2014年4月11日金曜日

「天皇 君主の父、民主の子」

『天皇 「君主」の父、「民主」の子』(保坂正康著・講談社文庫/2月14日発行)を読んだ。昭和天皇については数多く読んでいるが、本格的に今上天皇について書かれたものは初めてである。内容については、およそ私の今上天皇に対する理解、すなわち戦後、民主主義化の象徴天皇とは何かを問い続けておられることを実証している書であった。

本書の中でも、備忘録的にエントリーしておきたい事項がいくつかある。

昭和天皇は、皇太子(今上天皇)が満十歳になられた昭和18年、陸海軍の武官に任ずるという皇族身位令第19条を無視された。東條の「士気を高めるために皇太子に軍服を着せて任官して下さい。」という申し出に、ついに頷かれることはなかった。

終戦直前、学習院の生徒たちと疎開していた日光で、(もうすでに乗る航空機はなかったので)少年航空兵たちが徒歩で爆弾をかかえ戦車に体当たりするという訓練をしていたことに接した皇太子は、軍人の講話、質問会の後、特に質問を促され、「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの?」と質問された。言下に「臣民の命をそれほど粗末にあつかっていいのか。」と言われたわけだ。

終戦直後、昭和21年学習院初等科の卒業記念に、昭和天皇は中古のカメラを贈った。新品の高価なものをもつ必要はない。中古で充分。加えて機械に関心をもって、ひいては科学を学んで欲しいという期待をもっておられたという。実際その後、学習院大学では政治経済学部に進まれた(外国訪問などの公務の関係で、結局卒業されていない。中退である。)が、ハゼの研究で生物学者として国際的にも評価を受けておられる。

皇太子は一般の国民と同様配給の食糧で生活しておられた。主食も副食も不足しており、仮寓所で自ら野菜を栽培しておられたのである。物資も不足していて、極めて質素な生活。学友宅から雛をもたって育て鶏から卵をとった経験もおありだという。こういう社会性がその後の皇太子の歩む道に大きな影響を与えた。

皇太子の中等科時代の話。英語の試験で、英単語の訳を回答する際、書いたものは全て正解。だが、自信のないものは白紙。慎重だともいえるが、確信のあることしか口にしない、あるいは答えを書かないという態度を身につけておられたのだ。有名なヴァイニング夫人は、「どちらがお好きですか?」といったいいかげんに答えていいようなことでも、真面目に考えこんだ末にきっぱりと答えられる。軽々とは口を開かない。彼女は、皇太子のこういうご性質をIntellectual honesty(知的正直さ)と褒めた。

昭和24年6月。マッカーサーと皇太子は会見。皇太子は、少年らしい威厳をもって接した。この会見録はなかなか愁眉を開く内容である。

今上天皇の幼少期の話が、特に充実していた一冊だった。

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