から明治維新を読む


今夜は、先日書いた弟分の「主席」の送別会なのでおそらく帰宅は深夜になると思う。きっと私は松山千春の「旅立ち」を歌い、主席は「新造人間キャシャーン」で答えるだろう。昨日のブログにも4人ものコメントをいただいた。どうせ、明後日の職員室の座席変え(本校伝統の机ごとの大移動大会)にそなえて、机上の荷物を疎開させるくらいしか仕事がない。ならばと、午前中半休を取って、ブログを書いておくことにした次第である。

 今日のテーマは、前から書こうと思って書きそびれていた日本史Bの話である。「明治維新1958-1881」という講談社現代新書を読んだ。もうだいぶ前になる。「主席」と同じく前任校からの弟分のU先生が「これいいですよ。」と教えてくれたのである。何がいいかというと、日本史の専門家と開発経済学の専門家がジョイントした明治維新論なのである。私の求めていた着想である。実におもしろい。
 この本の内容は、第1部 明治維新の柔構造、第2部 改革諸藩を比較する、第3部 江戸社会――飛躍への準備となっていて、いろんな書評を見ると、第2部のために買ってもいいというほど評価が高い。第3部の開発経済学的な部分は評判が悪い。しかし私には全て面白かった。全部授業に使うつもりである。すでにそのプリントを作成してある。(いづれこのブログで公開する予定。)それは、この本が「知識」より「知恵」で明治維新を解明しようとしているからである。(詳細については後日またふれたいと思う)
 
 受験の日本史は、細かい事項の暗記が中心である。きちっとした知識は必要であろうが、「知恵」を習得できない学習に私は批判的である。芸能人になってQサマに出演するのが学習の目的ではない。昔むかし、カナダのオタワの高校を視察した時、校長がこう言った。「カナダでは知恵を習得する方法を教えている。知識は図書館で調べればよい。」…その時、カナダも含めたアメリカのプラグマティズム教育の真髄を感じた。

 私は、ウン年ぶりに授業することになった(受験科目として使わない生徒のための)日本史Bで、「知恵」の習得のための「学び」を教えたいと考えている。そもそも、何のため日本史を学ぶのか。私は日本史は好きではないが、他の方面から日本史を学ばねばならなくなって断片的に学んできた。それがやがて集大成され、日本とは何かをおぼろげながらつかみかけているような気がする。結局、日本史の学習目的は、日本とは何か?という問いにつきるのである。異文化理解は自文化理解でもある。

 だから、最初の授業で宿題を出す予定である。JAPANESE・BOX。日本を、他の国の人に紹介したい。バックバックの中に、1つだけ入れてお土産にしたい。さあ、何を持っていくか?生徒諸君に問いかけたい。これは、以前JICAセミナーであった有用な国際理解教育のアクティビティである。日本の自然、社会、文化それらを象徴する『なにか』をまず問いたい。そしておそらく、1年間日本史を学んだうえで、最後の授業でも同じ宿題を出すと思う。どう変化するか、それが本当の「学び」だと思うのだが…。

2010年3月29日月曜日

GlobalなあまりにGlobalな


 今日は、JICAセミナーの出張もあったので、久しぶりの学校だった。あまり用事もないのだが、今春転勤が決まった国語科のM先生が担任だったクラスのOGが来るというので、楽しみにしていた。M先生は、私より1歳年下だが同年代として仲良しであった。ほんと人柄のいい先生である。こうして、転勤と聞いて是非ともと会いに来る生徒がいるM先生は幸せ者である。彼女らは、同時に私のJICAセミナー参加生徒であるので、授業は教えていなかったのだが近しい存在である。M先生と私とOG2人で近くの喫茶店でいろいろ話をした。某大学で、日本語教師をめざすOGは、オーストラリアへの飛躍を強く望んでいた。某大学で、中国語を学んだOGは、就活中であるらしい。彼女たちとの対話の中で考えたことを今日は書こうかなと思う。

 グローバリゼーションの進展で、今や日本は、中国ともオーストラリアともUSとも、善悪や好き嫌いを越えた相互依存の関係を持っている。その中で彼女たちは将来を見据えて生きていかなければならないのだ。私やM先生の世代とは隔世の感がある。中国語を生かしたいOGには、あえて台湾企業を勧めてみた。中国の圧倒的なグローバルな進出に、台湾は必死に抵抗を試みている。アフリカでも台湾派は数少ない。ブルキナファソが台湾派なのは行ってから知った。なかなかシタタカな選択である。だからこそ、おもしろいのではないかと私は思ったりする。台湾がこのまま飲みこまれるとは思わない。中国は、国として見ると見誤る。1つの世界である。この世界をまとめるのは容易ではない。今は国家であるが、いつ何時崩壊するかしれない危うさを秘めている。だからこそ、googleが撤退しようと、チベット問題を非難されようと、国内安定に必死なのである。蟻の一穴が恐ろしいのである。その点、台湾は民主国家であり、スキルも資本の蓄積もある。案外将来性があると私は思うのだ。就活でもグローバルな視点で見なければならなくなった。

 日本の加工貿易は、いくつかの日本的スキルが優位な上では存続するだろうが、これだけ技術移転が進むときびしい。またアフリカでいえば、日本は、高所得層のアフリカ1相手の商品を生産する国である。しかし、これからはBRICsのGDPが爆発的に伸びるはずである。中間層のアフリカ2、最下層のアフリカ3への商品開発が求められている。スズキ自動車はインドに進出して成功した。安価で良質なものは売れる。いつまでも高価で超高品質な製品だけを求めていては、グローバルな経済発展で生き残れない。日本の将来を考えると、英国病を発症したUKの如き成熟した過去の先進国となっていくのかなあと思ったりする。

 グローバル化した世界は、教科書やパソコン上の世界ではない。足元にまで及んでいる。OGたちと話していて、強く実感したのであった。

2010年3月28日日曜日

仮想世界ゲームⅨ


 さて、久しぶりに仮想世界ゲームのことを書きたい。今回のJICAセミナーで、仮想世界ゲームの実施報告書を何冊か持っていき、参加校の先生方に、仮想世界ゲームを本校で集中講義的実施する計画がるとの話をした。なじみの関係である某国立大学の付属校や北摂の某府立高校、あるいは府立の国際科の協議会のまとめ役をされている府立高校の先生とも話すことができた。皆さん熱心に聞いていただき、参加の方向性を示唆してくれた。なんとか7月の中旬から下旬にかけて、本校で実験的な仮想世界ゲームのセッションが出来る可能性が出てきた。
 先月のブログ『仮想世界ゲームⅧ』で私は最後にこう書いた。「理想としては、4人ずつ10校の生徒が集まり、集中講義として行うのがいい。さあ、次の段階へ始動である。同じようにESDを重要視している先生方のネットワークを使って参加校を募集し、是非とも本校のゼミ室を使って一度やってみたいものだ。」それが、現実に動き出したのである。今回JICAセミナーに参加していない学校にも声をかけようと思う。国際理解教育学会つながりで、奈良の某国立高校や某県立高校にも声をかけようと思っている。またWITHのメンバーの希望者に参加してもらうのもいいかなと思っている。
 私に残された時間は少ない。本校におけるESDの歴史をたとえ1日でも残したいと思っている。さて、昨日も書いたが、新校長がこれを認めてくれるかなとちょっと心配である。(前校長には一応OKはもらってある。)まあ、参加高校の名前で十分押し切れそうであるが…。新校長のOKが出ればさっそく各校に原案を提示して動き出すことにした。<今日の画像は、JICAセミナーでの調べ学習の発表風景である。ここにいるメンバーも本校に来るかもしれない。>
 とはいえ、TVドラマでもあるまいし、何でもうまくいくわけではない。外部との折衝とともに、内部でも様々な許可が必要となる。内憂外患は中国史の上の話だけではない。ユネスコスクール(旧ユネスコ共同学校)への申請はついに本校では挫折してしまった。これは、私個人のESD雪辱戦でもある。

2010年3月27日土曜日

人事の季節


 今日の朝刊に、大阪市教育委員会関連の人事が発表されていた。だからもうブログに書いてもいいと思うのだが、毎年3月後半は人事の季節である。一般の教員の転勤が決まり、新任の人事が決まり、管理職の人事とそれに伴う第二次の人事があって、来年度の体制が決まる。もう30年もこの業界で生きていると、いろいろな人事があった。私は、今年度本校9年目の新学期を迎える。転勤の希望は出していなかったので気楽なものだ。しかしながら、仲の良い先生方が去ったり、知った先生が来たりと、毎年様々な悲喜こもごもな出来事がある。ほんと、大阪市の高校の世界は20校ほど。狭いのである。
 新聞に載るのは、当然管理職の人事である。本校では校長が退職されるので、どなたか必ず新しい校長を迎えることになる。今度は委員会から迎えることになったようだ。女性校長である。教頭も女性なので、大阪市としてはかなりめずらしい人事となった。私は新校長を全く知らない。どんな方か、正直、楽しみ半分不安も半分といった感じである。「期待」という言葉を使わないところがミソである。過度な期待は御法度。公立高校で、校長がやれることとやれないことは、およそ判ってきた。無茶を言うようなことはしない。ただ、組織の常として、「長」のポリシーは必ず組織に大きな影響を与える。どんな方か理解したうえで、何を期待したいかを、自分で決めるつもりである。
 さて今日の本題である。後輩が次々と教頭になっていた。特に、本校の「主席」は、前任校からの漫才コンビを結成していた弟分である。某校の教頭にめでたく昇進した。JICAのセミナー中にメールがあり、当然事前に知っていたものの、彼と同期あるいは年下の後輩の名も新聞に載っていた。ある程度情報はあったものの、こうして見ると、なんとも感無量である。
 私は、管理職には向いていないと思っている。理由は簡単である。バランス感覚があまりないのである。ドクトル・マンボウ青春記風に言うところの『鬱勃(ウツボツ)たるパトス』はもっているが、基本的に「情」の人なので、時には非情さも要求される管理職になったらストレスで死んでしまうだろう。また基本的に威張ったり、威張られたりするのは美しくないと思っているので、そういう世界は苦手である。管理職になった同輩や後輩を見ると、私と基本的には同じ人種なのに、うまくその辺を使いこなすことができるのである。まあ、要するに私が「子供」だということかもしれない。(笑)それ以上に、私はやはり授業をしていたい。最終的には、これに尽きるのかな、と思う。うちの弟分の「主席」は、人一倍授業が好きな男なので、後で後悔するかもしれない。しかしルビコン川を渡った以上、バランス感覚を磨き、大きな立場でがんばって欲しいものだ。

