2011年3月31日木曜日

続・其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ

昨年春撮影の正門ヨコの山桜
いよいよ本校教員としての私の実存は、あと3時間となった。なんとなくホームページを見てみたら、情報科のI先生のたゆまぬ努力によって、私の作品でもある国際交流通信がしっかりと記録されていた。
なかなか嬉しいものだ。なんとなく最後のメッセージを残しておきたくなった。

本校教職員の皆様へ。お世話になりました。いろいろなことがありましたが、これからも本校のことをよろしくお願いいたします。キノコ先生の言葉ではありませんが、本校生は手のいれがいのある生徒たちです。ほおっておくと学力は伸びません。激励して、激励して、手を入れてやることで大きく伸びる子たちです。こんなありがたい生徒達に接することが出来る喜びを強く感じて、これからも頑張って下さい。本校のことをを、くれぐれもよろしくお願いします。

本校現役生へ。(私のブログを読むな!と言ってありますが…)自分の進路を、自分で見つけて努力するのが、本校の伝統です。「人間は自由の刑に処せられている」とはサルトルの言葉ですが、自分の道は誰も引いてはくれません。ましてこのようなグローバリゼーションの最中では、他者にも自分にも負けてはいけません。でないと夢はつかめない。あきらめの悪い先輩が受験に勝利してきました。α波(自分に自信を持ち、前向きな気持ち)で最後まで、頑張って欲しいと思います。

本校OB/OGへ。みんなには、「地球市民」として生きることをお願いしてきました。決して難しいことではないと思います。南アのプレトリアで会った慶応の女子大生の話を何度か、したことがあります。彼女は、卒論のために、ガーナ、ケニア、南アとHIVエイズの政府資料を集めに来ていました。大学がその費用を出してくれたそうです。彼女は、HIVエイズの撲滅をライフワークにしたいと言っていました。ちょうど私がジンバブエに生徒の質問を持って旅立つ日でした。彼女の「地球市民」としての生き様に感動したのでした。私は7年前、生徒指導部長の時2学期の始業式で、全校生徒に始めて話し、6年前の自分の学年のイングリッシュセミナーでのスピーチでサバイバルイングリッシュで話しました。今春の国語科3年の卒業生には、最後の授業で話しました。この慶応の女子大生のような子を育てたい。そう思ってきました。OB/OGは、その思いを十分受け止めてくれたと思っています。国際協力士となる卒業生もいる、JICAや国際機関を目指す卒業生もいる、ESDの後継者を目指す卒業生もいる、民間企業に行っても地球市民という志をもってくれる卒業生もいる。「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」を多く育成してきました。もし自分の理想でない場所にあったとしても「地球市民としての志」があれば、「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」です。私は、最後の最後まで「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」を激励していきたいと思います。いつでも連絡をしてきて下さい。

大阪市立南高等学校に幸あれ。

ケニアの寒村から「豆」支援

ケニアの田舎町で撮影
先ほど、TVでケニアの寒村から、日本の震災のニュースをラジオで聞いた人々が何を支援できるかと相談の上、村で取れた「豆」を送ることを決めたというニュースを紹介していた。今のところ、読売新聞の本日付の国際面にあるらしいが、WEBニュースでは配信されていない。以下のツィッターの情報くらいである。
3/31読売新聞国際面「世界からエール/『恩返し』草の根支援」。干ばつが続くケニアの村で保健指導に携わるJICA専門家が、村で採れた豆を日本の被災者にと声を掛けられた話などを紹介。「遠く離れたアフリカからの励ましが被災地に届くことを願う」と南アの中西特派員。

泣けるではないか。この村は干ばつで栄養失調の子供も多いという。アフリカから学ぶことが多いと私は思っているし、そう主張してきた。彼らは、「地球市民」というコトバさえ知らないと思う。だが、そんなコトバを超越する「ココロ」があるのである。JICAの専門家は、きっとそのコトバに号泣したと私は思う。凄いではないか。彼らの純粋な「ココロ」に私は打ちのめされるのである。

被災地の卒業式に思う

東日本大震災の報道の中でも、卒業式の報道に私はどうしても涙する。卒業式というのは、教師にとっても、晴れ舞台であるとともに、それまでの苦労が払拭される時でもある。被災された児童・生徒と教師、そして保護者の方々が、様々な場所で行われている映像を見ると自然と涙してしまう。

阪神大震災の時、私はあるイベントで、神戸の避難所となった小学校の教頭先生が書かれた手記をもとに、脚本・演出をしたことがある。ストーリー・コーラスという形式だった。ストーリー・コーラスとは、舞台にクラス写真を取るときに使う階段状のセットを置き、50人程度のコーラス隊を置いたまま、前で演劇するパフォーマンスである。コーラス隊の歌が演出上重要な位置を占めるので、オペレッタの一種だが、演技者は歌わない。当然場面転換や背景はなく、小道具も最少しか使わない。
阪神大震災の時、すぐに救援にも行ったが、このイベントのため取材ににも行った。手記を書かれたご本人にお会いするために行ったのである。まだ周囲には青いビニールがあちこちにあって、避難者の方もまだまだおられた。現場を実感した上で、脚本を書いたのである。

24時間体制で奮闘する教員達。涙にくれる被災者。そして痛みを共有する子供達。重い内容だった。脚本で、私は、最後にこの避難所となった小学校の卒業式を置いた。この学校の卒業式では、卒業生一人ひとりが、卒業のコトバを言っていく。そのタイトルが「いっせいに芽を吹き出した雑草のように」という詩で、これはこのストーリー・コーラスのタイトルにもした。後方で、本来は歌を歌うだけのコーラス隊に、その「卒業のコトバ」を言ってもらった。実は、演技者もコーラス隊も全員が教員である。彼らもそれぞれの思い出がある。鬼気迫る演技となった。

いっせいに芽を吹き出した雑草のように。

そう、いっせいに芽を吹きだした雑草のように、たくましく生きていこう。神戸の子供達の訴えは、観客の心を打った。そしてなにより演技者/コーラス隊の心も打った。あの時の思いを今回の東日本大震災の卒業式に見るのである。

2011年3月30日水曜日

キノコ先生の帰郷

キノコ先生との契りのネクタイピン
今日新聞発表があったので、ブログに書いても良いと思うが、先日(3月23日付ブログ)紹介したキノコ先生が、本校教頭として還ってくる。他校で4年間、コツコツと頑張ってきた。念願の本校復帰である。私は、本校に対して熱い想いをもっているが、この人だけにはかなわないと思うのがキノコ先生である。と、いうより、彼が本校にいない間、彼の衣鉢を継いだと思っている。キノコ先生は、昔中学の教師をしていた。高校に移って本校の生徒に接したとき、「こんなすばらしい生徒に接することが出来る」と実感したという。本校に転勤してきた私と同じだ。だからこそ共有できる魂がある。生活指導部長をしてようと、学年主任をしていようと、キノコ先生は週1日は広報活動(中学校訪問など)を続けていた。まだ本校の広報活動体制が整う以前の話である。だから私は、彼に呼応したし、彼のいない間その役目を果たそうと思ったのである。
私の学年の卒業式の日、彼が来てくれた。私が生徒を連れて退場する寸前、ハイタッチしてくれたことを思い出す。深いところで繋がっているからこそのハイタッチだった。何も言わなくとも判る。
キノコ先生が、私に伝えたことの1つに、ネクタイピンがある。私は9年間、毎日本校のネクタイピンをし続けた。本校を背負い、本校生を教えれる喜びを具現化したものだ。彼との契りなのである。
そのキノコ先生が、還ってくる。「帰郷」といった方がいいかもしれない。本校にとって喜ばしいことだ。私は、そのネクタイピンをはずす。だが、悔いはない。それでいいのではないか。

追伸1:昨日、ブログを書いていると、TVでキリマンジャロ登山の映像が流れていた。聞き慣れた歌が流れてきた。キノコの種でやったJAMBO BWANAである。タンザニアのポーターたちが歌うのだが、歌詞のうち「ケニア」が入るところが「キリマンジャロ」になっていた。(笑)
追伸2:今朝、TVの「人間国宝」の番組で、「帷子ノ辻」をやっていた。(笑)
追伸3:高校生のためのアフリカ開発経済学テキストV4.01を、常設ページにアップしました。古いV3.02は削除しました。全てJPEG形式です。拡大してご覧下さい。

2011年3月29日火曜日

JICA高校生セミナーの9年間

JICAのセミナーのことを、国際理解教育に関わる方々にもシェアするつもりで今朝書いたばかりだが、9年間にわたる変遷についても、すこし書いておきたいと思った。おそらく最も古株の参加教員である私だからこそ書けることもあるだろうと思ったのだ。私にとって、このJICA大阪の高校生国際協力セミナーは大きな存在である。

本校に赴任した年の夏に始めて参加した。たまたまY先生という英語の先生(今は委員会におられる)が、本校にきた参加書類を持ってきてくれたのだ。参加は先着順とある。ならばと、地理Bの国語科の3年生二人と、テニス部の英語科2年生(そのうちの1人がLily君である。)に声をかけたのだった。当時は、千里中央からバスに乗ってJICA大阪国際センターに向かった。その後大阪モノレールの阪大病院前から歩いた。この4年ほどは、モノレールが延びて豊川から歩くようになった。この頃は、最初に研修員さんを交えて学校紹介があり、Lily君の確かな英語力が発揮された。また研修員さんとの交流も初日、二日目と2回あった。これは日帰りの読売新聞だったかの高校生セミナーと合体していたからだと今思えば推測される。兵庫の聖心女子の生徒が私のワークショップグループにいて、凄い子だった。あの頃はJICA兵庫だまだなく、ホント近畿一円から来ていた。(今は兵庫県からはJICA大阪には来ない。)体育館で難民のワークショップをやったと記憶している。当時の川口外相が突然セミナーを視察されたのも思い出深い。本校の席にも来ていただき、英語科と国語科の紹介をさせていただいたことを覚えている。そして今の研究発表に当たる第2目の夕方からは、本気のディベートだった。肯定派と否定派にワークショップグループが別れ、真剣に立論や反駁の用意をしたものだ。ほとんど全員徹夜で準備していたようだ。ディベートは、莫大な資料準備と文章力、コミュニケーション能力が必要である。凄い刺激になった。工業高校から本校に来て、優秀な生徒に恵まれ、このような場にいれることが心の底からありがたかった。
以来、春のセミナー、夏のセミナーと年2回のセミナーを見越して、公募して生徒を集めるようになった。抽選で1年生が選ばれることもあった。かなり先の参加者が決まってしまったりもした。私に参加書類を見せてくれたY先生にも行ってもらったこともある。社会科のT先生、国語科のT先生にも3日間参加いただいたこともある。英語科のR先生や国語科のY先生、私の後継者でもあるU先生にも今回の後輩の口の悪いI先生のように、初日だけ参加してもらったこともある。この間、本校が参加していないのは、私がJICAのケニア視察旅行に行った夏と、予定していたM先生が急病で倒れていけなくなった2回だけである。まさに常連校だと言って良いと思う。本校、あるいは本校以上の常連校は、府立三島高校である。三島は、毎回先生をローテーションして参加している。だから三島の先生方とは旧知である。さらに大阪教育大学付属池田もここ数年毎回参加である。
様々な高校が今まで集まってきた。1回だけの学校もあれば、何度か参加して来なくなった学校もある。一時、レベル(具体的に言えば、ディベートの能力)が低下して、ディベートが出来なくなったとJICAは判断したようで、当時中心的存在だったMさんが、パネルディベートというカタチで行ったこともある。それが、やがて研究発表形式になり、春夏2回開催が、春だけになった。これは大阪でインターハイがあった年からである。教員の予定がつかなくなったのだった。たしかに、入試の形態も大きく変化したし、夏休みも短くなった。取り巻く環境が窮屈になった高校の教員としてはよほどの熱意がないと、年2回、2泊3日の日程は苦しい。
レストランにて メキシコの研修員と
とはいえ、本校は参加し続けた。国語科・英語科のバランスを取った年が続いたが、英語科だけの年もあったし、国語科だけの年もあった。公募をやめ、一本釣りの生徒集めが主流になった。たくさん参加した私の担任した学年もあれば、全く参加しなかった学年もある。春休みの2年生の英語セミナーが鬼門になった年もあった。
セミナーの内容も、バラバラでワークショップの陳列のような年もあったし、近年のようにテーマがあって、それを受けてのワークショップを厳選した年もある。私は、このセミナーでどん欲に学んだと思う。アクティビティをどんどん増やした。さらに機会を求めて、国際理解教育の様々なセミナーにも参加して学ぶようになった。アクティビティに罠があることも、このJICAのセミナーで学んだ。JICAのセミナーは私の「学校」だったのだ。

