2011年3月4日金曜日

卒業式の日に教育を哲学する

阪大・中之島センター
卒業式である。今年もいい卒業式だった。A組の担任であるT先生が涙をかくして退場してきたのが印象的であった。いいなあ、担任は…。式終了後も多くの生徒が職員室に来てくれて、いっしょに写真を撮ったり、卒業アルバムに揮毫したりであった。(OGも来てくれていたのだけれど…。)残念だったのは、今日は時間が限られていたことだ。と、いうのも、3時から阪大の中之島センターといところで、講演会があったのである。
昔からの友人で私立のS高校のT先生から、いっしょにいきませんかという誘いを受けていたのだった。講師は、竹田青嗣さんという早大の哲学者である。ビッグネームである。行きたい!と快諾した。14:30受付開始、15:00開始だった。かなりタイトな時間になったが、なんとか間に合った。テーマは「教育を哲学する」である。実はこの講演会、大阪府高等学校国語科研究会の主催である。私は社会科なのでだいじょうぶかと聞いたら、T先生は「問題ないみたいですよ。」とのこと。一応本校の国語科長のK老師にも声をかけて了承を得ておいたのだった。

さて、その内容について、私の理解の及ぶ範囲で、かいつまんで書き残しておこうと思う。

近代以前と近代以後の教育について、哲学から考えるとき、重要なのはホッブズとルソーである。「万人の万人に対する戦い」、ホッブスの自然状態は近代以前の「普遍闘争原理」に基づいている。これに対してルソーは近代の原理である「一般意志」という原理を立てた。この「一般意志」こそが、『相互承認』という大前提のもとで正統性をもつ唯一の原理となった。ホッブスの「暴力が支配する世界」から全ての人民は解放され、同じ条件の下(肉体や能力やその他の差異はあるにせよ、法的には平等なゲーム・プレイヤーとして)で自らの自由を求めることを是認されたのである。

ところで、近代以前より「社会的善」の概念はあった。それは、家族や部族などの伝統的な共同体の「社会的善」である。当然それぞれの善には差異が生ずる。しかし、近代以後の「社会的善」は「一般意志」である。近代以後の公教育の役割は、この伝統的共同体的な「社会的善」の世界から子供を引っ張り出し、貴族であろうと、農民であろうと、人間は同じ自由を求める立場に置かれているというパートナーシップを学ぶ場であることを認識させることにあった。

ここで、竹田先生は、プラトンを引かれる。「一般意志」をわかりやすくいうとルールである。伝統社会的な親の課すルール、子供の内的ルールや子供同士のルールがぶつかり合い、子供も「コトバの貯め」(語彙が豊富になる)による反抗が生まれるなど、せめぎ合う『1枚目の世界』が子供の中で作られる。さらに子供は、公教育という『2枚目の世界』の中で、社会のルールを学び、さらに、そのルールは他者との考え方の相違や合意といった関係の中で、より良いルールをつくれることを学ぶ。これが『三枚目の世界』である。この多重性の中で、本質に迫ることが可能になる。これをプラトン的にいうと、「心意」あるいは「陶治」と呼ぶものである。
プラトンの洞窟の比喩というのがある。この講演の枕とされた比喩に最後に竹田先生は着地される。洞窟の奥に座らされた人間は、哲学者の考察によって、今見ているモノは影にすぎないと知る。哲学者は人間の背後にある光を見、そのさらに背後にある太陽を知っている。この光こそが本質に迫ろうとする「心意」であり、太陽の光は本質の本質と呼べるものである。(普通のプラトンで行けばイデアである。)一枚目の世界と二枚目の世界は、洞窟で人間が見る影であり、三枚目の世界が光であり、太陽は本質中の本質である。すなわち近代における相互承認された責任を裏付けにした真の自由の獲得であるわけだ。

なかなか有意義な講演であった。久しぶりに私の本地である哲学の講義を受けた。プレゼンの画像など一切なし。1時間45分にわたる長い講義。何も見ずに語りかける絶対的な知識量と構成力。さすがビッグネームであった。帰路京橋で、T先生と久しぶりに餃子とニラレバ炒めをアテにビールを飲んだ。さらに有意義な会話が進んだのだった。教師は洞窟(学校内)から、外の光(学校外への様々な研修や取り組み)を見るよう常に努力をしなければならない、というのが2人の結論であった。

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