2010年3月4日木曜日

卒業式の日に三島由紀夫


 卒業式である。会場の写真もブログ用に撮ったのだが、掲載するのが憚れたので、終了後職員室の私の隣席に陣取るALT(ネイティブスピーカーの教員)の記念写真にした。アイルランド人のO先生、USミネソタ州出身のS先生、以前本校に勤めていて今日わざわざ来てくれたジャマイカ人のS先生、それにイングランド人のL先生である。もう一人手前にUSミネソタ州出身のT先生もいるのだが、ここには映っていない。彼らが、仰げば尊しを起立して神妙に聞き入っている姿も、本校の卒業式ならではである。卒業式の後、卒業生がひっきりなしに職員室にやってくる。いっしょに写真を撮ったり、アルバムに贈る言葉を書きいれたり…。毎年の恒例行事である。小規模校なので、非常にアット・ホームである。私は、アルバムに書き入れる言葉を予め決めている。それは、私の師の言葉である。
 『理想に生きることをやめた時青春は終わる。』…この一節を胸に私は教師をやってきた。ところで、今読んでいる本の中の1冊に、「三島由紀夫と楯の会事件」(保坂正康/角川文庫)がある。この本は、熱烈な三島ファンの愚妻が「すごくいいから読みなさい!」と半ば強制的に私に渡した本である。経過はともあれ面白い。この本の中にこんな記述がある。『英霊の声』という本のあとがきに書かれている部分である。
 「私の癒しがたい観念のなかでは、老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい。老年の智恵は永遠に迷蒙であり、青年の行動は永遠に透徹してゐる。だから、生きてゐればゐるほど悪くなるのであり、人生はつまり真逆様の頽落である。」
 ものすごく三島くさい論旨であるが、不思議に納得できるところもあるのである。私はまだ理想に生きているつもりではあるが、51、いやもうすぐ52という齢を重ねてきた。時折「透徹」した行動に陰りが見えてきたように自省することがある。この『理想に生きることをやめた時青春は終わる。』という贈る言葉を書くことが恥ずかしくなる時がいつしかくるのかもしれないと、帰路の電車の中でふと思った。
 教師が成長することが、生徒を成長させると私は思う。教師は最大の教育環境だと私は思う。定年を迎えるその日まで、この言葉を書くにふさわしい教師であらねばと自分をふるいたたせた今日の卒業式であった。

2 件のコメント:

  1. よかったらkatabira no tsujiさんがなぜ教師という職業を志したのかの話も聞いてみたいです。私は大学に入るまで恩師に出会うことがありませんでしたので、あまり教師に良いイメージがないのです。
    それこそ私の周りの教師は理想を諦めた人ばかりだったので・・

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  2.  回答いたします。びっくりするほど単純な回答です。かなり古い「これが青春だ!」シリーズいう夏木陽介や竜雷太が高校教師役のTVを見てあこがれたまでです。ラグビーやサッカーを教える田舎の高校教師。だから、経験もないのに新任の時はサッカー部の顧問で、生徒のシュート練習を受けていました。(笑)今思えば恥ずかしいですが、人生、そんなものかもしれません。ちなみに私は武田鉄也のなんとかいう学園物は大嫌いです。主題歌も、内容も傲慢だからです。生徒を親以上に愛せるなどと教師は言ってはなりません。以来TVの学園ものは見ないことにしています。

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