本校からこれまで多くの生徒が参加した。満足度は100%である。毎回自信をもって参加を勧める。研修員さんとの貴重な交流体験、他校の生徒との交流、セミナーで学ぶ参加型学習、国際色豊かなレストランでの食事…何もかもが本校生にとって貴重な体験となった。

私のお気に入りの場所 喫煙室
大阪国際センターの2階に、喫煙ルームがある。休憩時間、私は常にそこに足を運んだ。様々な国の研修員さんがやってきて、会話を楽しんだ一番の思い出の場所である。今年は、震災のこともあり、節電で夜は真っ暗。今春は、ここで誰とも会わなかったのがさびしい。

チュニジアの消防士さんは革命の最中、大丈夫だろうか。
パラグアイの美人消防士さんも元気だろうか。もうママになっていると思う。アスンシオンの大火の時命がけで頑張ったのだろうと思う。
アルメニアの博物館の大学教授もお元気だろうか。不穏な情勢の中で博物館の整備に頑張っておられると思う。

サントメ・プリンシペから来ていたIT技術者氏は今どうしているのだろう。
イラクのサマワから来ていた方々は、あれからどうなったのだろう。
ジンバブエから来ていた技術者は今は南アに逃れたのだろうか。

JICAセミナーは、多くの研修員さんとの出会いをつくってくれた。私の「地球市民の記憶」の震源地でもあった。

2011 JICA スプリングセミナー ②

G12で魚眼風に撮影
引き続きJICAのセミナー報告です。夕食を取った後、いよいよ研修員さんとの交流です。ここ2年間メキシコのIT関係の方々だったのですが、なんと今年もそうでした。おそらく何年か続けてのプロジェクトなのだと思います。メキシコの方はやたら明るくてフレンドリーです。今回もそうでした。本校の生徒達は、無茶苦茶盛り上がっていました。本校の英語科生は、日頃のコミュニケーション研鑽をしているので全く物怖じしません。まして今回は後輩の口の悪いI先生の選りすぐりのメンバーですから凄い。
研修員さんにお茶をふるまう
自己紹介で、後輩の口の悪いI先生は、スペイン語で挨拶。おおっと声があがりました。メキシコの研修員さんも大喜び。きっと彼はこそっと準備していたに違いありません。(そういう奴です。笑)私は、少しムカついたので(笑)フランス語で、ジュマペーレ…と自己紹介して笑いを取りました。後輩の口の悪いI先生とは、こういうB型同志の関係です。今回は、茶道部の生徒がいて、お湯をもらって茶筅でお茶をたてました。見る見るうちにクリーミーに泡立っていく様子に、メキシコ人もビックリで、熱心に覗きこんでいました。今回もなかなか楽しかったのでした。

中日のセミナーの内容を報告します。中日は、H先生による日本の貧困問題でした。昨年に引き続きです。今回も格差を感じる椅子取りゲームから始まりました。生徒をAチーム、Bチームに分け、ゲームの前に、両チームを集め、ルールを流します。Aチームは有利で、Bチームは不利な立場に置かれます。ゲーム開始後、どんどん椅子が減らされます。ゲーム後、この椅子取りゲームから、「格差」の構造にせまります。椅子は何を表しているのか。Aという紙が置かれた(Aチームしか座れない)椅子は何を表しているのか。無くなった(取り除かれた)椅子はどこへいったのか。グループ討議です。
「格差」を学ぶ椅子取りゲーム
昼食後は、「ビッグ・イシュー」という雑誌について、インタビュー形式のワークショップでした。「ビッグイシュー」は、イギリスの雑誌で、世界で発行されています。ホームレスの人々が駅などで直接販売しているものです。その日本版は大阪を中心に発行されています。この雑誌のライターさん、販売員さん2名に、グループから2名づつ3グループでインタビューに行きます。その前に、質問事項を討議します。実際のホームレスの人と話をするのは始めてのことだと思います。なぜホームレスとなったかといった突っ込んだ質問も当然あったようで、後でグループ内シェアリングを行いました。
私は300円の定価の中から160円が販売員の収入となるというシステムに驚きました。これは、イギリスの本社から送られてくる原稿を翻訳し、日本版の記事も入れて再構成していること。表紙のハリウッドスターらが撮影料を要求していないこと、当然ロイヤリティがないことなどで原価が抑えられていることと、販売員の支援が主目的というマーケティングの理論を越えたところに位置しているからのようです。ライターの方が、この「ビッグイシューの目標は廃刊です。」と言われました。多くの方がこの販売員から卒業して、自立の道を歩んでおられます。

さて、その後は,最終日の午前までグループごとの発表の時間となります。今回は、S先生の方から『キャンペーンをつくろう』という研究発表のコンセプトが示されました。今までにはなかったコンセプトです。S先生がうまく説明されたのですが、生徒の方はもうひとつ良く理解できなかったようで、私が担当したグループもなかなか決まりませんでした。S先生とまたまた話をしていました。「いくら優秀な生徒達でも1年生が多く、学校で実際組織を動かした経験のない生徒には難しいのでは…。」「そうですねえ。普通3時間くらい、キャンペーンのやり方について講義した上でやるべきですよねえ。」と言うことだった。私は、このキャンペーンという研究発表、非常に面白いと思います。訴えたい事がよほどしっかりしたものでないといけないし、そのための方法論もそこから生まれます。ポスターやロゴ、パフォーマンスなど拡がりも面白いと思うのです。
実際の所、各グループが全てを消化しきれたとは言えませんでしたが、いつもながら素晴らしい発表でした。あの短時間でよくやったなあと思います。本校生は、スローフード推進キャンペーンや識字率向上のためのみんながつくる絵本キャンペーン、宗教の違いを認識しようキャンペーン、途上国の教育支援キャンペーンなどで主導的な役割を果たしてくれたようでした。めでたしめでたしです。

ところで、今回もメキシコ以外の研修員さんとの出会いがありました。これもJICAセミナーの魅力の一つです。レストランでエリトリアの研修員さんと出会いました。生徒が「何処ですか?」と聞くので、紅海の近く、エチオピアの北と教えました。彼は大喜びで握手を求めてきました。きっと自分の国をほとんどの日本人が知らなかったに違いありません。「内戦が終わって良かったですね。」と私が言うと、「いやいやあれは独立戦争です。」と彼は言いました。エリトリアから見れば、そりゃそうです。私は、「ある本で、エリトリアの人々は親切でやさいいと書いてあったけれど本当ですね。」と言うと、また握手を求めてきました。阪大にかよう院生だそうです。またフィジーの数学の先生にも会いました。ものすごく巻き舌の英語で「世界で最も朝が早い国ですね、」と言うと大喜びしてくれました。こういう地理的な知識は、異文化理解にかかせないものだと思います。さて、本校の生徒達は、バンバン研修員さんに声をかけて、「地球市民の記憶」を増やしてくれました。
また今回のセミナーでは、小さな子供が大阪国際センターにうろうろしていました。聞くと、東北で院生として留学していたエジプトの家族で、こちらに避難してきたらしいのです。震災の影響は、セミナーにも敢然とあったのでした。

2011年3月28日月曜日

2011 JICA スプリングセミナー ①

さきほど、JICA大阪j国際センターで行われた高校生スプリングセミナーから学校経由で帰宅しました。転勤が決まっている私にとっては、本校生を連れて行く最後のセミナーとなるわけで、ちょっと感傷的になりました。今回は、後輩の口の悪いI先生が教えている「異文化理解」という授業で熱心に取り組んでいる生徒を挙げてもらい、その7人からくじ引きで選ばれたメンバーです。最も若手ながら英語科長でもあるI先生も、私にとって最後だということで初日のアクティビティと研修員さんとの交流に参加してくれました。
今年のセミナーの最大の特徴は、極めて優秀な学校が多く集まってきたということでした。これまで9年間参加してきた私の記憶でも、こんなことはなかったと思います。冊子の記載順に挙げてみます。大阪教育大学付属高校池田校舎、大阪教育大学付属高校天王寺校舎、本校、大阪星光学院高校、府立大手前j高校、府立春日丘高校、府立岸和田高校、府立佐野高校、府立泉北高校、府立三島高校、京都教育大学付属高校、梅花高校、明浄学院高校…。セミナーの常連校も多く、旧知の先生方、特に昨夏本校の8校合同仮想世界ゲームに来ていただいた先生方とも再会しました。

今回のテーマは「格差と向かい合う三日間」でした。初日のワークショップは、関西No1のファシリテーターS先生によるものでした。最初にアイスブレーキング。ハート型の色紙に自分にとって大切なものを書いていきます。私は、本校の名前を書いて…極めて感傷的になりました。そうそう、今回は後輩の口の悪いI先生に来てもらっているので、ワークショップの参加を遠慮しました。多分に、大切なものとして本校の名前を語ることが辛かったのだと思います。大切なものをもとに自己紹介が始まりました。そしてアトランダムにグループ分け。今回は生徒と教員は別にグループになりました。各机に、以下の項目のカードが配られます。
差別のない社会/きれいな水・空気/心地よい住居/レジャー施設/食糧/情報通信機器/友人/医療/法律/宗教・信仰/プライバシー/社会保障/冷暖房設備/政治への参加/社会的地位/言論・思想の自由/お金/自然環境/衣服/家族/教育/電気/書籍類/商店/石油/交通機関/趣味/やりがいのある仕事…以上28項目。これに自分の大切なものをもとに、グループごとに、4つの大切なものを語り合い、白紙のカードに書いて計32項目にします。

大切なことは、多数決で決めないこと。一人でも反対者がいれば決めないこと。納得の上の合議を貫くことでした。さて、その「大切なもの」カードを机に並べた上で、S先生は、非常事態になったことを告げます。具体的な事例は述べず、この中(32枚)から、10枚のカードを排除することを指示するのです。優秀な高校生たちは、延々と議論しています。教員チームも喧々諤々。多数決で決めれないのですから大変です。

何を除いたか、班ごとにに説明します。なかなかおもしろい。さらに、絶対これだけはという6つを選んでいきます。32項目からたった6項目。第三者として見ていた私でしたが、なかなか難しい。教員チームでは、後輩の口の悪いI先生が、懸命にしきっていたのが可笑しかったです。知らぬうちに熱くなっていました。(笑)これに、いよいよMDGs(ミレニアム開発目標)が結合します。魚の頭としっぽの絵を描き、骨を書いて、絶対に大切なものを置きます。その肉付け(どうやって実現するかという政策)を肉として書き込んでいくワークショップになりました。アクティビティとして、非常に面白い展開だと私は思いました。私にとってはあまるアマルティア=センの潜在能力を生かせないことが貧困であるという大テーゼと、それを具現化したジェフリー=サックスの理論からMDGsを見ますが、大切なものというアクティビティからこれに肉薄しようというのです。いわば「私のMDGs」と言えるものでした。
後で貼り出された「私のMDGs」から
悲しいかな、優秀な生徒だったがゆえに、議論がまとまらない。時間ギレで終わってしまいました。S先生としては、これと実際のMDGsを対比しながらフィニッシュに持っていこうとされたのですが…。後でS先生と話しました。「つい、たくさんの事をやってしまうので…」とのこと。このワークショップ、S先生でも難しいのでした。つづく。

2011年3月25日金曜日

新潮新書のアフリカ本を読む

1日中片付けをしていた。足がパンパンである。(笑)5時過ぎにようやくメドがたった。4月5日に弟分のU先生がH高校まで運んでくれる手はずになっている。ありがたい。私の愛車ポロでは、何度往復しなければならないかわからない。
さて、今日は久しぶりにアフリカの本の話を書きたい。先日小川さやか氏の本が高すぎて買えなかったことを書いた。その代わりと言っては変だが、NHKスペシャル取材班の『アフリカ 資本主義最後のフロンティア』(新潮新書)を紀伊国屋書店で買ったのだった。以前、このブログで書いてきたたNHKスペシャル「アフリカン・ドリーム」3回分(4月6日・5月2日・6月6日のブログ参照)での取材を中心に、それ以外の話も載っていて、非常に面白かった。TVを見ていない方にもお勧めである。(2月20日付発行)

第1章 携帯電話を駆使するマサイ族ーケニア・ウガンダ
第2章 「悲劇の国」が「奇跡の国」にールワンダ
第3章 中国企業アフリカ進出最前線ーエチオピア・ザンビア
第4章 地下資源はアフリカを幸福にするのかータンザニア・ボツワナ
第5章 経済が破綻した国の日常ージンバブエ
第6章 「格差」を経済成長のドライブにする国ー南アフリカ