2010年3月26日金曜日

JICAスプリング・セミナー2010


2泊3日のJICA高校生国際協力スプリングセミナーから帰ってきました。今年もなかなかいいセミナーでした。初日は、まずワンフェスでも紹介した関西一のファシリテーターといっていいS先生によるワークショップ。世界中の子どもの写真をジグソー化して、グループ分け。その写真をもとに、創造力を働かせるフォトランゲージでした。プレゼンテーションソフトも駆使しながら、なかなかいいワークショップでした。ちょっと傲慢な言い方になりますが、S先生のワークショップは安心して見ていられます。S先生はよく勉強されておられるので、生徒のいい発言にはうまい賛辞を、間違った発言には、ちょっと持ち上げながら躊躇なく間違いは間違いと指摘していかれます。決して自分の考えを押し付けるのではなく、生徒からいいものを引き出そうという姿勢が凄いのです。夜は、研修員さんとの交流でした。メキシコのITや電気関係の研修員さんでした。実は昨年に引き続きオール・メキシコ人。こうなると、ラテンのノリが爆発します。(笑)前で、立命館の国際関係学部の学生さん(インターンで研修中)が何を言おうと、ノリノリ、自分たちで勝手に進行してしまいまうのです。本校の生徒たちも、今日だけ参加してくれたU先生もY先生もイケイケでした。生徒たちも大満足。昨年は、生徒を巻き込んだ大ダンスパーティーにまでなったのですが、今回はなんとか止めれたようでした。<今日の画像はその時の交流会です。>

 中日の午前は、貧困と「児童労働」についてのワークショップでした。日本の貧困に主に取り組んでいるNPO主催の『ホームレス中学生』のマンガを、ランダムに渡し、それを順番に並べなおしていくワークはなかなか新鮮でした。また、問題の関連性を『ウーリーシンキング』という有名な手法で、S先生が説いていきます。(このウーリーシンキングについては、4月にでも授業で久しぶりにやるつもりです。その時にまたふれたいと思います。)
 中日の午後は、いよいよじっくりと、様々な高校生が寄せ集められ、調べ学習に入ります。今回は、「あくまで教員はタイムキーパーに徹する」ことをS先生より要望されていました。と、いうのも昨年は、関西中の国際理解教育界(といっても小さな業界ですが…)に於けるかなりのツワモノ教員が勢ぞろいしていたのです。私も一応その中に入ると思います。(笑)教員の指導が生徒の自主性を妨げたとS先生は判断されたようです。私にもその意図は理解できます。で、今回は全く発表内容にタッチしませんでした。(とはいえ、食事中にいろいろな話をししましたが…)今年も夜11時くらいまで打ち合わせしていました。
 我が班は、児童労働を様々な観点から調べることになったようです。ちょうど、近くにタンザニアの政府関係の研修員さんが集まっていたので、タンザニアの児童労働の状況についてインタビューもできました。タンザナイトという宝石の採掘には、やはり小さな体の少年が働いているそうで、やめさせたいのだが…と率直に教えてくれました。同時にタンザニアは、少年兵禁止条約に署名していることも教えてくれました。彼らは、そのことも最終日発表してくれました。本校の生徒たちの調べ学習もなかなか良かったと思います。
 今回も多くの途上国の研修員さんと出会いました。アフリカ関係では、前述のタンザニア、それかたケニア、ウガンダ、ナイジェリア、ザンビア、マラウイ…。私の地球市民の記憶も80カ国地域となると、なかなか新しい国の人とは会えませんでした。とはいえ、スワヒリ語で挨拶し喜んでもらえるのは嬉しいことです。前述のタンザニア人集団とは、生徒たちが来る前に、喫煙していた時(2Fの喫煙ルームの近くに彼らがいたので…)に、すでにアミーゴになっていたのです。カリブ!JAPAN!(ようこそ日本へ)がうけました。(笑)タンザニアは、国民国家(民族に分かれていない。出生はわかれていても自分たちはエスニックグループに所属せず、”タンザニア人”であるという認識の下に暮らしている)を成立させている珍しい国です。ウジャマー社会主義の話もしました。彼らは大いに喜んでくれました。生徒たちに「アサンテサーナ(ありがとう)」を教え、スワヒリ語で挨拶して打ち合わせにもどろうとすると、生徒1人ひとり名前を教えてくれと、さらに盛り上がりました。やっぱり、いいんだな…アフリカは…。と思った次第。

2010年3月23日火曜日

高校生国際ボランティアWITH


 今日は昼から年休を取って、高校生の国際ボランティア”WITH”のミーティングに参加しました。なんと会場は、梅田の高層ビルにある関学のキャンパスでした。<今日の画像参照/ブログ掲載了承済みです>ワンフェスの時、ああこの子たちなら、私の想いをぶつけてもいいなと思ったので講師を引き受けました。なにより背後に大人がいないのがいいと思います。自分たちで考え、たとえ未熟でも高校生らしく進めばいいと私は思います。
 さて、今日の内容は、自己紹介(WITHメンバーも私も)の後、ESDについての説明や私が何故開発経済学を高校生に教えているか?(2月26日付のブログ:国際理解教育のActivityの罠参照)等、雑談的に進めました。アイス・ブレーキングですね。
 彼らは、これまで、”WITH”として「同世代の子どもたちに希望を。そのためには教育が必要だ。」と結論づけていました。たしかにいい結論です。では、それは何故?と問いかけるところから本題を始めました。まずはアマルティア=センの「貧困」を学ぶことが重要だと思い、ブルキナファソのI氏の詩を使ったり、ケニアの学校の話をしたり、ジンバブエの”ロボラ”(アフリカ的買婚のシステム)について話したりしながら、結局経済的豊かさもさることながら、教育や保健衛生の重要性を教えました。で、HDIの話になります。HDIは、センの理論をもとに、1人あたりのGDPに、教育(識字率や就学率など)と保健衛生(乳児死亡率や出生時平均寿命など)を加味する豊かさの指標です。さらに人間の安全保障について論じ、いかに「教育が重要か?」をわかってもらいました。HDIを上げるためには、教育の向上が欠かせません。彼らの理論的な柱にしてもらえれば幸いです。さらに、経済的な豊かさ(1人あたりのGDPの向上)のためには、農業の生産性向上が何よりも重要なこと、ガバナンスが良いことが重要なことなどを様々な例を挙げて説明しました。これにも「教育」の向上が必要なのです。実に4時間におよぶ長いミーティングになりました。(途中3回休憩をはさみました。)
 メンバーは疲れも見せず、私の問いかけに真剣に答えを模索してくれました。いい回答も多かったと思います。今日来てくれたのは9人。うち新大学生が5人だったからかもしれませんが、現役高校生も頑張ってくれていたと思います。心地よい疲れです。機会があれば、また…と思ってしまったのでした。(笑)

追記:明日から、JICAの2泊3日の高校生セミナーです。3月は、これまで皆勤でブログを書いてきましたが、2日ほどお休みさせていただきます。

2010年3月22日月曜日

追想ピーター・オルワ氏のことⅢ


 今日は、私の誕生日である。52歳になってしまった。そんなことはどうでもいいのだが、ピーター・オルワ氏の命日でもある。2月のブログで、ピーター氏のことを連続して書いた。今日はその続編である。JICAのケニア研修旅行での最終日。ナイロビ空港に入る前が大変だった。スーツケースが重量オーバーの先生方が続出したのだった。(幸い私はいつもうまくクリアーしてしまう。)スーパーでウガリの粉2kgを売っていた。私も欲しかったが、我慢した。後で聞いたのだが、女性の先生方の中でこれがネックになった先生方もいたようだ。(生徒に見せたい、食べさせたいという気持ちがよくわかる。)とにかく、大混乱になったのだった。ピーター氏とアダム氏(2月のブログでも紹介した元警察官のJICA専属ガードマン)が、何をどうしたかわからないが、うまく通過さてくれた。彼らには最後まで世話をかけたのであった。
 最後の最後に、私は、ピーター氏に「レインボー!」と叫んで別れた。この「レインボー」という言葉、ピーター氏が何かにつけ、「これからのケニアは変わります。レインボーですね。」と言っていたことに由来する。ピーター氏は、前政権のモイ大統領が嫌いだった。ある街で、モイ時代のモニュメントを激しく批判していた。汚職にまみれた大統領だと常に批判していた。ピーター氏は、新しいキバキ大統領に大きな期待を寄せていたのだ。よく調べてみると、このキバキ政権誕生の母体となった野党連合が「レインボー」だったのだ。

 私が、エスカレーター上から「ピーターさん!レインボー!」と叫んだら、ピーター氏は「そう、レインボー!」と答えてくれたのを思い出す。彼は、新政権への希望に満ちていたのだった。(よくわからないかったのに「レインボー」と言った私も軽率だが…あの時は、何かの標語か、南アの新政権の影響だと思っていた。)

 ピーター氏の期待どおり、キバキ大統領は汚職撲滅に頑張った。しかし、だんだんと大統領権限を削減する法案を骨抜きにしたりして、アフリカの「並みの大統領」化してしまったのである。2007年末の大統領選挙では、最大野党を率いるオディンガ氏が有利となった。彼は、ピーター氏と同じルオ人である。(キバキ氏はケニヤッタ初代、モイ二代大統領と同じ最大民族のキクユ人である。)選管が、キバキ氏の当選を発表し、1000人を超える死者が出る暴動となってしまった。マウマウ団以来独立運動を指揮し、政権を握ってきたキクユ人へのルオ人をはじめとする少数派の長年の鬱積が背景にあるとされている。

 ピーター氏は、この悲劇を見ることなく、この世を去った(2006年)。もし健在なら私たちにどんな思いを伝えたのだろう。きっと、オディンガ氏の正義を熱く語ったと私は思う。だが、きっと暴動については否定的で、多くのルオ人を止める役割をしたのではないか、と思うのである。

