2022年10月12日水曜日

「彰義隊」吉村昭 Ⅱ

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輪王寺宮は、結局、会津の敗北を受け、仙台藩の勧めで帰順し、京都の伏見宮預かりになる。実家である。ひたすら謹慎。箱館戦争が終了後、初めて伏見宮(父:仏門に入っていた禅楽親王)に会い謹慎が解かれた。兄(東伏見宮)から勧められ、東京に出る。このころ、徳川慶喜も謹慎を解かれ静岡にあった。兄がイギリスへ留学した直後、有栖川宮の屋敷に移される。有栖川宮の底しれぬ怨念、悪意からである。悶々とした日々、宮は兄同様留学を願い出る。明治天皇のはからいでプロシア留学が決まる。

宮は甥にあたる明治天皇の温情を感じた。船は渡仏する西園寺公望や渡米する森有礼らと一緒でサンフランシスコ・NY,ロンドン経由でベルリンに入る。明治4年2月である。ドイツ語を修め翌年の春には精通するようになる。この間」、北白川宮家を継ぐことになった。以後は北白川宮と呼ばれる。

プロシアの軍学校の教官を招き、数学、測地学、兵制を学ぶ。8年には陸軍大学校の1期生となり、10年卒業。ベルリンを離れる。帰国した際は31歳。ちょうど西南戦争の末期である。陸軍学校に入学、勲一等旭日大綬章を授けられた。歩兵中佐、大佐となり、第一旅団長少将、大勲位菊花大綬章も授かる。中将となり大阪の第四師団長になった時、日清戦争が起こる。朝敵の汚名を晴らすべく従軍を願い出るも、当時の参謀総長は、あの有栖川宮で何の音沙汰もなかった。しかし、その有栖川宮が死んだ。「宮は、時間の容赦ない流れを感じた。」と吉村昭は表現している。なんと文学的な表現であろうか、と私は思う。

兄の小松宮が新参謀総長になった2日後、宮は近衛師団長に任ぜられる。小松宮と共に講話直後の大陸に渡る。講和会議で日本領となった台湾に不穏な動きがあり、近衛師団に投入されることとなった。宮はようやく国恩に報いる時来たれりと台湾に向かう。台湾北部から南部に向かって進軍したが、多くの兵がマラリアに感染、宮も感染する。やがて馬に乗れなく成り、竹で作られた轎に乗り指揮をとった。最後は担架で運ばれながら南下、台南の地で亡くなった。48歳だった。

…朝敵の汚名返上のための鬼気迫る死に様である。エスタブリッシュメントとして、数奇な人生を生き抜いた人だったんだと、庶民である私などは感じる。

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