それぞれ面白いのだが、第1章は、TVではあまりふれられていない。ITマサイの話や、ビクトリア湖のナイルパーチの話が面白い。第2章は、TVで放送された内容とかなりだぶっているのだが、カガメ大統領の権力掌握の詳細な過程などTVで紹介されていない話も出てくる。第5章のジンバブエの話もTVで紹介されていなかったハイパーインフレの実情やワニの養殖の話なども興味深い。

さすがに今日は肉体的に疲れた。今日はこれくらいでご勘弁願おうと思う。

2011年3月24日木曜日

べっぴんさん連れてきましたでぇ

新しいデジカメCANON G12で撮影
アメリカに「たった1人の研修旅行」に行っていたI君が帰国して、メールをくれた。ワシントンDCのダレス空港でスーツケースが出てこず焦ったようだ。だが、そこは本校英語科出身、成田に残されたスーツケースを、1日遅れで滞在先のNYのホテルまで持ってこさせたという。旅の始まりから大変だったろうが、いい経験をしたとともに自信をつけたことと思う。STOMPを見たらしい。STOMPは、モップやドラム缶、マッチなど日常にあるありとあらゆる品物を使って行うパーカッション・パフォーマンスである。最後に、日本の地震への義援金を集めていたそうだ。この辺、見事にアメリカ=作戦名「トモダチ」である。イントレピッド航空宇宙博物館にも行ったそうである。これは私のお勧め。空母の横の潜水艦の中にも入ったという。I君、喜べ、研修旅行のシカゴ科学産業博物館では、時間がなかったので男子全員、Uボートの中には入れなかった。追い越したぞ。(笑)メールを読むとかなりタイトな日程だったようだが、おそらく人生の中でも最も濃密な時間だったのではないか。自分に何ができて、何ができないのか、それを知るのが、一人旅の魅力でもある。いろんな人と出会い、世話になるのも一人旅の魅力である。結局、I君もアメリカに「人」を見にいったのである。それが、きっと人生の力になる。

G12の魚眼風で撮影
さて、今日、私の転勤の話を聞いて、私が担任した学年のOG、10人が里帰りしてきてくれた。本当にありがとう。留学中のOGもいるし、就活やバイトでこれなかったOGも多い中で、こんなにたくさんのOGが来てくれて、教師冥利に尽きる。卒業式以来会うOGもいた。本当に嬉しい。
学校の近くにレンガという喫茶店があって、OGが来ると(OBの場合もあるが…)私は茶をシバキに行く(大阪弁のスラングである。:お茶をしに行く)。おそらくこれまでで最大多数を引連れてのことだった。昨日も夕方に栄養士をしているY君というOGが来てくれて、マスターに転勤の挨拶をしたばかりなのだったが、翌日10人も引連れて来て、マスターもびっくりしていたのだった。本当に最後になると思う。だいたい、「べっぴんさん連れてきましたでぇ。」と言って入っていくのだが、もうそういうこともないのかと思うと寂しい。当時のHR日記を見たいと言うので、社会科準備室の前で見せたら、無茶苦茶盛り上がってしまった。遠い遠い過去のような気がする。
花束までもらい、大いに照れくさかったのである。来年は、U先生に来ていただいて、大同窓会をやろうと約束した。みんな、自分の目指す道に向かって頑張れっ。今日は本当にありがとう。
昨年度の卒業生も2人来てくれた。地理B、地理演習、倫理と週8時間、毎日顔を合せていた秘書のようなS君と文化祭の舞台部門で中心として頑張ってくれたH君である。わざわざ来てくれて嬉しかった。ありがとう。S君の出演する4月3日の春の筝曲の演奏会には必ず顔を出すからね。

明日は、残念ながら定員割れを起こした本校の二次入試で、関係者以外校内に入れない。土曜日には、JICA大阪国際センターでの二泊三日のセミナーに、後輩の口の悪いI先生と共に出発する。本校での最後のご奉公である。最後の最後まで、地球市民を創りたい。月曜日の夕方には帰校するが、おそらく、その日が本校最後の日となると思う。

追伸:今日OGにも少し話したのだが、リンクさせていただいている荒熊さんのブログに凄い祝辞が載っている。今、私のブログを見ていただいているすべての方に読んでいただきたいコトバである。特に、本校OB・OGの諸君に告ぐ。是非とも読んで欲しい。http://cacaochemise.blogspot.com/

2011年3月23日水曜日

キノコの種

原発の危機的状況は若干停滞しているようで、関係者の皆さんに感謝申し上げたい。日本にもまだまだサムライがいたことが嬉しい。しかし、誰もが安心感を抱いたときこそが最も危ないと私は思う。

さて、今日は1日中、今まで溜まった様々なモノを整理していた。日本以外ではあまり血液型のことは言わないらしいが、私はB型の中でも過激派である。9年間の様々な書類やテストや教材や家から持ってきた書籍などが、社会科準備室と机上にあふれている。K老師の指導を受けて、まずは個人情報保護上、絶対処理しなければならない書類をシュレッダーすることにした。あまり見ずにどんどんシュレッダーすることにした。でないと進まないということだった。
昔、生徒指導主事だったころの指導ノートや、市立高校生指部会の資料は、当然シュレッダーである。若手の体育のM先生が、シュレッダーしていると、「先生、その冊子何すか?」と聞いてきたので、市立高校生指部会の資料を見せてあげた。7年ほど前の資料である。中心者だったM先生は校長、S先生は教頭になっておられる。「このYって、Y先生すか?」「そうだよ。」と仲の良いY先生の方を見た。O先生は、新赴任校におられる。T先生は、4月から本校に転勤してくる。時の流れを感じる次第である。
担任をしていた頃の様々な生徒の個人情報もたくさんあった。成績、作文、模擬テストの結果、遅刻票等々。懐かしいが、見ている暇はない。授業で提出してもらったものもたくさんあった。ふと、手を休めたのは、本校に赴任した時の国語科3年A組のディベートの提出用紙である。細かい字でビシッと肯定派と否定派の論旨を書きとめてある。審判にあたっていた生徒諸君のものだ。今、某中学校の国語教師のO君らのクラスである。優秀だったよなあと思う。最後のディベートは、「ゆとり教育」についてだった。否定派の最後の反駁の時、何かの小説だったかを、現在小学校で習う漢字だけで記した模造紙を用意していて、「これがゆとり教育の実態です。」とやった。ひらがなだらけだ。凄い。「なんと良い学校にきたのだろう。」私はものすごく感動したことを覚えている。

そんな中で、ときおり写真も出てきたりする。今日の画像は、発見された貴重な写真。5年前の文化祭。生物の先生で今は某高校の教頭になっている熱血のS先生と、同じ3年の担任でバレー部の顧問だったM先生と、1年担任だった私が光の庭でフォークグループを組んだ時の写真だ。この時、S先生の強い希望で吉田拓郎の「落陽」と井上陽水の「東へ西へ」をやった。その間の曲で、私がジャンべ(アフリカンドラム)を叩き、JAMBO BWANAを3年生の地理Bの生徒と歌ったのだった。実は、この前年にピーターオルワ氏が本校に来て、この歌を唄っており、2.3年生はJAMBO BWANAを知っていたのだった。
グループ名は「キノコの種」である。キノコが大好きな生物のS先生と、バレー部のM先生のファーストネームをアレンジしたのだった。私が考えたのだが、かなり気に入っている。(笑)

2011年3月22日火曜日

ウガンダの古着屋 ピーター

ウガンダのピーター氏
今日は私の誕生日でもあり、ピーター・オルワ氏の命日でもある。先日(3月16日)に失敗したKIVA JAPANのマイクロファイナンス融資に再挑戦した。またいろいろと苦しんだけど、Thank youの文字が出て、USのKIVAからメールが来たので成功したのだと思う。ほっとした。先日ご迷惑をかけたボランティアOさんや代表者のYさんからもメールをいただいたし、USのKIVAからも英文のメールをいただいた。恐縮するとともに、その懇切な対応に敬服した次第。いやあ、よかった。ほっとしたのである。
さて、今回の融資したのは、ウガンダの古着屋のピーターさんという人である。以下は、彼の紹介文である。
Peter is a thirty-five-year-old married man with five children living in his own house in Kasese, Uganda. He has been dealing in second-hand clothes for three years starting with a capital of 400,000 shillings and increasing to 3,000,000 shillings. His vision is owning a big boutique. Peter needs the loan to buy second-hand clothes.
なぜ彼に融資する気になったかと言うと、まず名前。(笑)やはり、故ピーター・オルワ氏にこだわりたい。次に、ウガンダ。先日訪問した秋田商業高校が生徒を連れって行ったウガンダに敬意を表したつもりである。最後に、「古着屋」である。これは、少し説明が必要である。先日、妻と所用で梅田に行った際、またまた紀伊国屋書店によった。そこで、”今一番読みたいが高すぎて買えなかった本”を見つけたのである。小川さやかさんという京大アフリカ研出身の研究者の本である。タイトルは『都市を生き抜くための狡知ータンザニアの零細商人マチンガの民族誌』である。何年か前、著者の小川さやか氏の講演を道祖神というアフリカ専門の旅行社のセミナーで聞いたことがある。私を入れてたった4人しか聴衆はいなかったのだが、「古着屋」というインフォーマルセクターの営みが、すこぶる面白かった。ブルキナで同じ都市の文化人類学を研究する荒熊氏が、小川さんの事をよくご存じだったので驚いたことを覚えている。この本は、小川さんの研究の集大成である。欲しい。早く読みたい、と思っている。しかし高価である。5460円。うーん。
と、いうわけで、トリニティな理由で、ウガンダの古着屋、ピーター氏に決定したというわけだ。
さて、今日は午前中準備室にたまりにたまった9年間の資料を莫大にシュレッダーしてから、新赴任校に行ってきた。来年度は普通科文系の必須・世界史Bを5クラス、普通科・体育/武道科の選択・政治経済を2クラス担当することになった。社会科の先生方の雰囲気もよく、旧知の先生方もたくさんいて、さらに新天地に意欲がわいてきた。

2011年3月21日月曜日

秋田出張報告 附録 

秋田大学 鉱業博物館
秋田出張報告を3回続けて記し終えた。ここでは挿入できなかった話を少し書いておきたい。飛行機の到着時間と訪問時間の午後2時までに少し時間があったので、秋田大学の鉱業博物館に行ってきた。秋田市は被災せずにすんだものの、市内中央部の観光施設は、節電や自粛という理由だろうと思うが、すべて休館だとWEBで知っていた。しかし、この博物館は秋田大学の付属施設だったので開いていた。
黒鉱
中学生の頃、鉱業について調べたことがあって、秋田に「黒鉱」と呼ばれるさまざまな金属を含んだ鉱物があることを知っていた。その黒鉱に対面できてすこぶる満足した。この博物館、時間があれば1日いてもいいほど面白い。おそらく日本有数の鉱産物を集めている場所だ。路線バスが土日のダイヤになっていて、時間が制約されたのが残念である。駆け足で回ったが、それでも満足できた。もし、秋田に行かれるののならば、是非。

秋田のホテルは、WEB予約した『ドーミイン秋田』というビジネスホテルだった。最上階に温泉のある大浴場がある。スリッパを置くところに番号が振られていたり、メガネの洗浄機があったり、ルームキーを入れる電子金庫があったりと、私が知る限り最高の心遣いである。部屋も広くはないが清潔であった。ホテルに戻ったら、レストランで無料のラーメンを食することもできた。もちろんフロントもレストランのおばちゃんも良き秋田の方々で、今までで最高のビジネスホテルだった。きりたんぽ鍋付きのバイキング朝食付きで6000円は安い。星5つである。

ところで、やはり原発のことが気になる。舩田クラーセン・さやか先生は、今アメリカにおられるのだが、矢継ぎ早にブログを更新されている。決して気をゆるめてはならないと私は考えている。

関係各位の頑張りに期待したい。政府に言いたいことは多い。谷垣氏に入閣を要請するぐらいなら、危機管理の第一人者、佐々敦行氏を登用するほうがはるかに意味がある。私は佐々氏の本をだいぶ読んでいる。代表的な保守的人物だが、やはり、たぐいまれなサムライであることに違いない。今からでも遅くない。いつまでも子供みたいに政府主導などというメンツにこだわらず、官僚を使いこなせる人物を立てるべきだ。

