2019年5月4日土曜日

M・ウェーバーの「脱呪術化」

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社会学史(大澤真幸著/講談社現代新書)の備忘録の続きである。マックス・ウェーバーの「脱呪術化」について。M・ウェーバーの有名な理論の1つに、支配の形態論がある。カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配。(これは高校の教科書にもちょっとだけ登場する。)この形態の変化は、合理性の程度が高まっているといえる。この合理性のエッセンスが、「脱呪術化」である。これは、神と人間の関係と言い換えることができる。

呪術=神強制は、神の力を利用しようとする行為で、人間が神に対して(人間の願いを神の力をもって実現するという意味合いから)優位性をもっている行為である。神が人間に対して優位であることを、決定不可能にする。「私は嘘つきです。」という命題の真偽がはかれない『嘘つきのパラドクス』と同じだというわけだ。
それに対して、M・ウェーバーによれば、宗教改革はカトリックの中に残っていた呪術的な残滓(免罪符のごとき神強制)を払拭したと考えた。合理的な宗教は、自己準拠による決定不可能性を逃れているというわけである。

ところで、M・ウェーバーは、社会的行為の四類型という理論も出している。感情的行為、伝統的行為、目的合理行為、価値合理的行為。上記の支配形態論から見ると、合理的支配が、さらに2つに分類されているのである。

さて、かの名著『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』が、カルヴァン派の予定説を根本に論じられていることは有名である。近世の富豪・フッガ-と『時は金なり』と言ったベンジャミン・フランクリンを対比して、「非生産的な時間の使用は倫理的に間違っている」というフランクリンの倫理性に着目している。資本主義の精神とは、正統な利潤を「天職(召命)」として合理的に追求する心情だというわけだ。職業を天職と見るのは、ルターから始まるらしいが、「祈りかつ働け」という修道院を世俗化したという意味合いが強い。それが極点まで高められたのが予定説を重視したカルヴァン派である。

この予定説を著者は、簡単に次のような例を引いている。試験を前に、教師が学生にあらかじめ点数を決めていることを明らかにした時、学生は学習に励むか?普通はしないだろうが、この教師が神であったとしたら、…励むというかなりの逆説である。さらに『ニューカムのパラドクス』というゲーム理論で説明している。詳細は省くが、禁欲的なプロテスタントは、超越的な神は自分たちの行動をあらかじめ知っている。その神の知っている行動に合致するように、行動することが信仰であることが証明される。神の超越性を最も厳格にとると予定説になり、完全な脱呪術化となる。

プロテスタント的な生活、計算し尽くされたような生活は、前述の「目的合理行為」であり、神は自分たちの行動をあらかじめ知っているという、予定説を信じるところ(他者から見ればたぶんに非合理的な行為)が、「価値合理行為」である。ちなみに、M・ウェーバーのもうひとつの有名な「官僚制」の話は、「目的合理行為」から導かれるわけだ。

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