追記1:http://www.maisha-raha.com/BKLchiaki.htmlに、ナイロビ在住の早川千晶さんのピーター氏逝去とナイロビ暴動を悼む素晴らしい一文がある。ご一読いただければ幸いである。早川千晶さんについては、いずれこのブログでもふれたいと思う。
追記2:学位授与式のため、雲南から帰国した愚息は、今朝がたフィリピンへとまた旅立った。2回目になるマニラ・スラムのスタディツアー参加とカトリックの研究のためらしい。

2010年3月21日日曜日

アパルトヘイトは消滅したかⅡ


 南アの話の続編である。プレトリアは、ヨハネスブルグに比べ治安が良いので、私はジンバブエ行きのバスチケットが取れるまで、”ひねもすのたりのたり”と、街をブラブラしていた。ある日、USドルをランドに両替する必要があり、銀行に行った。南アの銀行の出入り口は、ゆっくりと回る電動の回転ドア式である。どうやら治安対策らしい。治安がいいといっても日本とはケタが違うのである。さて、2Fの両替所での話である。私が防弾ガラス越しのカウンターで両替を申し込んだ後には、黒人の青年が待っていた。彼に変わろうとすると、階段を駆け上がってきた白人が、彼を押しのけカウンターに両替の申し込みをしたのである。「…?」
 順番を抜かされた黒人青年は、平然としている。カウンターの白人女性も平然としていた。その平然さが私をイライラさせた。安物の電子辞書に私は「ゴウマン」と記入して、英訳した画面を黒人青年に見せた。彼はニヤッと笑った。彼の申し込みが済み、私が呼び出されるまで、小声で話をした。「いつもこんなかい?」「どうってことはないよ。」「私は、(あんなことをする)ホワイトは嫌いだ。」「(笑)私も…。」「今日は何故両替をするんだ?」「マレーシアに行く。初めての海外旅行で楽しみなんだ。」「それはよかったねえ。」(私の両替が済んで)「じゃあ。マレーシアを楽しんできてね。」「ありがとう。ハブアナイスデイ!」私にとって、強烈な経験であった。。…アパルトヘイトは法的には消滅したのかもしれないが、現実には生きているのではないかと思った。
 
 プレトリア大学に行ってみた。芝生の広い綺麗な大学だった。しかし黒人は黒人、白人は白人で輪を作って談笑している。生協に案内してくれた黒人学生に「いつもこうかい?」と聞くと、何故そんな当然のことを聞くのかといったような顔をされた。…アパルトヘイトは消滅したのかもしれないが、人種の壁は超えていないのが現実なのである。ところが、一歩大学を出て、隣の女子高の前を通ったらまた違うのである。黒人の生徒も白人の生徒も仲良くおしゃべりしてバスを待っている。「…?」

 ある日、ヨハネスブルグのアパルトヘイト博物館に行った。<今日の画像はその内部の写真で、当時の警察の装甲車の展示である。>入口が、白人用と黒人用に別れた博物館。チケット売り場で偶然入場口が決まる。私は黒人用から入らされた。当然全て英語の展示である。写真パネルや映像のの展示が多い。これでもか、これでもかと差別の実態をさらけだしていた。ツアーで一緒だったのは、ベルギーのアントワープ在住の母娘と、カナダの院生の青年である。ソウェト(アパルトヘイト時、隔離されていた旧黒人居住地のひとつ、マンデラ大統領の生家もある)や、黒人暴動のきっかけとなった黒人少年惨殺の記念博物館も見学した。この時の昼食での話。ソウェトの中のちゃんとした”レストラン”であった。カナダ人青年が、アフリカン・ランチを注文した。いわゆる主食の白トウモロコシをゆでたサザ(ジンバブエではこう呼ぶ。ちなみにケニアではウガリ)が、真ん中にどかっとある。彼は、これをナイフとフォークで食していたが、「まずくて食えないよ。」とほとんど残したのだった。私には、まず手で食べないことにびっくりしたし、あんなうまいものを残したことにもびっくりした。

 たしかに…南アのアパルトヘイトは消滅したのかもしれないが…。

2010年3月20日土曜日

学位授与式と同志社の構造


 今日は、愚息の学位授与式であった。行くつもりはなかったのだが、愚妻が「(同志社に行くのは)最初で最後になるかもしれないし…。」と言うので、それもそうだ、学生時代今出川通りの前は何度も走ったが、入ったことは無い。今出川キャンパスとはどういうところか見てもいいなと思ったので、なんとなく親バカっぽくて私の美学に反するが、行ってみた。<今日の画像は、総長、学長をはじめ先生方が壇上に並ばれた瞬間である。>
 
 気付いたこと・その1。十字架など、キリスト教的装飾は一切ない。讃美歌の合唱(パイプオルガンが演奏される)や、神学部の牧師さんが、聖書の一節(マタイ伝の種子の話)をされたり、キリスト教的ではあるが威圧感がない。形式主義的でないと言い換えてもいい。
 気付いたこと・その2。学位授与式らしく、ローブをまとった先生方の姿がアカデミズムというか、元英学校という伝統故か、しっくりとはまっていたこと。うまく言えないが、外国文化の模倣ではなく、ちゃんと消化している感覚といってもいい。 
 気付いたこと・その3。伝統ある大学とは、こういうものか、という感銘を受けたこと。学長のスピーチで新島襄の話が何度も出てきた。それも素直に入るような、説教くさい話ではないこと。長い伝統の中で育まれた”かなり完成された同志社イズム”を感じた。

 極めつけは総長のスピーチだった。「個人主義」について述べられたのだが、私は心の中で膝を打った。私の考える「自由論」そのものであった。総長のスピーチを極めて簡単に要約すると、今の日本に必要なのは、自己の責任を全うする覚悟を基盤にすえた自由である。これこそ同志社の個人主義なのだということだった。 なるほど。新島襄という人もそうであったし、同志社もそうであった。ちょっと同志社の「個人主義的構造」について考えてみる。
 3月11日のブログで少し触れているのだが、「個人主義」という概念は、近代国家論において最も重要な概念だと私は思う。その基盤をつくったのは、まぎれもなくプロテスタンティズムである。その総本山的な同志社で、聞くべくして聞いたスピーチだと言えるのだが、私の学生時代、同志社というのは、極めて変わった存在だった。
 私の年代は、俗に言う70年安保で揺れた世代から、シラケ世代の変わり目にあたる。その頃同志社は、まだ新左翼が学内を握っていた。新左翼というのは、反帝(帝国主義)反スタ(スターリニズム:スターリン主義=日本共産党の既成左翼、同時に親トロッキズム:トロツキーの世界同時革命主義の意味を持つ)で、くくれる新しい左翼運動のことである。かなり複雑に分裂していた。有名なのは中核派とか革マル派とか、社会主義協会系の社青同とか、ブントとか…。私は、学生運動にコミットしなかったので、直接関わっていないが、その頃の同志社は、まだ新左翼が頑張っているのか?という感じだった。連合赤軍が浅間山荘事件を起こし崩壊し、新左翼はその頃は成田闘争(成田空港反対闘争)くらいしか戦う場をもっていなかった。かなり浮いていたのである。(この頃のことは、佐藤優の「私のマルクス」を読むとよくわかる。佐藤優は私より少し年齢が下であるが…)なにか、今日学位授与式に行って、その謎が解けたような気がした。
 「ああ同志社ならありうるな。」と感じたのである。自由なのである。個人主義なのである。責任を持てるのなら何をやってもいい、という学風。そのルーツは新島襄にある。…でないと、あんな変わった奥さんを娶らないだろう。

 だいたい、キリスト教の神学部なのに、ユダヤ教やイスラム教の研究で修士の学位をホイホイとくれるのである。その同志社の「個人主義的構造」や、良しである。

2010年3月19日金曜日

アパルトヘイトは消滅したかⅠ


 このところ話題にしてきた人権問題をアフリカにもどしたい。南アでの話である。私の泊まったプレトリアの安宿は、欧米人ご用達であった。私は欧米の人たちと共にドミトリーで就寝し、暖炉のあるリビングで語らい、無料のコーヒーを飲んでいた。<今日の画像はここのスタッフC氏のスナップである>C氏は、私のジンバブエ行きのためにいろいろと骨を折ってくれた人物である。客とスタッフというより友人関係だといっていい。ところが、欧米人には黒人に対するDNAのようなものがあって、また反対に黒人の方も欧米人に対するこれまたDNAのようなものがある。私は南アで、このような欧米人と黒人という二元論的世界の中、自分が「日本人と言う、どちらにも属さず、またどちらにも属せるという新たな装置」であることを認識した。

 C氏と友人関係であれたのは、まさにそのためだ。最初、いろいろ調べてくれたので、コーラを奢った。彼はびっくりしていた。チップでもなく、無視でもなく、コーラを奢られたのである。最初は躊躇していたが、やがて毎回なので慣れたようだ。ジンバブエ行きのバスチケットが取れた時、アフリカンスタイルの握手(握手・指相撲風握手・握手という三段階の握手である。東アフリカと南アフリカ共通。西アフリカはまた別の握手になる。)で喜び合った。
 すると、おもしろいことに他の掃除や洗濯、食事の世話をする女性スタッフまでもが、私に話かけてくるようになった。欧米人には絶対見せない素顔である。そのジンバブエ行きのバスがやっと取れた日のことである。庭のテーブルで、安物のトランジスタラジオをかけながら本を読んでいたら、「そのラジオ、高いの?」とい声をかけられた。(彼らは欧米人になれなれしく言葉をかけない。それどころか表情が堅い。)「安物だよ。日本製じゃないし。」「いくらくらい?」「うーん。100ランドくらいかなあ。」(日本円で2000円、南アの通貨では100ランドの意味である)「私の給料ではとても買えないわ。それくれない?」「ジンバブエに持っていくつもりなんだ。」「またここに戻ってくる?」「たぶん。」「その時くれない?」「うーん。」…結局あげることにした。家に持って帰っても聞くことはないし、彼女のもとにあるほうが、このラジオも幸せかもしれないと思ったのである。