ところで、TVでは徐々に、大震災以外の番組もやっている。LIly君のブログにも書かれているが、被災者の方、私たち被災していないがずっと心配している者にとっても、こういう措置は必要なのかもしれない。民放では企業のCMの代わりにさまざまなメッセージCMを流している。同じ内容なのでちょっと飽きてきたが、挨拶励行の意義を訴えるアニメのCMが実は役に立った。
秋田からの帰路、学研都市線で、スラブ系の顔立ちの外人さんが私の隣に座った。それまで路線図を何度も見ていたし、スーツケースを持っていたので、着いたところなのだと思い、声をかけた。「どこまで行くのか?」彼は「マツイヤマテ」とぶっきらぼうに答えた。着いたのではなく、帰国するのだった。松井山手から関空行のバスに乗るらしい。そうかと聞くと、頷いた。ロシア人だった。私が乗り換える時、「グッドラック、ダスビダーニア(ロシア語のさようなら)。」と言うと、片言のロシア語が嬉しかったのだろう。「スパシーポ(ありがとう)」と言って笑った。こういうとロシア語の挨拶を知っていたりしてカッコイイが、すべて”ゴルゴ13”でよく出てくる単語なのであった。(笑)

秋田出張報告 その3

高校生のための国際協力入門
秋田商業高校が、高校生のアフリカ・スタディツアーを実際に行えた理由は、前回のブログで記したように、なにより3人の先生方の尽力(パトスとロゴス両方である。)によるところが大きい。さらに、このプログラムを認めた校長先生が偉い。O先生の話を聞くと、秋田県の管理職は、大阪よりはるかに権限が大きいようだ。ある意味羨ましい。O先生には、秋田の国際理解教育を大きく動かすような管理職に、いずれなっていただきたいと思うのである。
また、大阪よりはるかに人口規模の小さな秋田で、JICAはもちろん、国際協力のNGOが頑張っていることに感銘を受けた。私がO先生に連れて行っていただいたNGOのカフェでは、毎週国際協力の啓蒙セミナーが行われているらしい。当日オーナーはネパールに行っておられて会えなかったが、こういう人と人の連携を進めていることが凄い。国際教養大学の学生も関わってくれているとのことだったし、JICAの出前講座で、元JOCVの方々との連携の絆も強いそうである。私も少しずつ、こういう人脈さらにを広げていこうと思う。
ところで、秋田商業高校生は4人がツアーに参加した。私は費用面からと4人限定だと思っていたのだが、参加希望(保護者が了承した)が4人だったかららしい。「もう1人くらいなら行けたんですが…。」とO先生とK先生がおっしゃっていた。40人の国際協力班のうち4人だから、大した比率だと思う。なにより、ウガンダ行きを了承してくださった保護者の方も偉い。当然初めての海外旅行の生徒もいたわけで、3人の先生方の気遣いも大変だったろうと察する。アフリカスタディツアー実現の秘密、それはまず「人」であったわけだ。

「人」の次は「モノ」である。昨日紹介した3冊の本の印税は、今回のスタディツアーの資金の一部に利用されているとのこと。商業高校らしい”たくましさ”だ。アフリカツアーと直接関係はないが、秋田商業の校長室前に、ユネスコスクールの認定状が飾られていた。羨ましい。
秋田商業高校のユネスコスクール認定証
「人」「モノ」とくれば、最後は「金」である。およそ費用は1人あたり30万円ほどかかったと言われていた。この費用のねん出にあたっては、JICA東北と国際交流基金の助成金、ユネスコ班の実践が受賞した「国際教育交流馬場財団・馬場賞」と「拓殖大学の国際協力・国際理解賞」で得た奨学金、これに「高校生のための~入門シリーズ」の本(当時は2冊だった)の印税収入で賄ったという。助成金以外は、ユネスコ班として”プール”してきたわけだ。たしかに「公費」ではない。この辺も商業高校ならではかもしれない。でないと、これだけのプログラムを実行できない。
女子生徒も参加するし、アフリカに行った経験のないK先生の参加がまず決まり、若いO先生が野球部のこともあり、結局実務面を主導していたO先生の参加が決まったとのこと。このお二人の費用も、公費出張ではないそうだ。昨日のブログでは、あまり書かなかったが、秋田美人のK先生は、馬場賞や拓殖大学の受賞に大きく貢献されたようである。やっぱり、「人」なんだよなあ。

アフリカ・スタディツアーを実施可能にしたのは、やはり「人」だったと私は実感して帰阪したのだった。

転任校で、私に何ができるかわからないが、まずは「人」を集めよう。H高校の「坂本竜馬」や「高杉晋作」、「秋田美人」を見つけることから始めよう。秋田でおおいに『勇気』をもらったのだった。秋田の先生方と両手でした握手の温かみを忘れまい。

秋田商業高校の先生方、本当にありがとうございました。改めてお礼申し上げたいと思います。

2011年3月20日日曜日

秋田出張報告 その2

秋田市立秋田商業高校
秋田市立秋田商業高校は今年度、創立90周年を迎えた伝統ある高校である。スポーツも盛んで、硬式野球部は甲子園に何度も出場している。サッカー部やレスリング部なども有名らしい。なんか失礼だが、小林まことの漫画『柔道部物語』の岬商業高校を連想してしまった。学校で合った生徒諸君は、礼儀正しく、非常に好感をもった。事務所で来校を告げたら、まもなくしてO先生が来られた。実は、私はO先生に対し、これだけのことを中心的にやっておられるので、脂ぎった(失礼)野心的な(失礼)熱血の教師像をイメージしていた。ところが、極めて温和な紳士だったので、びっくりしたのである。しかもO先生は英語科の先生だった。これにもコケそうになった。英語の先生がアフリカに関してあれだけの内容ある本を書かれたという事実に驚いた。私は絶対、社会科の先生だと思っていたのだ。(英語の先生方に対し”上jから目線”で見ているのではない。念のため。)よく聞くと、O先生は、社会科の教員を目指していたこともあったとのこと。しかもアメリカ留学時に、アムトラックで一周した経験をもっておられる。また秋田県の高校生のアメリカ研修にも付き添われたり、JICAのガーナ教員研修では団長もされていたという。
さらにK先生も、挨拶に来ていただいた。K先生は英語の先生だと予想していた。これはそのとうりだったのだが、あんなにスゴイ秋田美人だとは思わなかった。転勤が決まって忙しい時に申し訳ない思いである。きっと、生徒をうまく乗せていく先生だと思う。少し話しただけでわかった。(後でO先生も「そのとうりです。生徒を乗せるのがうまいです。」と言われていた。)

国際協力班の学びの場・語学教室
この時の懇談と、その後のNGOの経営するカフェでの懇談で、さまざまなことが判った。秋田商業の「総合学習の時間」(週1時間)は、秋田商業高校を1つの商社としてAKISHOPというイベントを基軸に、さまざまなビジネスを企画・実践するために使われているのだった。「ビジネス実践・ユネスコスクール班」というのは、この時間に語学教室(後で実際に見せてもらった。)に集まり、国際協力課として、AKISHOPで、展示パネルで世界の貧困や飢餓について発表したり、フェアトレード商品を販売したり、山田耕平氏の「ディマクコンダ」のCDを販売したり(「ディマクコンダ」については2010年8月22日付ブログ参照)しているのである。私が買った『高校生のためのアフリカ理解入門』という本も、この「ビジネス実践」という商社・秋田商業高校がつくった「商品」なのであった。なるほど。私は、てっきりO先生が自分たちの実践を世に知らしめるため発行したのだと思っていた。この本、あくまで商品である。だから、もう3冊も発行されているわけだ。(高校生のための国際協力入門、高校生のための国際連合入門、そして高校生のためのアフリカ理解入門)

夜、これらの本に登場するユネスコスクール班の3人の先生方のうち、もう一人の若いO先生にお会いした。O先生は、「彼こそがエンジンなのです。」という謎のセリフを言われていたのだった。お会いして、それはすぐ判った。凄い青年教師だったのである。ちょっとTOKIOの城島に似ている。(笑)しかも科目は国語だった。真摯な目に私は魅せられた。一本通っている。学生時代にマラウイに行ったとこのことで、アフリカの体験談の交換で盛り上がった。さらに教育論になり、哲学論になった。ふと、私が聞いた。明治維新の人物で誰が好きか?と。若いO先生は、「吉田松陰と言いたいですが、やっぱり坂本竜馬ですねえ。」「O先生は?」「私は高杉(晋作)です。」なるほど。「先生は?」私は「勝海舟ですね。」と答えた。若いO先生は大きく頷いた。

秋田商業硬式野球部の栄冠
若いO先生は、「竜馬」というだけの漢(おとこ)であると私は思った。全くの白紙の状態から、この国際協力班を企画し、どんどん連携の輪をJICAやNGOや他の学校に広げ、エネルギッシュに進めている。今度はネパールに生徒を送る計画を熱心に語ってくれた。また、山田耕平氏のCDの話では、400枚のCDを買うから秋田に来てくれと交渉したという。凄い。「売れなかったらどうするつもりだったのか?」と聞くと、「その時はその時。自前ですよ。」と笑った。まさに竜馬である。しかも、彼は秋田商業高校硬式野球部の監督だったのである。なぜ昼間に学校で会えなかったか謎が解けだが、ちょっと待ってくれ、毎年甲子園に行こうかという強豪校の監督である。本来なら、それだけで十分すぎるほど大変ではないか。国語でのすばらしい授業実践も聞いた。熱心に指導しているのがわかる。そのうえにこんな凄いことをやっているのか。八面六臂の私心なき行動力。竜馬である。「いやあ、実務面はO先生に頼りっぱなしで…」との答え。…なるほど。

O先生が「彼こそがエンジンなのです。」と言われた意味がわかった。O先生は、実務面・会計面などをほとんど引き受けて黙々とやっておられていたのだった。だから、実務面の責任者としてこの国際協力班の中心者に位置しておられるのだった。しかし、O先生は、実はただの実務に秀でただけの方ではない。「高杉晋作」というだけの漢(おとこ)だった。例の「高校生のための…」シリーズの三冊の本を出版し、AKISHOPの商品とするにあたって、出版社と交渉し、詳しい数字は書けないが、かなりの額の自己出費を覚悟でGOサインを出した方なのだ。それを私に飄々と語っていただいた時、O先生の凄味を感じた。勝負の時に果敢に打って出る人なのだった。高杉である。

ならば、私は「勝海舟」にふさわしいのであろうか。竜馬と高杉の両先生は、私のアフリカ持論に何度もうなずいていただいた。私の『高校生のためのアフリカ開発経済学テキストV4.01』は、それなりの証となるのだろうか。両先生に比べると役者不足のような気がするが…。つづく。

秋田商業高校のHP http://www.edu.city.akita.akita.jp/~akisho/

2011年3月19日土曜日

秋田出張報告 その1

秋田空港にて CRJ
先ほど、秋田より帰阪しました。今日は、概要だけ記しておこうと思います。この出張のきっかけは、秋田市立秋田商業高校という学校が、アフリカスタディツアーを行い、高校生を4人ウガンダへ送ったという本を私が見つけたことが始まりです。(1月29日付ブログ参照)夢想を現実に変えたパワーの源を、同じ国際理解教育、ESDを実践する者として、どうしても知りたかったのです。秋田商業高校も私の受け入れを決めていただき、こちらの出張の事務手続きも終え、転勤の可能性があることもよくわかっていた上で、さあ!という時、大震災が起こったのです。秋田県は、東北の中で唯一被災らしい被災をせず、秋田商業高校も問題ないとのことでしたので、行ってきました。

昨日の早朝自宅を出て、伊丹空港からJALの小さなCRJというまるで、プライベートジェットのような機材でした。リムジンバスで秋田市内へと入り、路線バスで秋田大学の鉱業博物館を見学にいきました。また路線バスで戻り、昼食を取るつもりでしたが、レストランも閉店していたり、Mrドーナツも休みだったり、最終的に、コンビニも覗きましたが、サンドイッチやおにぎり類はまったく棚になく、コーヒーで済ます羽目になりました。そしてまた路線バスで、秋田商業高校へ。O先生、K先生と懇談した後、国際理解教育の中心となる教室を見学、その後O先生の自家用車で移動し、国際協力のNGOをやっておられるカフェでさらに懇談、一度ホテルに送っていただき、再度路線バスでO先生と、若いO先生(イニシャルが同じなのでややこしくなりますが…)が待っていただいていた国際協力関係者の集う居酒屋へ行きました。4時間余り、至福の時を過ごし、タクシーでホテルへ。翌日、近くのホテルにわざわざ宿泊していただいたO先生が迎えに来ていただき、秋田県立国際教養大学へ。あいにく今日から春休みで閑散としていましたが、図書館を見ることができました。感動的でした。さらに空港まで送っていただき、帰阪したのでした。O先生には、本当に何から何までお世話になりました。
国際教養大学の図書館/是非拡大してみてください

