2021年12月22日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー17

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longbowmen-at-the-Battle-of-Crecy-France-Hundred-Years-War-1346
百年戦争(1339-1453)が今日の研鑽のテーマである。その原因については長々と記述してきた。次に百年戦争の経過を中心に記しておきたい。

初期には、エドワード3世の王太子(つまりプリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード黒太子(こくたいし)が大活躍する。なぜ黒太子か?は、黒い鎧を着ていたからというのが多い。フランス側からは残虐行為に対して「黒」と呼んだからと必ずしも明確ではないし、存命中そう呼ばれたわけでもない。1346年のクレシ―の戦い(カレー近郊でイングランド1.2万vsフランス3-4万でイングランドが白兵戦を制した。)では16歳。この戦いでは、仏側のジェノヴァ人の傭兵のクロスボウより、英側の練度が高く1分間に6-10発撃つウェールズ人の自由農民のロングボウが圧倒した。その後仏の重騎兵部隊が突撃したが退却していたクロスボウ隊を踏み潰してしまい、しかも傾斜や人工の障害、雨による不安定な地盤で英の陣形を崩すことが出来なかった。イングランド軍はこの後カレーを包囲するがペストの流行で、一時休戦協定を結び足踏みすることになる。

その後、黒太子は、ウィンチェルシーの海戦、1356年のポワティエの戦いでは、数的劣勢を跳ね返し、フランス王ジャン2世(ヴァロワ朝第2代の王・フィリップ6世の息子:捕虜になりイングランドに渡り、1360年にブレティニー条約で子のルイが代わりに人質になったが、脱走したためやむなくイングランドに渡り虜囚のまま没する。善良王と呼ばれる。)を捕虜にして大勝利を収めた。1362年、黒太子は、アキテーヌ公に任じられたが、カスティーリャ王国の継承戦争に関与し、ナヘラの戦いでも大勝したが、度重なる戦争や王に匹敵する豪奢な生活のため財政性が破綻、1368年アキテーヌ公領に人頭税を課し不満が高まった。アキテーヌの豪族たちやアルマニャック伯がフランス王シャルル5世の管轄するパリ高等法院に提訴、出頭を命じられた黒太子は、宗主権ごと割譲されたと認識しており、「自分の好きな時に大軍を率いて出頭する」と返答、シャルル5世はアキテーヌ公領の没収を宣言、1369年百年戦争が再開された。

しかし病に臥せっていた黒太子は指揮を取れず、支配下の都市がフランス軍に奪還され1371年には本国へ帰還、弟から実権を取り戻したが、1376年死去。父エドワード3世も1377年死去。王位は黒太子の息子リチャード2世に継がれた。

百年戦争は、戦争費用を捻出するために、増税が課せられた。フランスでは1358年、ジャックリーの乱が起こる。ペストや貨幣の改悪、ポアティエの戦いの敗北などで王権は失墜しており、傭兵団による略奪が横行しフランス北東部で広範囲な農民反乱が起こったのである。一方、イギリスでも1378年、ワット・タイラーの乱が起こる。百年戦争による財政悪化と増税、ペストによる労働力不足から農奴制を強化したことなどが原因で、ロンドンの南東ケントから反乱軍が進みロンドンを占拠した。

*重要な事項(共通テスト・難関私立大入試必須)を太字にしておいたほうがいいと思うので、過去の研鑽にも遡って太字化しておくことにした。

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