 彼女は、私が戻って来た時、その巨体をゆすって「オカエリナサイ!」と言った。当然お目当てはラジオだったと思う。約束どおりラジオをあげると、さっそく腰にぶらさげて、アフリカンポップをフルボリュームでかけながら、ニコニコとご機嫌で掃除をしていた。また他のスタッフから「写真を撮ってくれないか。」と言われ、警備のオジイサンや他の女性スタッフの写真も撮って日本から送ってあげた。彼らが、着飾ってポーズをとる姿をファインダーから覗きながら前述の「日本人と言う、どちらにも属さず、またどちらにも属せるという新たな装置」であることを認識したのである。

 「アパルトヘイトは消滅したか」と題したこの南アのシリーズは、さらに後日に続けたい。
 

2010年3月18日木曜日

近況報告会 in HIRAKATA


 今日、私が本校に赴任した時2年生だったOB2人と会った。1人は、一浪後、大阪大学の外国語学部を今春卒業した。1人は、某国立病院の専門学校を卒業して、今は枚方の某病院で理学療法士として働いている。直接2人に授業を教えていたわけではないが、私がJICA大阪の高校生セミナーに初めて参加した時の生徒である。いわばJICAセミナー1期生なのである。<その時の写真をずいぶん探したのだが、この自宅のPCには入っていなかった。きっと学校のPCに保存してあるのだろう。実はすごい写真なのである。当時の川口外務大臣が視察にこられ、一緒に写っている写真である。残念!ブルキナでのカップヌードルの話で盛り上がったのと、S君の卒業を記念して、このロゴを今日の画像とする>
 阪大を卒業したS君は、韓国語をひたすら磨いてきた。韓国のハンセン氏病患者へのボランティアをずっとやってきて、昨日韓国から帰ってきたところだ。明日も神戸で、韓国のアカペラグループの通訳に行くらしい。就職は、東京の某区の国際関係の仕事につくとの報告を受けた。韓国語を生かす仕事につけて満足しているらしい。昔は外交官になる!北朝鮮の問題を解決したい!と熱く語っていたが、その理想と現実のギャップは、そんなに大きくない。これからも仕事を通じて多文化共生にかかわっていきたいとのこと。
 一方理学療法士のM君は、実務経験3年をクリアし、いよいよJOCVに応募するのだという。彼の高校時代の英語の実力はかなりのもので、十分阪大生(当時は大阪外大)になれたはずだが、理学療法士になってJOCVに行くと言っていた。今も理学療法の研究会で様々な先生に師事し、また英文の専門論文の輪読会を主催しているという。
 S君は、「英語はM君のほうがレベルが上ですよ。」と言っていた。私は、「S君の行く某区には、ナイジェリア人が多いじゃないか。大丈夫か?」「なんとかします。」とのこと。M君は、理学療法士の募集のある国を挙げて「さて、どこがいいですかねぇ。」と聞いてきた。問題は、その国で初の理学療法士としての国際協力か、否かである。彼が全くの白紙から自分の力を試しそうとしたがっているのを知っているからだが、そのことを何より重視すべきだとアドバイスした。また、その後のこともいろいろアドバイスした。院に行き、国際協力の専門家として極めるもよし。調整員として残るのもよし…である。

 ”近況報告”なのである。まさに、”中間報告”でしかないのである。これから先、どうなっていくのか?3人で楽しみだなあと言って別れた。

2010年3月17日水曜日

JEWYORKな話 その2


 昨日の続きである。ニューヨークは、全米でも有数のユダヤ人の多い街として有名である。私のNYCひとり旅の最大のテーマは、”JEWYORK”を覗くこと(観る、学ぶなどと表現するのはおこがましいのでこういう表現になるのである。)だった。昨日は、そのユダヤ人との”幸福な”邂逅のことを書いてみた。今日はその対極的な出会いについて書いてみようと思う。ニューヨーク最大のシナゴーグは、昨日も名前が登場したエマニエル・シナゴーグである。ここは、観光名所のひとつでもあるので、わりと自由に入ることができる。館内の撮影もOKである。重厚で豪華な装飾のシナゴーグである。受付の人は誠実そうな人物だったし、金曜日だったので、子供が明日の礼拝の司会の練習をしていたりして微笑ましい。…と私は思った。しかし、何か妙である。視線を感じるのである。柱の陰から私を監視する目をいくつも感じた。青年のスタッフが不慮の事態に備えて常にエイリアンである私を監視しているのであった。JEWYORKと呼ばれるこの街でも、ユダヤ人たちは自己防衛に必死なのであった。
 
 エンパイアステートビルの近くにダイアモンド・ロウと呼ばれる貴金属店が集まったところがある。ここに立っていると、黒い帽子に顎鬚、黒いスーツにアタッシュケースを持ったオーソドックス・ジューに会うことができる。彼らは、昨日紹介した改革派とは異なり、極めて厳格にユダヤの律法を守る人々である。私は2分間ほどの間に8人のオーソドックス・ジューとすれ違った。写真を撮りたかったが、とてもそんな台詞が出てこない。彼らの”プライド”という言葉では安っぽすぎて、「矜持」と漢字で書くしかないような威厳に満ちた「存在感」は圧倒的なのである。

 5番街のミュージアム・マイルをさらに北上すると、ユダヤ博物館がある。<今日の画像参照>私はここで、初めてタルムードの実物を見た。また割礼の道具も見た。もちろん展示物紹介は米語である。私の米語力ではスラスラと読めない。小さな辞書(まだこの頃は電子辞書なんてなかった。)で調べる羽目になる。すると、警備のオジサンがやってきた。「何をしているのかね?」「私は日本人で、米語が苦手なので辞書で意味を調べているのだ。」「なるほど。ところで…」と彼は次に凄い台詞をはいたのである。
 「ところで…私はユダヤ人じゃないからね。」私は耳を疑った。

 JEWYORKと呼ばれる街で、それもユダヤ博物館の中で、聞きもしないのに、私はユダヤ人ではないという警備員…。ユダヤ人の置かれている立場がいかに厳しいものであるか。エマニエル・シナゴーグの視線も、ダイヤモンド・ロウのオーソドックスジューの圧倒的な存在感も、決して過剰すぎる自己防衛ではないのかもしれない。そんなことを考えていたのである。
 
 だからこそ、昨日書いた改革派シナゴーグでの出会い、特に長老たちの歓迎ぶりが納得できるのである。

2010年3月16日火曜日

JEWYORKな話 その1


 NYCひとり人旅で、様々な出会いがあった。その最大のひとつが、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)への突入である。このシナゴーグは、ブラブラとミッドタウンを歩いている時に偶然見つけたものだった。ガイドブックの詳細な地図によるとシナゴーグの記号がついていたので気付いたくらいで、一見すると十字架のないプロテスタントのどこかの宗派の教会という感じだった。<今日の画像参照>土曜日なので、ユダヤ教の安息日であることは認識していた。入ってい見たいなと思って、ボーと立っていると、中から青年が出てきた。不審人物と思ったのだろう。私はサバイバル米語を駆使して、ユダヤ教を研究している日本の高校の社会科教師であることを訴えた。彼は、「ちょっと待って。」と言って、老人とともに戻ってきた。老人は、「入っていいよ。」と簡単にOKしてくれたのであった。
 今思えば、このシナゴーグは、改革派(ユダヤの律法を厳格に守ることよりも米国市民として普通に暮らすことを重視する)だったと思われる。礼拝に際して、キッバ(入口にレンタルのユダヤ教徒の帽子を入れたカゴがあった)を被れと指示されたくらいで、あとはフリーだった。礼拝では、子供たちの入信の儀式をやっていた。中央には、トーラー(モーセ五書が書かれた巻物)が何本か見える。ただし、装飾は館内も含めて極めてシンプルである。キリスト教教会のように讃美歌も歌う。見開きで、ヘブライ語と米語で書かれているが、米語での合唱だった。私は、シナゴーグの礼拝に参加できたことに感激していた。貴重な体験であった。
 礼拝終了後、私は黒人女性を見つけた。極めて不思議な光景ではあるが、ユダヤ教では母親がユダヤ教徒であることが条件である。父親が黒人であっても母親がユダヤ人であれば良いのである。彼女は、このシナゴーグのボランティア・スタッフなのであろう。スムーズな退場を指示していた。私は、集った人々の奇異の目にさらされながら、彼女と話す機会を待った。ちょっうど、当時大阪市がオリンピック招致を目指していて、綺麗なバッチを作っていた。私はそれを数個手に入れて、お土産用に持っていた。彼女にそれをあげたら、大喜びして、さっそく自分の服に着けてくれた。「お礼に、あなたを素敵なところに連れて行ってあげるわ!」と私を階上の部屋に導いたのである。そこは、このシナゴーグの長老たちの朝食会ともいうべき場所だった。
 ユダヤ人の老人たちは、私のサバイバル米語自己紹介を聞き、大いに喜んだ。私は、ここにくる何日か前にNYCでもメジャーなエマニエル・シナゴーグに行ったこと。ユダヤ博物館にも行ったこと。そして明日ワシントンD.C.のUSホロコースト博物館に行く予定であることなどを述べた。すると、老人たちは、興奮して私にユダヤのイースト菌の入ってないパン(すこぶるマズイ)と、赤ワインを勧めてくれた。朝食後時間が経っていなかったので遠慮したかったが、断るのが非常に難しいくらい、激しく勧めてくれたのだった。もし、私の米語が堪能なら、いろいろな質問をしたかった。しかし私のサバイバル米語は矢尽き倒れたのであった。次の予定があるので…と、引きとめる老人たちを尻目にシナゴーグを去ったのである。最後に私は、彼らに謝意を述べ、唯一知っているヘブライ語でこう言ったのであった。「シャーローム」…老人も黒人女性も心から感激してくれたようだった。