この2日間の国際理解教育に関連する話は、明日以降に整理して書きたいと思います。

秋田について、まず東から、東南の方向に向いて黙祷してきました。雪が降る中、高齢者の方々がバスを我慢強く待っておられます。これが、東北なのだと思いました。身を切るような寒さにじっと耐えてきた凄味を感じます。若い人も、高齢者には当たり前にやさしい。秋田商業高校への路線バスでのことです。女子高校生が、空席の横に立っています。優先座席なのです。それ以外の席が開くと座りました。本当に自然に。最初から高齢者のための席には座らない。大阪では、考えられないことです。私は感激しました。東北の被災者の皆さんの感動的な耐え忍ぶ姿がだぶりました。
秋田駅西口で路線バスを待つ

バスも、停車したらエンジンが止まります。運転もやさしい。秋田では、今ガソリンの販売が規制されていて、すごい数の車がガソリンスタンドを目指して並んでいました。国際教養大学への道で1キロ以上も繋がる車を見ました。O先生は、そんな中で私を送迎していただいたのです。本当に感謝しています。私もできるだけ路線バスで移動しました。ホテルでも節電に最大限気をつけました。今朝、秋田でもぐらっときました。直後に緊急地震速報がTVで流れましたが、幸いその1回だけでした。11階建てのホテルの部屋でのことでしたが、正直かなりビビりました。一瞬、どうしようかと思いました。被災者の皆さんなら、なおさらだと思います。
大震災については、OBのLily君の最新ブログに、私のブログを見ていただいた方には必ず見てほしいと思える画像があります。
http://lily-international-cooperation.blogspot.com/
彼の震災への意見とともに是非見ていただきたいと思います。

追記:一昨日のブログへの秋田のホテルからのコメント、ボロボロで申し訳なく思います。哲平さんの名前を鉄平と書いています。文章もおかしい。申し訳ありません。

2011年3月17日木曜日

其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ

大震災は、あいかわらす危機的状況である。物資不足を訴える被災者の姿に、心が痛む。原発のほうもギリギリの戦いが続いている。関係の方々の奮闘をお願いするしかない。頑張ってください。

また、昨日KivaJapanで融資を断念したことを書いたが、さっそくボランティアのOさんから、メールの返信が来た。夜遅くまで、いろいろリサーチした上で、さまざまなアドバイスを何回もいただいた。結局だめだったけど、KivaJapanの責任者のYさんからもメールをいただいた。申し訳ない思いである。22日に再挑戦したいと思っている。KivaJapanの姿勢、大したものだと思う。ここまでしてもらうと、改めてKivaJapanの信頼性が高まったのであった。お礼を申し上げたい。

さて、今日という日は、このブログのタイトルでもある『留魂録』を記しておかねばならない。『留魂録』とは、吉田松陰の遺書である。特に有名な第八節である。

松陰は、死に際して、人の一生を四季にたとえる。十歳で死んだとしても春夏秋冬がある。十歳を短いというのは、夏の蝉(セミ)を長生の霊椿にしようと願うことである。百歳が長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことであると、人生の長さはどうでもよいことだと言う。松陰は三十歳、すでに四季は備わっている。花を咲かせ、実もつけたはずだ、ただそれが単なる雑穀のような小さな実なのか、成熟した栗の実なのかは、私の知るところではない、と述べる。さて、ここからは、原文と現代文訳を併記したい。
若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ乃チ後来ノ種子未タ絶ヘズ自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ同志其是ヲ考思セヨ
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

今日は、転勤内示の日であった。この3月で私は、本校を去ることになった。9年間の四季で私が花を咲かせ、実を十分つけたと思う。ユネスコスクールという大きな実を作ることはできなかったけれど、私の担任した学年を中心に、数多くの花を咲かせてきた。きっと素晴らしい、さまざまな栗の実をつけるに違いない。ありがたいことに、本当にありがたいことに、私には「其 微衷ヲ憐ミ継紹ノ人」がいる。こんな幸せなことがあろうか。
先日、卒業式の日に、ある卒業生から記念品と手紙をもらった。あまりに嬉しい内容なので、恥ずかしいが、”今日だからこそ”記しておきたい。『…生まれて初めて出会った松陰先生です。塾生として理想のもとに頑張っていきます。短い間でしたが、濃い1年間でした。…』今までもらった生徒諸君からの手紙とともに、私の最大の宝物として大事に大事にしていこうと思う。9年間、本当にありがとう。

転勤先は、体育科や武道科もあるH高校になった。ここで私が何をできるのかわからないが、卒業にあたっていつも私が記す『理想に生きることをやめた時、青春は終わる』を胸に、定年の時、同じような手紙をもらえるよう、新たなESD実践の四季をつくっていきたい。

明日、秋田商業高校へ旅立つ。秋田は、被災していないが、空港に着いたら、ともかくも東南に向いて黙祷するつもりでいる。

2011年3月16日水曜日

「断念」の3.16

3月16日は、私にとって特別な記念日である。今日を期して、Kiva Japanからアフリカの人に融資すると決めて長い間待っていた。大震災のことも非常に気になっているのだが、地球市民としてのスタンスも決して忘れてはならない、と思う。スターターキットも手に入って、私の『コード』で$25分の融資ができるはずだったのだが、どうもうまくいかない。クレジットカードからしか融資できないシステムになっている。英文のKivaのHPで、学校から電子辞書を持って帰ってこなかったからよけい困っている。結局、Kiva Japanのボランティアさんににメールで問い合わせをし、その指示待ちという羽目になってしまった。今日はもう無理のようだ。次は、私の誕生日であり、ピーター・オルワ氏の命日である22日を、融資の日とするつもりでいる。ところが、融資しようと思う人が次々出てきて、次々変わっていく。凄く良いことだが、本当に一期一会である。
一応、私が融資しようと考えていた人を紹介したい。今日の画像は、その人の画像。下記の英文は彼のプロフィールである。

Peter is a 38 year old businessman. He is married and has two children, aged 3 and 7. He sells vehicle spare parts to better his family’s living standard. He also works as a mechanic to get more income. He has been running his business for five years and has employed one person. He was introduced to Faulu Kenya by his friend. Through Faulu Kenya, he has learned how to save his money. He is also able to get loans easily from Faulu Kenya. He hopes to replenish his business stock so as to increase his income, grow the business and employ more people. He has requested 70, 000kes to buy more spare parts.

ケニアのパーツ屋さんで、名前はピーターさんである。やはり、ピーター・オルワ氏への思いを大事にしたい。そう考えたのだった。結局彼には融資できそうにない。本当にゴメンナサイ。

ところで、原発はさらに危機的状態である。自衛隊がヘリでなんとか水をまくプランが浮上したらしい。上空がかなりの放射能濃度らしく作業を断念したようだ。自衛隊員の安全性が確保できないかららしい。高度な政治判断だろうが、もし私が隊員ならどうするかと考えている。またそれを指示する責任ある立場ならどうするかとも考えている。
私は、所詮大震災の大きな影響もない大阪で、ノホホンとブログを書いているにすぎない。形而上のコトバは吐くまい。ウィトゲンシュタインではないが、「語ってはいけない。」と思う。現場で頑張っている方々の英雄的な踏ん張りに期待するしかない。日本を救おうと奮闘している彼らのサポーターとしての熱い思いが彼らの英知と勇気と疲労を克服する力を奮い起こすと私は思う。頑張ってください。

2011年3月15日火曜日

「ラジオ体操の歌」への違和感

画像は、終業式後、本校生徒会が校内で緊急募金をしている様子。生徒が自主的にやりだしたのが嬉しい。空堀商店街でも募金をしたいとの声も上がっているらしい。彼らの純粋な気持ちを大切にしたい。

さて、大震災のニュース、特に原発事故のニュースは、ますます危機的な状況を伝えている。大阪は、ポカポカした天気のもと、危機感のない顔があふれている。しかし妻は、「反原発」なので、朝からずっとTVを見ている。私にメールで刻一刻と状況を伝えてくれる。毎回うーんと唸るのである。だから、どうなるというわけではないのだけれど、ふっと”catastrophe point”という英語が浮かんだ。こんな難しい英語が浮かぶのは、ゴルゴ13シリーズの中で、私が好きな作品のタイトルだからである。日本語に直すと「破局点」である。原発がどうなるか全く予断をゆるさない。あまり考えたくはないが、日本の”catastrophe point”となるかもしれない。

今日、石原都知事が「津波は天罰だ」と言ったらしい。妻からのメールで知った。さきほどWEBニュースで確認した。もっとも、後で陳謝したらしいが…。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110314-00000186-jij-pol
まあ、石原らしい誤解を呼ぶ発言だが、私は都知事の言いたいことが、わからない気がしないではない。日本がおかしい。私もずっとそう思っていた。とはいえ、やはり日本なのだ。
シンガポールから来ているALTと今日少し話した。「シンガポールがいち早く救援隊を送ってくれたね。ありがとう。」「日本とシンガポールはグッドパートナーだからね。」「原発が心配だ。」「世界中が注目しているね。私も心配。」「日本は、略奪や喧嘩もなく、整然と避難している。この辺は日本だと私は誇りに思っている。」「すごいよね。日本は。」…日本の集団意識、アイデンティティは、完全に崩れたわけではない。

ところで、昨日の朝、夫婦で寝坊してしまい、車で駅まで送ってもらった。その時ラジオから「ラジオ体操の音楽が」聞こえてきた。「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に 開けよ それ 一 二 三」
なんと『昭和』的な歌だと私はあらためて思った。この状況で、被災した方々や原発のことを思い起こしながら聞くと、泣ける。だが、いつしか、こんな状況を打破して、ラジオ体操の歌に違和感を感じない朝がくると私は信じている。

追記1:秋田商業高校から、昨夜「18日を楽しみにしています。」との連絡が入った。JALが秋田に飛ぶ限り、私は行く。私も、秋田商業高校の先生方にお会いできることを心から楽しみにしている。お土産に持っていくつもりのアフリカ開発経済学テキストV4.0を、カラー印刷した。
追記2:アメリカ行きを計画していたOBのI君が明日、震災に心を痛めながら「たった1人の研修旅行」に旅立つ。メイビー・ノー・プロブレム。だが、細心の注意をするように。との檄メールを送った。

2011年3月14日月曜日

ワカンナイ

演劇部の卒業公演
まず最初に東北地方太平洋沖地震でお亡くなりになった方々に心から哀悼の意を表したいと思います。また被災された方々が一日も早く日常生活を再スタートできるように祈っております。さらに原発事故で負傷された方々や、捜索にあたっておられる方々、日夜避難されている方々の世話されている方々に対し、心から感謝をさせていただきたいと思います。金曜日の夜以来、妻とTVをずっと見ていました。血が逆流するような思いで見ていました。まさに国難と呼ぶにふさわしい事態で、ブログも3日間自粛させていただいた次第です。

この間、フランスにいるA君から、ブログが更新されないこと、秋田に出張する予定であったことで、心配をかけメールを何度ももらいました。ありがたいことです。大阪は本当に申し訳ないくらい平穏です。

さて、今日本校では演劇部の卒業生5人による卒業公演が3Aの教室で行われました。「そらまめごはんの恐怖」という”高校演劇”です。私は理屈っぽい”高校演劇”は苦手でしたが、T先生とともに見に行きました。うーん。ワカナンナイ。何を言いたいのか、よくワカンナイ。タイトルの「そらまめごはんの恐怖」というのもワカンナイ。

今私は、原発事故のことを考えています。東京外国語大学の舩田クラーセンさやか先生のブログで、原発がかなり危ないことが書かれています。舩田先生は、『アフリカ学入門』を編集された方で、私はお会いしたことはありませんが、信用できる方だと思っています。
リンク:アフリカ教育関連情報 http://afriqclass.exblog.jp/
英語の長文読解は苦手ですが、BBCでもCNNのWEBニュースでも、かなり原発事故のことが書かれています。官房長官や東京電力の発表が、どーも疑わしく、ワカンナイのです。ドイツ政府は、日本を脱出するように指示したらしいです。これは、ロンドンの息子も知っていました。なのに日本ではこのニュースは流れていないのです。本当はかなり厳しい状況なのではないか。「放射能の数値は低い」「原子炉に損傷はないと思われる…」なんか情報を小出しにして、無理やりパニックを抑えるようにいるように見えてなりません。本当のことは、どうも…ワカンナイ。

先日、自宅のパソコンがつぶれて、結局I先生に直してもらいましたが、あーでもない、こーでもないと原因を探り、試してみる中で、結局直ったのですがが、相手はパソコンなどではなく、テクノロジーの固まりのような原発。時間がかかるのは、十分私も理解できます。I先生も、「今回は全く想定外の事態なので、技術者も結局のところ、どうしたらいいかワカンナイと思いますよ。」と話していました。きっとそうなのでしょう。理系も文系も、今は本当に、どうしてよいのかワカンナイ。
ただ、最悪の事態を常に想定した指示は必要だと思います。なんでもソフトランニングしていこうという日本的な責任の分散だけは、避けてほしい、と私は言いたい。どこかのTV局のように、ヒステリックに政府の無策を追及しているつもりはありません。危機管理においては、そういう確固としたリーダーシップが絶対必要だと私は思っているのです。

井上陽水の歌に「ワカンナイ」というのがあります。宮沢賢治の「雨ニモ負マケズ」の詩を陽水風にアレンジした歌です。沢木耕太郎の『バーボンストリート』だったか『チェーンスモーキング』だったかと思いますが、エッセイにも登場します。歌詞は、以下のWEBページを参照してください。
http://music.yahoo.co.jp/lyrics/dtl/KAA028660/AAA090486/

宮沢賢治は代表的な東北人です。昔々、商業高校にいた時、修学旅行で東北の方々のの粘り強さを学びました。この未曾有の難を粘り強く乗り越えていかれると信じています。18日から秋田商業高校に出張予定です。先方の状況も、今日の休校で、かなりタイトなようです。どうなるかはまだ未定です。原発がどうあろうと、行けるならいきたい。今はそう考えています。

2011年3月10日木曜日

佐藤優の「大川周明」を読む

時々コメントをいただく非常勤講師さんのブログに、佐藤優の『日米開戦の真実』という小学館文庫のことが紹介されていた。さっそく買ったのだが、体調不良もあって、通勤時に爆睡することが多くなり少々時間がかかったが、やっとこさ読破した。非常勤講師さんのブログ:http://d.hatena.ne.jp/simplist-life/

佐藤優は「大川周明」をどうみているのか、ものすごく興味があった。「大川周明」といえば、東京裁判のA級戦犯の一人であり、法廷で東条英機の禿頭を後ろからパシッとしばいたことで有名である。ドキュメンタリー映画で私も見たことがある。精神病あつかいされ、法廷を離れて入院。その後コーランを全巻和訳したという変な人というのが、浅学な私の知識である。ところが、この大川という 人、凄い人だったのだ。副題に『大川周明著米英東亜侵略史を読み解く』にあるように、太平洋戦争開戦直後、大川周明はNHKラジオで、連続講演を行った。米英となぜ開戦にいたったかを国民に納得させるためのものである。それが本としてまとめられたのが、米英東亜侵略史である。佐藤優は、これをアメリカ編、イギリス編と分けて全文をテキストとし、それにコメントする形でまとめている。

書評を書くには、長くなりすぎるし、これから読もうと思われる人もあるだろうから私の気になった部分を特にセレクトしておこうと思う。

まず佐藤優の立場である。「日本国民は当時の指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に向かって追い込まれていったというのが実態ではないかと筆者は考える。」
…なるほどオレンジ作戦のことかと私は思って読み始めた。オレンジ作戦とは、アメリカの対日戦略である。F・ルーズベルト大統領が、真珠湾攻撃の前にロブスターの取り方について語っており、事前にそれを想定し、腹心に示唆したと言われている。大川周明は、テキストのアメリカ編で、このペリー以来のアメリカ外交について、驚くほど冷静かつ合理的に分析している。ここでのキーワードは、日露戦争以後のアメリカの変化である。これは、中国進出という目的をもったアメリカ帝国主義が露骨に日本とぶつかってきたからである。大川周明はその歴史的経過を詳細にたどっている。まさにその後は、あらゆる方策を講じて日本とぶつかるように仕向けている。大川周明の分析力は凄いといわざるを得ない。

私が最も気になったのは、佐藤優のインテリジェンス専門家としての解読である。「大本営発表は=大嘘は本当か」「日本人の教育水準の高さを考慮した上で、戦後の洗脳工作を展開」「国民が政府・軍閥に騙されて勝つ見込みのない戦争に追いやられたというのは、戦後になってからの作られた神話である。」などの文字に、驚きをかくせない。
『…敵国を占領してハタと当惑するには、昨日まで仇同士だった敵国人民と仲よしにならねばならないことである。…こんな時に用いられるのは、誰かを悪者にデッチあげることである。…敗戦後軍人たちは軍閥といわれて面食らった。日本に軍閥があったのは山縣元帥の全盛期の昔のことである。』と、大橋武夫の「謀略ー現代に生きる明石工作とゾルゲ事件」から佐藤優は、そのアメリカの諜報戦の戦略を引用する。さらにその実証を積み重ねていく。我々の「陸軍=悪=東條・親玉という常識」がくつがえされていく。先日から4回放送されたのNHKの『日本はなぜ戦争へと向かったのか』シリーズは、はからずもこれを裏付けている。米英に翻弄された外交、陸軍暴走のメカニズム、熱狂を作ったマスコミ、そしてリーダーたちの迷走。この本を読みながら見ると絶対面白い。

というわけで、東京裁判は完全な政治ショーであると共に宣伝活動であったといえるわけだ。大川周明はこの東京裁判を連合国の日本に対する復讐であり、日本人が二度と米英に歯向かわないようにする「教育」の場であることを正確に認識していたようだ。大川周明がA級戦犯となったのは、ニュルンベルグ裁判でナチズムの理論家ローゼンベルグ博士が起訴され絞首刑になったのを踏まえ、日本でも誰かいないかということで引っ張り出されたと佐藤優は推測している。このテキストも英訳されており、かなり危険視されていたらしい。で、大川は発狂する。半年後、米軍医は正常にもどったと判断したが不起訴になった。おそらく、この裁判の本質を見抜き、反論する能力が十分にあった故にキーナンあたりが忌避したのであろう。

最後に、意外な事実を知った。A級戦犯が最も悪質で、B級C級と続くような「常識」についてである。A級は「平和に対する罪」である。これはかなり奇妙な罪で、日ソ中立条約を破ったソ連はどうなるのかという議論が生じる。インドのパル判事は正しい。B級は戦争において戦闘員以外の民間人殺傷や捕虜の虐待の罪である。(私はここまでは知っていた。)そして、C級。これは人種的な理由による迫害行為への罪である。最も非道である。ユダヤ人やロマに対するナチの要人にはこの罪が大きな問題とされたのだった。(私はてっきりニュルンベルグ裁判も東京裁判と同様に、ボルマンやゲーリングはA級戦犯として起訴されたのだと思っていた。若干このABCという規定とは違うが…)

とても、イギリス編まではいかなかった。また続編を書こうと思う。

2011年3月9日水曜日

アフリカの国際経済回廊計画

アフリカ開発経済学テキストV4.01を書き直している際に、おもしろい資料をみつけた。「2025年のアフリカ経済:今後アフリカはどう変化するか?」という、三菱UFJサーチアンドコンサルティングの主任研究員・田中秀和氏の論文である。http://www.murc.jp/report/quarterly/200901/57.pdf
この論文、なかなかおもしろい。およその構成は、人口の推移、鉱業・エネルギー資源、国際経済回廊の展開、資源開発から産業開発へ、今後の発展への期待、という流れである。私は、中でも「国際経済回廊」の部分に特に注目したい。

「アフリカ大陸には15の内陸国があり、なかにはザンビアのようなに資源の豊富な国も多くあり、これら内陸国からの港へのアクセスルートを確保し、かつルート沿いの資源と産業の開発を促す『経済回廊』構想がアフリカ各地で提案されている。また電力資源国と消費地をつなぐ広域パワープール構想も実現されつつあり、アフリカの経済発展は国境を越えた広域的単位での発展を志向しており、世界銀行、アフリカ開発銀行、南部アフリカ開発銀行などの国際金融機関を巻き込んだインフラ開発への協力が展開されつつある。」(田中論文より引用)

論文によると、現在、20以上の国際経済回廊計画・構想があるらしいのである。西アフリカでは、ナイジェリアからベナン、ブルキナとニジェールの国境沿いからマリ、そしてセネガルへと続く『ニジェール回廊』、リベリアからナイジェリアまでのギニア湾岸を結ぶ『ギニア湾回廊』、ナイジェリアのラゴスからカメルーン、中央アフリカ、コンゴ民主共和国、ルワンダ、ウガンダを経てケニアのモンバサまで続く『ラゴス=モンバサ回廊』などである。既に稼働している回廊は、モザンビークのマプト港から南アフリカ内陸部を結ぶ『マプト回廊』があるこの回廊沿いにはアルミおよび関連産業が立地する工業自由区があり、南ア資本によって産業集積が起きているらしい。南アではダーバン港の容量が限界で、マプト港を代替港としたいようだ。さらに、モザンビークは、マラウイ、ザンビアにまたがる『ナカラ回廊』を計画している。ナカラ港はマプト、ベイラに次ぐ港で、良港らしい。インフラ整備でかなり発展が期待できるという。やはり、モザンビークのように海に面している国は圧倒的に有利なのだ。

開発経済学テキストのなかでも「内陸国の罠」でふれているが、アフリカは内陸国が多すぎるのである。サブ=サハラ・アフリカのバランスの取れた開発に、この「経済回廊」が大いに有用なことは間違いない。民間資本の投資増大のための重要な社会資本の充実が必要なのだ。ここでもバランスが重要である。<今日の画像は、ケニアの国道:静岡のM先生撮影>

ところで、北朝鮮がジンバブエに食糧援助を求めているというニュースが流れている。様々な憶測が流れているが、その意図はどうあれ、あまりの馬鹿馬鹿しさにコケそうになった今日の私であった。

2011年3月8日火曜日

国際交流部仕事週間

中国修学旅行2010 天壇公園
学年末も入試も終わり、ホッと一息つきたいところであるが、今週は「国際交流部仕事週間」という感じである。昨日から今日に書けて、昨年の中国修学旅行の紀行文集の印刷をしていた。この紀行文集、だいぶ前に情報Aの時間を少々いただいて生徒諸君がWordで書いたモノを、私が構成し長い間醸造していた。(笑)52ページもあり、両面で印刷するのでかなり時間がかかる。試験も終わって、先生方がほとんど印刷室を使わない今がベストの時期なのだ。昨年は、立ちっぱなしでやって、夜、強烈に足がつった。(笑)その反省から、今年は椅子を用意して、佐藤優の「大川周明」を読みながら焦らずやっていた。製本作業は今日である。本校では会議室に製本の機械がある。1人でコツコツと製本。さらにホッチキス止め。地味な仕事である。国際交流部というと、華やかそうに見られがちだが、仕事は段取りと雑務の集合体である。(どんな仕事でもそうだが…。)

今日は午後からは、大阪市主催のオーストラリア派遣の選抜試験であった。現1年生が対象である。英語科の生徒はちょうどオーストラリア研修旅行と重なるので、国語科生徒が対象となる。それでも4名の生徒が名乗りをあげた。英語の筆記・リスニング、私の作ったオーストラリアの基礎知識を問う社会の問題、さらに小論文と3種類のテストを1時間でこなさねばならない。さらに面接である。もちろん日本語と英語の面接になる。今回は、問題の採点だけでよかったが、こういう試験があると毎回一から作り直す。

明日は、その結果をもとに部会が開かれる。さらにその後、来年度の修学旅行の業者決めのヒアリングがある。その進行は私の仕事である。もちろん、ヒアリングの後は会議で業者を決定する。なかなか骨の折れる仕事である。決定したら、委員会へ送る計画書類の作成が待っている。
金曜日には、早くも夏のオーストラリア研修旅行の第1回保護者説明会が行われる。今回も司会は私だ。なんやかんやと忙しいのである。しかしながら、やりがいがある。全ての仕事が「地球市民」の育成へと繋がっているからである。

ところで、昨日医者に行ったら、若干血糖値が下がっていた。263。まだまだマトモではない。新しい薬が増えた。朝に1錠。アメリカの毒トカゲのDNAから取ったやつかもしれない。私の体にトカゲのDNAが入ってくるのはちょっと…なあと思う。(笑)