2010年3月15日月曜日

終業式の日にサプライズ同窓会


 今日はは終業式の日であった。朝から、地下鉄長堀鶴見緑地線がSTOPするという、サプライズがあり、予定が大幅に遅れたのだが、今春退職される校長の話を在校生たちはよく聞いていた。私も、新しいメガネに新しいスーツで今日の日に臨んだ。と、いっても校長の為ではない。(怒られるかな?)同じく今春退職されるU先生の為である。
 U先生は、共に3年間英語科の担任として、山あり谷あり、谷あり、山ありの日々を送ってきた。今年で退職されることを、我がOB/OGには常々伝えてきた。時折生徒たちが、学校に顔を見せてくれたのは、その為である。今日、U先生は2年生の英語の補習を、この時期までされていた。午後2:30には時間が空くということで、それに合わせて15人くらいの卒業生が集まってくれた。ありがたいことである。卒業式の日も、この前の金曜日にも来てくれた。U先生の人望ゆえであろう。<今日の画像は、アメリカ研修旅行でのU先生撮影による姉妹校での歓迎セレモニー開会前の生徒諸君のスナップである。>
 今日の校長の最後の話は、「本校の伝統は、思いやりが深いことだ。」ということだった。まさにその伝統そのものだった。私は、補習を終えて、彼女らの顔を見て喜んでおられるU先生の職員室のドア越しに聞こえる声だけで十分だった。
 U先生は、卒業式の日、保護者との最後の昼食会で、こんな質問を受けた。「先生になっていなかったら何をされていましたか?」U先生は、きっぱりと「教師の職以外は考えたことはありません。」と言われたのを思い出す。凛として、常に熟慮しながら、誠実に生徒に接してこられた姿は、私と好対照だが、”生徒がすきでたまらない”ことは、隠しようがない。うちの生徒にはそれが、ヒシヒシとわかるのである。
 今日はU先生にとって、サプライズな日であったかもしれないが、私は必然であったと思うのである。

2010年3月14日日曜日

ドラゴンボールin Milwaukee


 教師として、生徒の関心に触れることは重要だと思い、前任校では少年ジャンプを愛読していた。本校勤務になってからは読まなくなったが、昨年の体育祭の時、横断幕にピンクの帽子をかぶった鹿の絵を生徒が描いた。「この鹿、かわいいなあ。」と言ったら、チョッパーというトナカイだと言われた。なんでも『ワンピース』というマンガの登場人物だという。これはいかんと思い、日曜日の朝はドラゴンボール改とワンピースのアニメをまるまる1時間見る習慣がついてしまった。これが、…なかなか面白い。生徒がハマるはずである。

 ところで、今日の本題は、ドラゴンボールなのである。<なのに画像がチョッパーなのは、単なる趣味の問題である。>このドラゴンボールには、ちょっと思い出がある。最初のアメリカ研修旅行の時、ウィスコンシン州のミルウォーキーを訪れた。あまり見どころのない街で、パブリックという名の博物館くらいだという。他の先生方は早々とホテルに引き揚げたのだが、私はこの博物館の展示にハマった。この街にやってきた様々な移民の暮らしをミニタウンとして展示してある。アイリッシュの家はかなり貧しげで、カトリックの祭壇があったり、ウクライナ人の家には正教の祭壇があったり…。なによりしびれたのは、ユダヤ人の家である。黒いコート、本の並んだ本棚、バイオリン。写真を撮った。それでも飽き足らずスケッチしてコメントを書きこんだ。素晴らしい博物館だった。
 さて、その夜、ミルウォーキー市の教育委員会主催の歓迎パーティーが開かれた。その中に場違いな高校生がいたのだ。その高校生が私の前の席に座った。彼は、委員会のメンバー宅にホームステイしている留学生だったのだ。「どこから?」と聞くと、「イスラエル」と答えた。バリバリのユダヤ人だったのである。「君のおじいさんやおばあさんの出身は?」と聞くと「ポーランド」だと言う。「じゃあ君は”アシュケナジ”なんだ!」と言うと、彼は大喜びした。日本人が”アシュケナジ”という言葉(ヨーロッパに離散したユダヤ人の総称である。)を知っていたことに感激したらしい。結局パーティーの間、彼とずっと話をしていた。彼は「日本の4WDが欲しいのだ。」と言っていた。「ミツゥビシ、イツゥズ!」とかなり訛っていた。(笑)三菱のマークは土佐藩のマークだとか、いらん話を真剣に説明した。

さらに彼はドラゴンボールを見ていて、かなり盛り上がった。私は「どこまで知っているか?」と尋ねた。かなり初期だったので、「悟空は、やがてナメック星でフリーザと戦うのだ。その時スーパーサイヤ人になる。」と教えた。どこまで彼が私のサバイバル米語を理解したのかは不明だが、とにかく一生懸命聞いてくれた。(ドラゴンボール改では、今日ついに、悟空はスーパーサイヤ人になった。)<さてさて結局どう考えてもおかしいので、やはりドラゴンボールの画像も入れることにした。>

 あれから幾星霜。ミルウォーキーでの邂逅は、私の中に『地球市民の種』を植え付けた。私は、今でもパレスチナの悲惨な状況の映像がニュースで映し出される度に、戦車の上にいるのが彼ではないかと心配している。決して地球のどこかの”ヒトゴト”ではないのである。

2010年3月13日土曜日

神があなたをゆるさないわ


 初めてアメリカに行ったのは、大阪市教育委員会の海外派遣研修だった。この旅行は、私は知らずに応募したのだが、管理職(校長や教頭、指導主事等)になりたい人のための研修だった。事実この旅行の参加メンバーの先生方は、ほとんどが小中高の管理職になられた。私と言えば、そんなことも露知らず、アメリカを大いに見聞し、その後、管理職など目指さず10年ほどアメリカ研究にどっぷりとハマってしまったのである。その後JICAのケニア研修に行ってからはアフリカ研究に、またまたどっぷりハマってしまった。人生、そんなもんだと思う。

 さて、昨日は、アメリカの黒人差別というか、黒人にまつわる話を書いた。今日も少し違う角度から書いてみたい。初めてのアメリカで、シカゴに行った時の話である。ダウンタウンにあるホテルから、科学産業博物館へ南下した我々のバスが交差点前で突然停滞にまきこまれた。全然動かないので何事かと降りてみると(そこは黒人街で若干治安に問題があったのだが…)、シカゴ(市民)マラソンのルートを横切ろうとしてたのだが、先頭が来るということで、警察に止められていたのだった。<というわけで、今日の画像はその時のスナップである>
 我々のバスの横の家の住人は、黒人のおばさんで、自分の車を出そうとしていた。ポリス(映画に出てくるようなアメリカン・ポリスだ!)が止めていた。ガイドさんに彼らのモメテいる話を通訳してもらった内容をドラマ風に書くと次のようになる。「いつ私の車は出れるのよっ!」「Soon!」「ほんとねっ!」と、いったん家に入って着替えてきた彼女が車を出そうとすると、ポリスは車の前に背を向けて腕組み。(かっこ良い。)彼女がエンジンをブイブイいわせても微動だしない。彼女は、ドアを開け、かみつくように「どいてっ!」ポリスは「文句があるなら市長に言ってくれ。」と言ったのだった。まさに映画の1シーンであった。その時、彼女は黒いワンピースに長めのアフロな髪をゆらせ、サングラス越しにポリスにドスをきかせて、こう言ったのである。「神があなたをゆるさないわ!」

 凄い台詞である。日本では絶対聞けない台詞である。私は感激した。日本ではあまり意識されていないが、アメリカは非常に、信仰の篤い国である。イギリスなどよりはるかにキリスト教が盛んだ。おそらく彼女は教会に行くはずだったのだろう。今でもあのシーンを鮮明に思い出す。私のすべらない話シリーズ・シカゴ編である。

2010年3月12日金曜日

96丁目、雪の降る夜に


 昔々、私はNYCの西96丁目のB&Bに10日ほど滞在していた。その日は、朝早く出て、ワシントンD.C.まで鉄道を使い、USホロコースト博物館に行って来た。メリーランド州を走る帰路、もう春だというのに雪になった。ペンステーションで、地下鉄のC列車に乗り換え、96丁目駅に着いた。「セントラルパークも明日は銀世界になるなあ。」と思いつつ、B&Bの前で煙草をふかす。最高のB&Bなのだが、禁煙なのであった。
 そこに、B&Bの上階に住む青年たちが帰ってきた。彼らは私がB&Bのゲストだとすぐわかったらしい。「どこから来たの?」と金髪女性。あと2人は男性である。5分ほど話をしていた。すると、1人の男性が向かいのアパートメントの階段に座るホームレスらしき黒人を見つけたらしい。さっと彼の方へ行くと、$1札をかざして、「ゲット・アウト!」と叫んだ。金髪さんは、「しかたないのよ。」と映画のようなジェスチャーをした。このあたりは、静かな住宅街で、家賃も高いらしい。ホームレスが出没すると治安が悪化し、価値が下がるらしい。アメリカの実相である。
 翌日、コロンビア大学へ行った。昼食は、近くの¢50のホットドッグ。入ろうとすると、松葉づえをついたでかい黒人が「ここのパイナップルジュースはうまいぜ。」と言ってきた。私は、パイナップルジュースは嫌いなので、無視してコークを頼んだ。食べていると、彼がまたやってきた。「どこから?」「大阪。」「どれくらいNYCにいるのかね?」「10DAYS」「これからどこへ?」「ブルックリンにでも行こうかなと思ってる。」などとたわいのない会話をした。食べ終わったので、出ようとすると、彼は、「グッバイ、ブラザー。」と言った。感激した。まるで映画の1シーンではないか。これもアメリカの実相。
 その数日前、ミュージアム・マイル(5番街のセントラルパーク東側の道である。)での出来事である。メトロポリタン美術館を出て、ベンチに座って煙草をふかしていると、南から老人夫婦に連れられた黒人の子供が歩いてきた。どうやら黒人の坊やは、身体に障害があるらしい。しかし、老夫婦は、幸せいっぱいの笑顔で歩いてくる。アメリカでは養子をもらうのに、人種や性別を指定できない。3人は、私の前を歩き、マンハッタンの夕陽を浴びて、北の方へゆっくりと進んでいく。まるで後光がさしているようだった。私は感動して泣きながら手を合わせた。これもアメリカの実相である。
 
 今もアメリカに黒人差別はあるのか?私の覗いたアメリカの黒人の姿は様々である。生徒諸君にはいつも見てきたことを、そのまま話すことにしている。ただ、ノースカロライナのニューバーン高校を視察した時、ALTの父親である教頭先生に、黒人生徒が多い公立校なので、もう差別などないと思って質問したら、「テーブルの下での差別はある。」と回答されたことがある。これもアメリカの実相である。

2010年3月11日木曜日

異文化理解としての宗教学


 4月から現代社会という3単位の公民分野の教科をU先生と、ESDを基本にして行うことになった。1年近く、学校で、また京橋の喫茶店で打ち合わせを続けてきた。その結論は、まず資本主義を教えるのも、民主主義を教えるのも、「個人」として立脚できる精神的基盤がなければ成立しえないという結論だった。となれば、プロテスタンティズムを語らねばならない。ならば…と思索を重ねると、結局、ユダヤ教-キリスト教-イスラム教の「一神教」をきっちりと説くべきである、という結論になった。

 先日見たNHKの世界遺産の番組で、奴隷として新大陸に渡った黒人の話が出てきた。アフリカに戻ってきた人々もいる。奴隷だった彼らの名前について、「人名の世界地図」(21世紀研究会編)に興味深い章がある。『黒人奴隷に押しつけられた名前』である。ルーツの主人公クンタ・キンテも本名を名乗る権利は無く好き勝手に名前をつけられたはずだ。、最初に乗船させられた男と女は、アダムとイヴとつけられることが多かったらしい。船員につけられた場合はイギリスの地名が多かったという。さらに所有者によって、シーザー、ジュピター、ユリシーズ、ダイアナ、ヴィーナスなど古代ローマ的な名前や、皮肉に満ちた名前、たとえばプリンス、ジェネラル(将軍)、キング、デューク(公爵)などがつけられたという。

 ところで、欧米人の名前にはキリスト教やユダヤ教の伝統に結びつく名前が多い。異文化理解にはかなり有効である。先ほどのアダムとイヴだけでなく、たとえば、アブラハム。英語ではエイブラハム(リンカーンが有名)となる。白鯨のエイハブ船長も同義である。イエスに洗礼を与えたヨハネは、英語ではジョン。ロシアではイワンとなる。イエスの一番弟子ペテロは、英語ではピーター。ロシアではピョートル、イタリアではピエトロ、フランスではピエール。ドイツではペーターとなる。異邦人への布教に多大な活躍をしたパウロは、英語ではポール。スペインではパブロ。などなど、言い出したらきりがない。
 倫理では、ユダヤ教、キリスト教の基礎概念をやった時点で、この名前の話を入れる。「属性」があれば、学習は楽しい。イサクは英語ではアイザック。ニュートンとくるかと思ったら、アシモフの名が返ってきたりする。まあ、枝葉なのだが、私は興味付けと具体的な異文化理解にとって重要な学習だと思っている。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が同じ神を信じていることを、私は30年間教えてきた。最近やっと文科省もイスラムを教えるよう指示しだした。今の国際社会を理解するキーは、まず一神教なのである。

 「個人」に立脚する思想は、カトリックの集団主義的な教会至上主義からの反革命思想として生まれた。日本人の多くは、プロテスタントという宗派があると思っている。私は、ルター派、カルバン派、英国教会と分類したうえで、さらにバブティストやメソジスト、クウェーカーなど様々な宗派についても教える。もちろん正教の方も教える。相手を理解しなければ異文化理解も地球市民もありえないのである。とはいえ、一神教はやっかいである。善悪二元論的に物事を理解する傾向がある。南アのアパルトヘイトもオランダ系ボーア人が、カルバン派故の予定調和説をとって、神に祝福されるかいなかは予め決まっていると考えるからこその黒人隔離政策だったのである。…奴隷の名前にしたって、非キリスト教徒への、えげなつない仕打ちという側面があることは否定できない。
 

2010年3月10日水曜日

”コメ”食う”アフリカの”人々


昨日、JICAの月刊誌が届いた。ありがたいことに、月刊誌"JICA'sWorld"と、JOCV(青年海外協力隊)の月刊誌クロスロードが、毎月私宛に送られてくる。国際理解教育の様々な教材として利用しているのだが、今月号の特集は、「アフリカ新時代」、アフリカの年といわれ、多くの独立国が生まれた1960年からちょうど50周年を記念したものだった。これまでのJICAの取り組みがうまくまとめられていた。成長するアフリカ経済マップもなかなかいい。さて、「JICAにここが聞きたい」というコラムがあって、アフリカではどれくらい”おコメ”が食べられているの?というQがあった。ちょっと意外なデータが面白い。サブサハラアフリカの国と日本の1人あたりの年間コメ消費量だが、日本以上に消費している国が8カ国もある。第1位マダガスカル。この国は、アフリカの中のアジアであり、マレー系の人々が多いので私も知っていた。しかし2倍近い消費量だ。次に、リベリア、シエラレオネ、ギニアビサウ、マリ、モーリシャス、キニア、コートジボアールの8カ国。セネガル、ガンビア、コンゴ共和国は日本よりほんの少し少ないくらい。西アフリカを中心にかなりコメ主食派の国が広がっているのである。
 地理の農業分野で必ず教えるのだが、コメが穀物の中で最も人口支持力が大きい。つまりカロリーが高いのである。したがって、コメを栽培できる地域ではコメをつくる。それが無理な場所で、小麦やトウモロコシをつくる。それも無理な場所でソルガムなどの雑穀、さらにそれも無理な場所が遊牧になるのである。ヨーロッパの肉食は、小麦という穀物としてはコメより劣るものを主食としなければならない不利を補うためのものなのである。アフリカで、作れるところでは大いにコメを作ることは、開発経済学からも最も価値的な政策なのである。
 JICAは、アジアに比べ半分ほどの土地生産性しかないアフリカの稲作を大いに支援している。TICADⅣ(日本が中心となって進めているアフリカ開発会議/2008年で4回目)でも、他の組織と共にサブサハラアフリカの稲作振興を進め、生産量を倍増する取り組みを進めている。頑張って欲しい。
 
 さて、ワン・ワールドフェスティバルの時に覗いた高校生の国際ボランティア団体WITH(2月6日のブログ参照)から、講演の依頼がきた。当日は11名が参加するらしい。なんともありがたい話だ。
 どういうふうに進めようか。…思案中である。

2010年3月9日火曜日

空堀かるた絵製作委員会


 大阪市では、一昨年4月よりパブリックエリアは禁煙となり、本校のスモーキング・ルームは物置になってしまった。以来我々愛煙教師は、校外で煙草を吸わなくてはならなくなった。
 そんなある日、北風の中紫煙をゆらしていると、今年卒業した国語科の3年生(当時)が、どやどやと出てきた。国語の演習の時間らしい。担当のA先生も出てきて、聞くと、本校の周囲の「空堀地区」のかるたを作るのだという。今日は、そのためのフィールド・ワークらしい。<今回の画像はその募集チラシである。>なんでも、賞品は、絵つきのかるたセットだという。生徒は「是非欲しいので、いい作品をひねり出します。」とのこと。面白そうなので、私もフィールド・ワークに参加した。空堀地区は、路地や古い街並みが残り、大阪の観光案内などにも紹介されている。時々、ガイドブックやカメラをもった観光客らしき人々と出会う。そんな空堀をかるたで表現しようというのである。なかなかいい企画ではないか。A先生の説明を生徒とともに聞く。初めて直木賞の直木三十五の記念館の場所も知った。本校の周囲はダウンタウンでありながら、意外にいいところなのである。わたしも3つほど歌をひねって、生徒たちと共に募集用紙に書き送ったのである。
 先日、その「空堀かるた」を推進している大阪市役所の都市整備局・まちづくり事業部・HOPEゾーン事業部というところから、私に連絡が入った。うちの美術部(実は私が顧問である)にかるたの絵を描いてほしいという依頼だった。まあ、近隣のことであるし、あまり何も考えず快諾した。
 今日は、その担当者が来校された。まさかとは思ったが、いろは順に48のかるたを全部引き受けて欲しいとのこと。本校の美術部は現在10人くらいなので大丈夫かとは思ったが、生徒に非公式に打診したところやる気があるようなので、やっぱり快諾した。担当者は、喜んで帰られた。
 とはいえ、ちょっと美術部以外にも協力をお願いしなくてはならないかもしれない。美術部の指導もしていただいている非常勤講師のT先生と相談した。まあ、なんとかなるでしょうという2人の結論である。凄い数のハガキ大の原画が美術室に並ぶ光景は楽しみだ。私とT先生で入選作を選ぶことにした。その名も、空堀かるた”絵”製作委員会。

追記:昨日のNHKの世界遺産の番組は、予想どおりセネガルとガンビアであった。なかなかいい番組だったと思う。あまりTVを見ない愚妻だが、珍しくいっしょに見ていて、昨夜は黒人さんが大勢で踊っている夢を見たとのこと。朝から大笑いした。

2010年3月8日月曜日

アフリカ3へ「ソーラーの光」を


 昨夜から今朝にかけて、アフリカに関する良く似た映像を見た。昨夜は、NHKの海外ネットワークで、アフリカ3(1日$1以下で生活しているような最も低所得層のこと。)の、電力未供給地に、フィリップス社が、ソーラーパネルで蓄電できるランタンを販売している話だった。日本円で6000円ほどだが、支払いを石油ランプを使ったとして必要な額を貯金するという方法で販売しているとか。子供たちの勉強時間が増えたという報告だった。今朝のもNHKのニュース。アジアの政府関係者が、サンヨーを訪れ、同様のランタン(こっちは5000円らしい。今日の画像はサンヨーのもの。)を見て、自国の開発に大いに利用しようと考えているという話である。特にモンゴルの遊牧民向けに、関税を低くして普及したいとモンゴルの政府関係者が語っていた。
 同じNHKのニュース画像だが、偶然とはいえソーラー利用のランタンの話が2題続いていたわけだ。サンヨーのWEBを調べたら、日本もなかなかやる。ウガンダに250台のソーラーランタンを寄贈していた。もちろんビジネスも絡んでいるだろうが、こういうアフリカ3向けのビジネスをもっとやってほしいものだ。ラテンアメリカでは、手動の蓄電で使える子供向けのパソコンを12000円ほどでアメリカのNGOを中心に試用を増やしている。子供たちの潜在能力を生かすための動きを、これからも注視していきたい。