2011年3月7日月曜日

本校の風をつかまえた少年G

大阪は、冷たい雨が降った日だったが、「サクラサク」の一日だった。そう、今日は国公立大学の前期試験の結果が出たのである。昨年11月30日付のブログで、奈良教育大学志望のG君のことを書いた。ついに「サクラサク」である。嬉しい。本当に嬉しい。T先生から朗報を聞いたときは、思わずハイタッチした。彼とは、一昨年の中国修学旅行からの出会いである。なかなかおもしろい生徒だ。なんとなくピンクのチョッキを着ている「春日」に似ている。したがって、だいたい私との挨拶は「チュース」であった。彼は生真面目な性格だが、ノリが良い。教師にあったほうがいい資質である。倫理の補習をやって欲しいといいだしたのも彼である。授業では1年間いじらせてもらった。(大阪弁で、おちょくる、これも大阪弁である…えーとよく相手にして授業を盛り上げる役を引き受けてくれた。)というわけで、繋がりが強かった分、嬉しくて仕方がない。今日のタイトルは、奈良教育大の推薦入試(残念ながらサクラチルだった。)の時、「風をつかまえた少年」を読んだ方がいいと言うと、彼はすでに手に入れていて、カバンから取り出したことに由来する。彼は、おそらく最も早く私のブログを探し当てた現役生である。どうやら、彼から私のブログが現役生に広まったようである。「何で、この本を知ってんねん」と聞くと、彼は「チュース」とごまかしたのだった。(笑)

G君と共に、現役で大阪教育大学の美術に、Kさんが「サクラサク」した。凄い!このG君とKさんは国語科の中で最後の最後まで国公立を諦めず頑張っていた。そう、入試は執念なのだと思う。これで、美術部から2年連続で国公立の美術に送り出したことになる。(私は別段何もしていないけど…。)

さらに浪人組からも大阪教育大学に2人「サクラサク」した。英語科の浪人組のYさん。昨年の国語科男子四天王(誰もが認める優秀な男子が4人いた。)の1人で、唯一浪人していたH君。彼は国語の教員志望だ。センターでは倫理90点越えだったそうだ。嬉しいなあ。嬉しい。本校から教員志望者がどんどん輩出されていく。

『はしゃいでる 扇の校舎を 見上げ、ふふっ』 空堀かるたの入選作、これはH君の作品である。今日の画像は、彼の読み札を「サクラサク」と合わせてみた。…めでたい1日であった。

2011年3月6日日曜日

開発経済学テキストV4.01

3年生の授業が無くなった1月末から、授業の負担が減ったことを利用して、『高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト』を書き直してきた。もうV4.01になる。先日、ダンビサ・モヨ女史の「援助じゃアフリカは発展しない」の内容を組み入れておよそ完成した。現在、校正中というところである。秋田商業高校への出張になんとか間に合いそうである。
このオリジナル・テキストの骨組みは、開発経済学の基礎(資本蓄積と生産性の向上)と、アマルティア=センの「貧困の概念」、これにポール・コリアーの『最底辺の10億人』の4つの罠を中心に、アフリカの農業の・工業の問題点を洗い、アフリカを知るためのキーワードやグローバリぜーションの中でのアフリカ経済、中国の進出、市場としての未来、デモクレイジーなどを肉付けしてある。

今回の書き直しのコンセプトは、3点。その1は、授業で使いにくい難解な文章(専門書から引用したのだから当然である。)を、できるだけ平易に書き直すこと。授業で、私がすらすら読んでも、教室に?のイオンが充満する。(笑)結局、解読しながら話すことになるので、易しくした方が自学自習できるので、価値的である。
その2は、『アフリカ学入門『や『アフリカに学ぶ』という最良のテキストが昨年出たので、その内容をうまく活かす試みをすること。これまで、「アフリカを知るための隠れたキーワード」として①エスニックグループと国境線②人口密度と土地の話③ポレポレとハクナマタタ-情の経済ー④農村と都市⑤伝統的結婚のシステムーロボラとマライカーという項目を立ててきた。これに⑥「呪術化する現代アフリカ」という項目を追加した。生徒も呪術にはかなり関心を示す。テキストに付加したカタチで語ることも多かった。「アフリカに学ぶ」のコラムからの引用を中心にテキストに挿入したのである。
その3は、前述の「援助じゃアフリカは発展しない」の内容を組み入れることであった。前回のV3.04には「動き出す9億人の市場」の内容を入れたが、今回はダンビサ・モヨ女史を是非入れたかった。「開発経済学からのアプローチ」という、さらに専門的な領域の項の、アマルティア=セン、ジェフリー=サックス、ポールコリアーに並記した。私の中では、偉大な開発経済学者である彼ら3人に並記すべき内容だと思っている。もちろん、新たな関連書籍も追加した。

いずれ、このブログでも公開するつもりでいる。(今は常設ページにV3.01の抜粋だけ公開しているが、今度は全編PDFからJPEGに変換して公開するつもりでいる。3月末くらい?。)浅学ではずかしいが、あくまで現場の高校教師の教材研究の域内ということで笑って許していただきたいところである。

2011年3月5日土曜日

三島塾でセネガルの話を聞く

府立三島高校・社会科教室にて
府立三島高校とは、JICA高校生セミナーで長年の付き合いがある。先日のワンフェスの時、三島高校のM先生と出会った。その際に、「三島塾」のビラをもらったのだった。地域の方々を受け入れて「三島塾」という公開講座を開いているのだという。しかも次回は三島高校の先生が日本語を教えているセネガル人とJOCV経験者を呼んで、「セネガル異文化理解講座」をするのだという。なるほど、凄い取り組みをしている。M先生は、国際理解教育学会の先輩でもあるし、また三島の先生方とはJICAセミナーでもご一緒するだろうし、顔を出すことにしたのだった。三島塾は、社会科教室が満杯になるほどの盛況だった。

来日5年目のニャン・オスマン氏は、元ダカールの国際空港の警備員で、日本人の奥さんと結ばれ子供もかわいい女の子が2人いる人だった。今は焼き肉屋で勤めているとか。彼は、もちろんムスリムである。なかなかファッショナブルである。さすが「セネガルの着倒れ(日本で言えば京都かな)」を体現している。だいたい想定していた話の内容だった。彼が時折しゃべるフランス語に西アフリカの臭いを感じた次第。

もう一人の講師は石川梨絵さんという方だった。この方の話、かなりよかった。セネガルに個人的にドラムやダンスを習うため村に滞在する格安のスタディツアーが、アフリカとの出会いだという。その時アフリカに惚れてしまったらしい。(わかる)本業は織物だそうで、その後2年間日本にいて、JOCVに合格、コートジボアールで、2年間織物を美術系の大学で教えることになったのだという。その後さらに連絡員としてセネガルに移ったらしい。彼女は、セネガルの農村を見事に描いた「バオバブの記憶」という映画のダイジェスト版も見せてくれた。なかなかいいのである。レクチャーもうまい。私は大いに感心してしまった。今まで何度も元JOCVの赴任国紹介を聞いた経験があるが、彼女は指折りのうまさであった。休憩時間に、きっちりと名刺交換しておいた。
彼女の話の中で、最も印象に残った話を書き残しておきたい。それは彼女がJOCV連絡員としてセネガルに赴任する直前に事故死した「セネガル人とはいつもケンカですわ。」と笑っていた大阪の農業関係のJOCVの話である。

彼は、セネガルでも離農したがる若者が多いことを嘆き、「農業はおもろいんや。」と巨大カボチャを作ったり、大好きなヒマワリを植えて村人と鑑賞したり、若者を農業に引きつけようと必死で頑張っていたらしい。彼は宿舎の壁に、『語り継がれることではなく、引き継がれることをしろ』と書いた紙を貼り付け、常に自問自答していたようだ。任期を1年延ばし、”引き継がれる”仕事をしていたのだが、バイクで移動中にクルマに追突され急逝したという。セネガルのJOCVでは伝説の人らしい。

『語り継がれることではなく、引き継がれることをしろ』…か。彼の真摯な、まことに真摯なJOCVとしての「志」に私は泣ける。セネガルの赤い土には、彼の「志」がきっと染みこんでいるに違いない。同じアフリカを愛する人間として、彼の冥福を心から祈りたい。

2011年3月4日金曜日

卒業式の日に教育を哲学する

阪大・中之島センター
卒業式である。今年もいい卒業式だった。A組の担任であるT先生が涙をかくして退場してきたのが印象的であった。いいなあ、担任は…。式終了後も多くの生徒が職員室に来てくれて、いっしょに写真を撮ったり、卒業アルバムに揮毫したりであった。(OGも来てくれていたのだけれど…。)残念だったのは、今日は時間が限られていたことだ。と、いうのも、3時から阪大の中之島センターといところで、講演会があったのである。
昔からの友人で私立のS高校のT先生から、いっしょにいきませんかという誘いを受けていたのだった。講師は、竹田青嗣さんという早大の哲学者である。ビッグネームである。行きたい!と快諾した。14:30受付開始、15:00開始だった。かなりタイトな時間になったが、なんとか間に合った。テーマは「教育を哲学する」である。実はこの講演会、大阪府高等学校国語科研究会の主催である。私は社会科なのでだいじょうぶかと聞いたら、T先生は「問題ないみたいですよ。」とのこと。一応本校の国語科長のK老師にも声をかけて了承を得ておいたのだった。

さて、その内容について、私の理解の及ぶ範囲で、かいつまんで書き残しておこうと思う。

近代以前と近代以後の教育について、哲学から考えるとき、重要なのはホッブズとルソーである。「万人の万人に対する戦い」、ホッブスの自然状態は近代以前の「普遍闘争原理」に基づいている。これに対してルソーは近代の原理である「一般意志」という原理を立てた。この「一般意志」こそが、『相互承認』という大前提のもとで正統性をもつ唯一の原理となった。ホッブスの「暴力が支配する世界」から全ての人民は解放され、同じ条件の下(肉体や能力やその他の差異はあるにせよ、法的には平等なゲーム・プレイヤーとして)で自らの自由を求めることを是認されたのである。

ところで、近代以前より「社会的善」の概念はあった。それは、家族や部族などの伝統的な共同体の「社会的善」である。当然それぞれの善には差異が生ずる。しかし、近代以後の「社会的善」は「一般意志」である。近代以後の公教育の役割は、この伝統的共同体的な「社会的善」の世界から子供を引っ張り出し、貴族であろうと、農民であろうと、人間は同じ自由を求める立場に置かれているというパートナーシップを学ぶ場であることを認識させることにあった。

ここで、竹田先生は、プラトンを引かれる。「一般意志」をわかりやすくいうとルールである。伝統社会的な親の課すルール、子供の内的ルールや子供同士のルールがぶつかり合い、子供も「コトバの貯め」(語彙が豊富になる)による反抗が生まれるなど、せめぎ合う『1枚目の世界』が子供の中で作られる。さらに子供は、公教育という『2枚目の世界』の中で、社会のルールを学び、さらに、そのルールは他者との考え方の相違や合意といった関係の中で、より良いルールをつくれることを学ぶ。これが『三枚目の世界』である。この多重性の中で、本質に迫ることが可能になる。これをプラトン的にいうと、「心意」あるいは「陶治」と呼ぶものである。
プラトンの洞窟の比喩というのがある。この講演の枕とされた比喩に最後に竹田先生は着地される。洞窟の奥に座らされた人間は、哲学者の考察によって、今見ているモノは影にすぎないと知る。哲学者は人間の背後にある光を見、そのさらに背後にある太陽を知っている。この光こそが本質に迫ろうとする「心意」であり、太陽の光は本質の本質と呼べるものである。(普通のプラトンで行けばイデアである。)一枚目の世界と二枚目の世界は、洞窟で人間が見る影であり、三枚目の世界が光であり、太陽は本質中の本質である。すなわち近代における相互承認された責任を裏付けにした真の自由の獲得であるわけだ。

なかなか有意義な講演であった。久しぶりに私の本地である哲学の講義を受けた。プレゼンの画像など一切なし。1時間45分にわたる長い講義。何も見ずに語りかける絶対的な知識量と構成力。さすがビッグネームであった。帰路京橋で、T先生と久しぶりに餃子とニラレバ炒めをアテにビールを飲んだ。さらに有意義な会話が進んだのだった。教師は洞窟(学校内)から、外の光(学校外への様々な研修や取り組み)を見るよう常に努力をしなければならない、というのが2人の結論であった。

2011年3月3日木曜日

パソコンも私も減量

1日2回の投稿になるが…。実は一昨日の夜、自宅のPCがぶっ壊れた。ブログを書き終えて公開した直後である。昨日、パソコン工房というところに持っていて診断してもらったら、とりあえずリカバリーが可能と云うことで、CDをぶち込んで、データをぶっ飛ばして生き返ったのだった。ところが、どうもおかしい。画面がヨコに延びたママなのである。様々な試みっをしたのだがダメである。アフリカのジャスミン革命の影響についてさきほどブログも書けて、まずは一安心なのだが…。なんかおかしい。それで、今、学校から持って帰ってきたPCで1日2度目のブログを書いている。どうも、ウィンドウズのみが復帰したようで、PC:私のはGatewayなのだが、その付加されていたシステムがみんなぶっとんだようである。あちゃー。

まるで私の今の体のようである。あまり書くと読者のみなさんに心配をかけるので触れなかったのだが、先週風呂から上がって妻に言われて体重を量ってみると、6kg減っていた。めでたいことだが、別に運動したわけでもない。喉の渇きはひどいし、夜何度も水を飲みトイレに行くので熟睡できないしで、ちょっとやばかったのである。医者に行って、血糖値を計ってもらうと492もあった。ひえー。別に食事直後の数値ではない。食事からかなりたっている。特に思い当たる節もなく、やはり昼食や缶コーヒーしか考えられない。キツイ目の薬にかえて、約1週間。喉の渇きはかなりマシになった。夜もあまり頻繁にトイレに行くこともなくなった。とはいえ、やっぱり足はつるし、H城鍼灸院では超重病患者扱いである。

糖尿でいらん6kgがぶっとんだ私の体と、データと付加されていたシステムがぶっとんだPC。なんか笑える。
とはいえ、ときどき疲れがたまるとふわーとする。こんなんで秋田行を控えて大丈夫か、と思い自重する毎日である。缶コーヒーは以来飲んでいない。ところで、明日は、卒業式である。元気な笑顔で3年生をを送りたい。

アフリカ:茉莉花革命の影響

ブルキナ・ワガの通勤の様子
 気になっていたサブ=サハラ・アフリカのジャスミン革命の影響について、WEBでこんなニュースが配信されていた。ちょっと長いが引用したい。
【3月1日 AFP】抑圧、貧困、腐敗にあえぐサハラ以南のアフリカ諸国は今、アフリカ北部などのアラブ世界を席巻する革命の波に、希望のまなざしを向けている。
 アンゴラからジンバブエまで、アフリカの多くの国々は、20年あるいは30年以上、独裁者に強権支配されてきた。だが、富裕エリート層と飢餓階層の大きな格差、長年の圧制。これらの状況は、サハラ以南のアフリカ諸国も、チュニジア、エジプト、リビアと変らない。だが、それだけで、民衆の怒りの波を引き起こせるだろうか?
 ナイジェリアの人権活動家シェフ・サニ氏は、「北アフリカでの反乱は、アンゴラからブルギナファソまで、ナイジェリアからエリトリアまで、サハラ以南アフリカの民衆に、自由の火をかかげ、結果を恐れずに進む勇気を与えるだろう。サハラ以南の民衆が蜂起するかどうかは、仮定ではなく、時間の問題だ」と話す。
 しかし、サニ氏ら観測筋は「革命への着火力は、北アフリカ・中東よりサハラ以南アフリカのほうが強いが、人種的・宗教的分裂が統一戦線結成の妨げになっている」とみる。ナイジェリアの学者、エゼ・オシタ氏は、「北アフリカはサハラ以南と違い、人種、文化、宗教の点で同質であり、このことが国民の動員をたやすくした」と解説する。
■サハラ以南の各地でデモ
 それでも、サハラ以南の野党指導者らは支持者に対し、アラブの例にならって反乱を起こすよう呼びかけている。その一方で、国の指導者たちはそうした動きの封じ込めに躍起になっている。赤道ギニアは「報道管制」を行い、チュニジアとエジプトの大統領退陣に関するニュースを一切国民の目に触れさせないようにしている。アンゴラでは、匿名の人物が政府への大規模な抗議デモを呼びかけたが、1975年の独立時から政権の座にある与党は「デモ参加者には重い刑罰が科される」と警告した。ロバート・ムガベ大統領(87)の政権が1980年から続いているジンバブエでは、エジプトの反政府デモに関する研究会を開いたとして、元国会議員1人を含む47人が逮捕された。国民がそれほど抑圧されていないモザンビークやブルキナファソ、民主主義が進んでいるとされる南アフリカやセネガルといった国々でも、デモが起きている。いずれも、貧困・失業対策、インフラ整備を求めるといった内容だ。
 ■サハラ以南で反体制デモが置きにくいその他の理由
 チュニジアとエジプトでの政権崩壊の鍵となったのが「ソーシャルネットワークによる動員」と「軍の中立的態度」だと指摘されているが、サハラ以南の各国の軍は権力者に擦り寄る傾向が強く、インターネットの普及率もマグレブ諸国に比べると圧倒的に低い。 
 前者の例は、コートジボワールが良い例だ。前年11月の大統領選でアルサン・ワタラ(元首相が現職のローラン・バグボ大統領を破って当選したが、バグボ氏は権力移譲を拒否。軍はバグボ氏の後ろ盾に回った。ウガンダでは、 ヨウェリ・カグタ・ムセベニ大統領が1986年から政権の座にあり、前月の大統領選でも再選されたが、選挙に不正があったと指摘されている。同国マケレレ大のフレデリック・ムテビ教授は、「ウガンダの軍は政権を強く支持しており、政府の民兵として振る舞うことも多い」と指摘した。ムテビ氏はさらに、サハラ以南、特にウガンダは、教育を受けた中流階級が少ない上、北アフリカに比べて都市化も進んでいないと話した。「反体制デモを開始、継続していくためのインフラは、北アフリカではここよりはるかに整備されている。エジプトのデモ隊は、インターネットにせよ、ほかの手段にせよ、緊密に連絡を取り合っていた。そのようなことを可能にするインフラはここにはない」(ムテビ氏)一方、ジンバブエ国立マスビンゴ大のある専門家は、アラブの民衆蜂起が、独裁者たちに強権強化の機会を与え、独裁体制を固めさせるという逆の効果をもたらす恐れもあると警告している。

 だいたい私が考え、危惧していたことと同じである。サブ=サハラ・アフリカの方が、独裁的で悪いガバナンスの失敗国家が多い。北アフリカ以上に火種がある。ところが民族的なパッチワークの関係で、団結しがたいし、インフラ(ネットで結び合うIT)が進んでいないし、教育を受けたアフリカ2が少ない。反対に、権力者は独裁体制を固めるというのもわかる気がする。
 ブルキナでも、デモがあったらしい。F君が4月に行くので、ちょっとオイオイという感じなのだが、首都ワガドゥグに珍妙なデザインの新しい大統領府と官庁が建設され、一般庶民はアホかと考えているのは知っていた。不満は常に潜在的にある。ところが、ブルキナベは極度に軍を恐れている。ある意味の諦観がそこにある。しかし、穀物の高騰をきっかけにした怒りが限度を超えたとき、どうなるかはわからない。あの人のよいブルキナベたちを怒らせるのは並大抵の話ではないからだ。私はブルキナベがその潮流にのるとは思わないが、コートジボアールのこともある。大統領がさらに統制を強めるのではと心配である。
 一方、モザンビークは今、最もうまくいっている国のひとつである。少し豊かになったがゆえにジャスミン(茉莉花)革命が飛び火するのかもしれない。飛び火することがいいのか悪いのか、私にはわからない。先日述べた「公」たるルールが再構築できるかという大問題をかかえているからである。まさに昨日の異文化共生で指摘したシティズンシップという語彙の両義性のように、「ジャスミン(茉莉花)革命」は、捉える側によって両義性を持っている。1つは、アフリカ2(3)の人々がITを使って、悪しきガバナンスを革命する民主化という流れに沿う新しいエンパワーメントであり、もう1つは、同じくアフリカ2(3)が、既成の枠組みを単に破壊しさらなる混乱を生むG0(ゼロ)の流れである。

2011年3月2日水曜日

多文化共生の難しさ

   先日、毎日新聞におよそ次のようなコラムが載っていた。イギリスの首相が、「イギリスの多文化共生政策は失敗した。」と表明したというのだ。それ以前にドイツの首相も「多文化共生政策の失敗」に言及しているとのこと。ヨーロッパでは、かなり多文化共生に嫌気がさしているらしい。ドイツはトルコ系の、イギリスはアラブ系の移民の存在に大いに困惑しているのである。彼らは、ともに「消極的」に移民の流入に対応してきた。ここにきて、排除できないものの、なんらかの「積極的」対応策を考えているらしい。フランスは、それに対して「積極的」に排除を口にしてきた。特にイスラム系移民への国民の反発は大きい。さすが、フランス(ヨーロッパの)中華共和国である。

さて、サンパピエという言葉がある。以前紹介した(2010年4月10日付ブログ参照)、エッフェル塔の下でみやげ物を売っているガボン人などのようにインフォーマルセクターに従事しているフランスの不法滞在者のことである。彼らは、フランスの大企業などにも雇用されたりしているらしい。詳細は下記のブログが詳しい。
彼らサンパピエは、フランス政府の排除に対して、決して後ろに引いていない。フランス世論では、人権的な立場と、フランス人のシティズンシップとが、がっぷり四つになって対立しているわけだが、ここで、注意したいのは上記のブログでは、ナジョナリズム的シティズンシップ(国民という概念に近い)という意味合いで使っていることだ。私のように国際理解教育に携わっている者にとっては、まったく反対の概念と捕らえている。うーん、社会学的な語彙は難しい。下記の記事が詳しい。

大企業や農園などが、グローバリゼーションという弱肉強食のリングで勝つために格安の賃金労働を求める限り、社会として不法移民の必要性が生まれる。底辺国では、出稼ぎの需要が高い。最も弱い立場で搾取されるだけ搾取され、そして排除される。彼らは、こういう先進国と途上国を貫く「構造的暴力」に「ノン」を突きつけている。ヨーロッパにおける大きなエンパワーメントなのだ。

多文化共生ということは難しい。地球市民を育む教育がその未来を担っている。イギリスなどは、こういう教育の最先端をいっているのだが…。うーん、とまた唸りながら筆を置く。

2011年3月1日火曜日

スワジランドで「デモ」呼びかけ

 中東のフェイスブックを使った民主化の波動が、ついにサブ=サハラ・アフリカにも飛び火した。
 産経のWEBニュースで昨日知ったのだが、スワジランド王国が、その舞台である。
 「フランス公共ラジオは26日、アフリカ南部の王国スワジランドで、王制打倒を求めるデモの呼び掛けがインターネットの交流サイト「フェイスブック」を通じて行われていると伝えた。中東で激しさを増す反政府デモの動きがアフリカにも波及し始めた形だ。
呼び掛けの主体は地元の民主化グループで、同国で政党活動が禁止された1973年4月12日にちなみ、4月12日に国内各地でデモを行う考えという。スワジランドでは、国王ムスワティ3世による絶対王制が敷かれ、国王一族がぜいたくな暮らしを送る一方、国民の多くは貧困に苦しんでいる。」(共同)2011.2.27 00:58

 スワジランドは、アフリカでもかなり特殊な国だ。まず王国であること。サブ=サハラ・アフリカでは非常に珍しい。(首長国といった方が妥当かもしれない。)南アとの結びつきが強く、アパルトヘイトの隠れ蓑的存在で、工業がある程度盛んである。したがって1人あたりのGDPは高いのだが、国王一族以外は、極めて貧困にさらされていることは事実で、HIVエイズの罹患率は、アフリカでもかなり高い。
 外務省のODA関連のスワジランドの項をよく読むと、日本はこの国王をかなりかっているように見える。「(国王が)現実的かつ穏健な外交政策を取っている。また近年では、2008 年8 月以降、SADC 平和・安全保障組織の議長国としてジンバブエ、マダガスカル問題等の調停に携わり、地域の安定への貢献に努力している。」かららしいが、経済的な結び付きも弱く、そんなにODAで協力しているわけではない。(外務省も微妙な言い回しをしている。)

 このスワジランド、生徒に調べさせてみると、毎年「王制をやめ、民主化し、国王一族の無駄使いを、開発に向けるべきだ。」という結論が出てくる。フツーに考えればそうなるだろう。私も同感である。「アフリカのニュースと解説」のMiyaさんも、さすがに個人や国を批判しないというポリシーでブログをつくられているようだが、ここは、ノルウェイの肩をもって書いておられる。(2010年10月2日付)
http://let-us-know-africa.blogspot.com/search/label/%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
 というわけで、民主化の波動がスワジランドに飛び火したことを私自身は注意深く見守りたいところである。ウガンダの大統領選挙後は、どうなったのだろうか。それも気になるところである。