 ところで今日は10:00からNHKの世界遺産関係の番組でアフリカ特集がある。「ルーツ」云々とあったので、ガンビアが連想された。(米映画ルーツの出身国は、西アフリカの英語圏ガンビアである。)奴隷貿易云々ともあったので、ガーナ?ベナン?セネガル?とも思われる。昨夏ブルキナのサヘルの村にある博物館で、ここから奴隷として北アフリカに売られた人々の話を聞いた。内陸国ブルキナからアルジェリア・モロッコ経由という奴隷貿易ルートもあったことを知った。この奴隷貿易問題は、非常に複雑である。欧米諸国とアフリカの関わりについても、いづれブログで考察したいと思う。

 いずれにせよ、アフリカ3に「ソーラーの光」を!アフリカ全土に人間の安全保障と、良きガバナンスを!と叫ばずにはいられない。
 
追記:今日、先日卒業した男子3人が、阪大に合格したと報告に来てくれた。法学部2名、文学部1名。その他国公立大学合格の報が、今日だけで4件。よく頑張ってくれたと職員室は1日中祝賀ムードだった。

2010年3月7日日曜日

私のプレミアム・スウィッチ


私の主治医である鍼灸師のH先生が、どうも目の疲れがひどい。メガネの度数が合ってないのではないかと、愚妻に忠告してくれたらしい。H先生の中国医学の造詣の深さに敬意を抱いている愚妻は、「メガネ買い換えようか。」と言ってくれた。で、今日買いに行ってきた。やはり、老眼が2段階進んでいた。さすがH先生である。私のいつも買うメガネ屋は某大規模小売店の1Fにある。ついでに、これまでCANON・EFで撮ったフィルムを現像し、CDに焼きつけてもらった。
 日曜日の夕方、私は、TOKIOの鉄腕ダッシュを見ている。地理の生徒にも言っているが、ダッシュ村の実践など生きた学習教材でもあるのだ。その前に『プレミアム・スウィッチ』という短い番組がある。著名人が心安らぐ何かを紹介する番組である。プレミアムの名はモルツの提供だからだが、毎回何となく見る羽目になる。私にとってのプレミアム・スウィッチは、やはりCANON・EFである。高校時代にあこがれていた銀塩の名機である。ブルキナファソに行く際、私はカメラマン・ベストが欲しくて、探しているうち、CANONのロゴ入りのベストを見つけ、オークションで落札した。ところが、馬鹿チョンのデジカメでは恰好がつかなくなり、何気なくオークションを見ていると、このEFが後5分で落札という段階で私のPCの画面に登場したのだった。運命的な(?)出会いであった。ベストより安かったのが悲しいくらいだ。カメラのナニワで見てもらったら、状態はかなりいいとのことで、以来パリ、ブルキナファソ、北京と私とともに旅をしてきた。時折、近くに行くときも、シャッターを押す。あの、フィルムを巻き取る瞬間が、私のプレミアム・スイッチである。あの巻き取る感覚。やはりデジカメより、銀塩なのである。
 だから、写真の出来よりシャッターを押す快感のためのEFなので、ついついフィルムは長いこと放置してしまうのである。今回もあまりいい出来ではなかった…。芸術写真のつもりが、ただのスナップに見えてしまうのである。まあ、この1枚くらいはマシかなあというのが、10月に修学旅行の付き添いで行った北京動物園での1枚である。
 なんとなく、中国の秋の柔らかい日差しが感じていただければと思う。

追記:このブログを書いた後、NHKの海外ネットワークでアフリカ特集を見た。その後、このプレミアム・スウィッチを今日も見る羽目になった。アルフィーの坂崎幸之助が、なんと銀塩カメラをプレミアム・スウィッチとして紹介していた。彼のは、私のよりはるかに高価なライカだったが…

2010年3月6日土曜日

財布の中のジンバブエ・ドル


 先々週に久しぶりに新書を買った。松本仁一の「アフリカ・レポート-壊れる国、生きる人々」(08年8月第1刷)である。「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」の改訂中だったこともあり、2日で読み切った。なかなかおもしろかった。松本仁一の本は、「アフリカで食べる」「アフリカで寝る」「カラシニコフ」など、読みやすくまた面白い。この新書の大きな特徴は、ジンバブエの経済崩壊と、南アの治安問題などを中心に、ガバナンスの崩壊について、平易に書かれていることと、ガバナンスの悪さに対して、民間から立ち上がるアフリカの民衆の姿に少し明るい未来を見ることである。さっそくテキストに挿入させてもらった。
 ところで、私の財布の中には、ジンバブエ・ドルが入っている。教材用にいつでも見せれるように入れているのである。(USの$1札もあるし、中国の100元札で、毛沢東、周恩来、朱徳、劉少奇の肖像が4人勢ぞろいの札もある。)昨年秋までは、私が行った時の500ドルと、裏がかなり手抜き印刷された5000ドルだったが、オークションで、世界最高額の100000000000000ドルの札も手に入れた。
 生徒にジンバブエのハイパーインフレを説明するのに、重宝している。最近のアフリカ諸国への論調は、ガバナンスの悪さへの批判が多い。その最たる国がジンバブエなのである。私は、ジンバブエの首都ハラレの公園で生徒の質問を持ってリサーチしたことがある。さすがに政治向きのことは文章にしなかったが、ロボラ(男性が女性の親に婚資を支払う結婚システム)について、アンケート調査をしたりしていた。ショナ人の人々はフレンドリーで、私は大好きである。私が行った頃は、白人農園が次々と逃げ出していた頃で、バスで隣になったマラウイ人と広大な荒れ地になった農園を見ながら、そんな話をしていたのを思い出す。
 ハラレの公園で、子供の物乞いに出会った。彼らは、黙って手を出す。親が裏で操っているのもわかる。お菓子をあげたが、手を引っ込めない。他に同じような子供もいないので、そっとお金をあげた。にこっと笑って去って行った。途上国に無理解な人々は、こういうことをするから貧困が無くならないなどと「永遠の相の下に」論評するが、これが彼らの仕事なのである。日本的スタンダードをアフリカに押しつけてはならない。富める者から資を得るのは、アフリカのスタンダードなのである。彼らは、結局ジンバブエの崩壊の中、どうしたのだろうか。南アまで行って難民となる術もないはずだ。来年度もこんな話を生徒にしようと思う。

2010年3月5日金曜日

私の知っている本校ALT列伝


 昨日は、卒業式で、ALTの写真をブログで紹介した。そこに写っていなかった1人が、今日の写真でコーヒーを持っているT先生である。<ブログに写真を載せることにOKをもらった>せっかくなので、昨日の続編としてALTの話を今日は書こうと思う。T先生は、日本語がペラペラだと言っていい。彼がALTとして日本に来た最大の理由は、「囲碁」である。彼によると「五段」だという。私も囲碁は前任校で少し教えてもらった経験があるが、せいぜい7級?くらいだと思う。最近は全然やっていない。当然、九目置いても勝てる見込みもないし、彼も打ってもおもしろくもないだろうから、対戦を拒否している。だが、T先生の囲碁の話に会わせることはできる。で、かなりの仲良しである。本校のALTは、真面目で優秀な人が多い。T先生も優秀なのだが、他のALTとは少し違う。他のALTは、時間が空いたときなど、日本語検定の勉強をしていることが多い。近くいる私にも時々質問が飛んでくる。だが、T先生は、ひたすら囲碁の死活を真剣な目つきで考えている。(笑)先日「中国に行って打ってきた。」と言っていた。私の知っているALTの中でも変わり種の1人である。1月のブログで紹介したオーストラリアからの留学生への特別講義にも興味を示してくれて、通訳を買って出てくれたこともある。どちらかというと、本校での」ALT生活を楽しんでいる感じである。
 私が本校に赴任してきた時もたまたま今の席だった。隣にいたのは、D先生というイングランド人だった。ちょうどサッカーの日韓W杯の時で、D先生はイングランドのユニフォーム姿でW杯中を過ごしていた。その彼が、漢字の読みを勉強していて、「血管」の読み方と意味を聞いてきた。「けっかん。ブラッド・パイプのことやね。」と言うと大笑いした。「ブラッド・パイプ!なるほど!WAHAHAHA」以来仲良しになった。彼とP先生とみんなでカラオケに行き、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を熱唱したこともある。あの早口の部分は彼らが歌った。「なかなか英語うまいな。」と言ったら、謙遜していた。(笑)
 カラオケと言えば、L先生という、これもイングランド人のALTがいた。彼とは前任の工業高校に来ていたことがあり、顔見知りだった。本校に赴任したら彼がいたわけだ。彼も愛煙家なので、今は無きスモーキング・ルームでよく話をした。夏のある日、彼はこんなことを言った。(もちろん英語だが…)「私は、日本も君も好きだが、1つだけゆるせないことがある。それは、君らが夏、アイスコーヒー(缶)を飲むことだ。コーヒーはホットでなければならない。どこを探しても缶のホットコーヒーがない!」「そんなもん、この暑いのに誰が飲むねん。」と言ったら、「君たちは野蛮だ。」と言って喧嘩になった。(笑)彼が帰国する時、前任校の英語の先生とともに彼のワイフとカラオケに行った。私がビートルズを歌うと、「ゆるせない。ビートルズは、真のロックバンドではない。」と言ったので、「サティスファクション」を歌ったら、「そうだ、ローリングストーンズこそ真のロッカーだ!」と言ってマイクを奪って熱唱したのであった。なかなかウルサイ奴だった。でもイングランド人らしい奴でもある。(笑)
 今まで、いろんなALTと出会った。仲良しの面白いALTがたくさんいた。また機会があれば、ALT列伝Ⅱを書こうかなと思う。

2010年3月4日木曜日

卒業式の日に三島由紀夫


 卒業式である。会場の写真もブログ用に撮ったのだが、掲載するのが憚れたので、終了後職員室の私の隣席に陣取るALT(ネイティブスピーカーの教員)の記念写真にした。アイルランド人のO先生、USミネソタ州出身のS先生、以前本校に勤めていて今日わざわざ来てくれたジャマイカ人のS先生、それにイングランド人のL先生である。もう一人手前にUSミネソタ州出身のT先生もいるのだが、ここには映っていない。彼らが、仰げば尊しを起立して神妙に聞き入っている姿も、本校の卒業式ならではである。卒業式の後、卒業生がひっきりなしに職員室にやってくる。いっしょに写真を撮ったり、アルバムに贈る言葉を書きいれたり…。毎年の恒例行事である。小規模校なので、非常にアット・ホームである。私は、アルバムに書き入れる言葉を予め決めている。それは、私の師の言葉である。
 『理想に生きることをやめた時青春は終わる。』…この一節を胸に私は教師をやってきた。ところで、今読んでいる本の中の1冊に、「三島由紀夫と楯の会事件」(保坂正康/角川文庫)がある。この本は、熱烈な三島ファンの愚妻が「すごくいいから読みなさい!」と半ば強制的に私に渡した本である。経過はともあれ面白い。この本の中にこんな記述がある。『英霊の声』という本のあとがきに書かれている部分である。
 「私の癒しがたい観念のなかでは、老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい。老年の智恵は永遠に迷蒙であり、青年の行動は永遠に透徹してゐる。だから、生きてゐればゐるほど悪くなるのであり、人生はつまり真逆様の頽落である。」
 ものすごく三島くさい論旨であるが、不思議に納得できるところもあるのである。私はまだ理想に生きているつもりではあるが、51、いやもうすぐ52という齢を重ねてきた。時折「透徹」した行動に陰りが見えてきたように自省することがある。この『理想に生きることをやめた時青春は終わる。』という贈る言葉を書くことが恥ずかしくなる時がいつしかくるのかもしれないと、帰路の電車の中でふと思った。
 教師が成長することが、生徒を成長させると私は思う。教師は最大の教育環境だと私は思う。定年を迎えるその日まで、この言葉を書くにふさわしい教師であらねばと自分をふるいたたせた今日の卒業式であった。

2010年3月3日水曜日

アフリカ開発経済学テキストⅢ


 3日連続で、テキストの話です。スミマセン。貧困の章の次に、4.「近代国家論」をもってきました。①サブサハラアフリカは資本主義の発展を経ていないこと②個人主義を基盤とした民主主義社会を確立していないこと③民族が多様で、しかも小さすぎるので国民国家足り得ていないことを、簡潔に論じます。
5.アフリカの経済・政治・文化を知るためのキーワードの(1)は前回同様の「アフリカを知るための隠れたキーワード」です。4の近代国家論を補完する形で論じます。①エスニック・グループと国境線②人口密度と土地の話③ポレポレとハクナマタタ(情の経済)④農村と都市⑤伝統的結婚システム-ロボラとマライカ-と続きます。
(2)は「アフリカの農業を分析する」と題しました。今回の改訂で最も力を入れた箇所です。①アフリカの農業はモノカルチャーのプランテーション農業?と題し、その幻想を破すことから始めます。サブサハラアフリカの国々の輸出総額に占める農産物の割合と、主な輸出作物の輸出総額に占める割合と農業生産に占める割合、輸出額を1つの表にまとめてみました。さらに、コーヒーの原産地で、輸出総額に占める農産物の割合が比較的高いエチオピアを例にとって、エクセルでグラフを作り整理してみました。エチオピアの輸出総額に占める農産物の割合は91%。輸出総額に占めるコーヒーの割合は、そのうち65%。さらに農業生産額でみると11%にすぎないことが一目瞭然になります。さらに、エチオピアの可耕地面積に占める割合は2.4%にすぎないことも教えます。これらの資料の考察から、次の項②サブサハラアフリカの農業は内向きの食糧生産が主の農業であることにつなげます。この項では、アフリカの主食/ソルガム・メイズ・ミレット・キャッサバなどの知識を確認したうえで1人あたりの食糧生産を表にしてみました。この表から、南アフリカ以外は食糧輸入国であることがわかります。また、アジアやヨーロッパなどと土地生産性の大陸別比較を行い、人口支持力の低さを論じます。前回も使ったWorld Mapperの穀物の輸出・輸入の地図を見比べます。いかにアフリカが穀物を輸入しているかがわかります。次の項③「緑の革命」とサブサハラアフリカのエコ農業では、アジアの開発経済学との対比をしながら、サブサハラアフリカの農業のまとめをしていきます。
(3)は鉱工業です。①鉱業は簡単にふれる程度に収めました。②工業については、雇用創造力が劣っている装置工業が主力であることを論じます。要するに、サブサハラアフリカの工業は、市場も小さいので、ビールやコーラといった雇用が少なく機械装置が主に生産するような工業しか発展していないことを示すのです。
(4)のアフリカの農業から工業を読み解くの項では、これらをチャートの図式にしました。安くて豊富な労働力を獲得できていない、言い方を変えれば、先進国やアジアの新興工業国のように、農業の生産性の向上から経済学史でいう「自由な賃金労働者」が表れず、生産性の低い農村から、情の経済で都市に出てくる人々は、その主力が装置工業ゆえに雇用されず、インフォーマルセクターに流れ、やがて村に帰っていくことを繰り返していることを説きます。これが、今のサブサハラアフリカの実態なのです。…今日はここまでにします。明日は、卒業式です。明日は、テキストの話を止めて、卒業式のことを書くことになると思います。

追記:今日、愚息が中国の雲南省に2週間の予定で旅立ちました。好きな旅を続けている愚息を見ると、やはり羨ましい限りです。アフリカには、留魂し、二度と行けないだろうと覚悟を決めた私ですが、嗚呼!もう一度赤い土を踏みたいと思ってしまうのでした。

2010年3月2日火曜日

アフリカ開発経済学テキストⅡ


 今日も脱稿したテキストのことを書こうと思います。詩を入れたことに続いて、構成を若干変えました。単元1は、「イントロダクション/ESDと国際理解教育/開発経済学とは何か?」これは前回と同じです。単元2で、「アフリカ開発経済学の基礎/経済成長と資本の蓄積」と題して、平易に書き直しました。開発経済学の法則をまず示します。ここでのまとめは、以下のようになっています。
 経済の成長のためには、生産性の向上が必要である。そのためには、資本の蓄積が必要である。サブサハラアフリカの諸国は、これがうまくいっていない。だからこそ長らく経済成長しなかったのである。なお、かなり単純に言ってしまえば、『経済はマグロである』経済成長が止まれば死んでしまう。サブサハラアフリカの途上国の多くが低成長だった故に、今にも死にそうな状態が続いた。まだまだ低成長が続いているといってよいだろう。…なんとなく結論として歯切れが悪いのは、ここ数年サブサハラアフリカの経済成長率が格段に上がっているからです。最新のデータやグラフも挿入して論じると、こう書かざるを得ません。
 単元3「貧困と何か?」には、またI氏の詩を挿入しました。『ブルキナファソの暑い夜』という詩です。この詩は、バナナ売りの少女の詩よりさらに長く、私は涙なしには書けません。このブログのリンク先の『ブルキナファソ竹の子の家』の「竹の子の家OPEN」のページを開くと見ることができます。是非読んでみてください。
 この詩を読んで貧困とは何かを共に考えた後、アマルティア=センの「貧困」を語ります。センの「貧困とは所得水準だけで決定されるものではなく、個人がそれぞれの目的を達成するために自己の潜在能力を生かす機会を奪われる状態」という定義を説明し、この考えが、HDI(人間開発指数)やMDGs(ミレニアム開発目標)に与えた影響を説きます。MDGsは、ジェフリーサックスが主に策定したものなので、詳細は後に譲るとして、次にこの単元では、HDIを詳しく見ていきます。各国の貧困の度合いは、現在このHDIが主流です。1人あたりのGDPと乳幼児死亡率などの保健衛生の達成度、識字率などの教育の達成度が加味されています。センの言う潜在能力を生かす機会を奪うものが加味されているのです。さらに、「人間の安全保障」について説明します。恐怖と欠乏からの自由という概念と現実を語ります。前回のV2.24では、センの「貧困」は、後で学びましたが、ここ2年の授業実践から、先に学ぶ方が効果的だと判断した次第です。これによって、国際理解教育でも開発経済学でも重要な概念である、HDIも人間の安全保障も有機的に学習できると思います。今日は、ここまでにします。

2010年3月1日月曜日

アフリカ開発経済学テキストⅠ


 本日「高校生のためのアフリカ開発経済学テキストV3.01」脱稿しました。全52ページ。昨夏に国際理解教育学会で発表したものと何点か改良したところがあります。まず、「詩」をイントロダクションで挿入したことです。ブルキナ在住のI氏に了解をいただき、まず「バナナ売りの少女」という詩をもとに生徒とアフリカを考えたいと思ったのです。

 西アフリカのブルキナファソ 
 毎日走るガーナへの道端に
 小さな弟を背負って 重そうに頭にたくさんのバナナを載せて
 毎日少女は立っている 一日中立ち尽くしているのだろうか
 初めはただ通りすぎるだけで気にも留めずにいた

 ある日少女に声をかけてバナナを買った 100フラン(約20円)で3本
 少女ははにかんだ仕草でにっこりと笑っていた
 私が学校へ言っているのと問いかけると 何も言わずほほえみがとだえた
 そのとき ふと、悪いことを聞いてしまったと思った
 
 それから毎日すれ違うたびにバナナを買う 
 少女のうれしそうな笑顔を見ると心が和む
 100フランを渡すと4本渡してくれる 
 そんなに利益は無いのにと思いながらバナナをかじる
 
 ある日少女はいない どうしたのだろう 色々な憶測が私の頭をよぎった

 約一週間少女はいつものように立っていた 
 道はまっすくなので遠くからでも見える
 良く見ると いつも一緒の弟がいない 弟はどうしたのと聞くと
 少女は微笑みが途絶えると同時に 目から大粒の涙があふれてきた
 ふと事情は聞くまいと思った

 あくる日また少女は立っていた 頭の上にたくさんのバナナを載せて
 私は黙って100フランを渡すと 
 いつものように はにかんだ仕草で微笑みながらバナナをくれた

 私は、このI氏とガーナに続くまっすぐな道<今回の写真はその道です>で、詩にあるような女の子や男の子に何度も会い、ゆで卵や地図や、ティッシュを買いました。その情景が浮かびます。
 涙なしでは、私は読めません。授業の時は生徒に読んでもらおうと思っています。
 読んだあとの設問です。気づいたことを書いてみよう。作者はどんな人か、考えてみよう。…今日は、ここまでにします。