2021年12月16日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー12

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94
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フランス史を遡ると、5世紀後半、ゲルマン人のフランク人(ローマ帝国時代は将軍や傭兵、執政官になった者もいる)のクロヴィス1世(キルデリク1世の息子で祖父のメロヴィングの名を王朝名とした。496年キリスト教に改宗)によってフランク王国が建てられたことに始まる。クロヴィスの死後、分割相続の習慣から4人の息子に相続され分王国はそれぞれ領土を拡大したが、その後分王国間での勢力争いが激化、その中でアウストラシア(後のドイツ)の宮宰ピピン2世が台頭する。当時唯一のフランク王・テウデリク3世を手中に収めただ一人の宮宰となり、その息子・カールは732年イスラム軍(ウマイヤ朝)をトゥールポワティエの戦いで破り、ヨーロッパでの拡張を阻止した。
しかし、未だ古代の名残を残したガリア南部ではイスラム以上の破壊を行い、神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、カール・マルテルと称された。すでにメロヴィング家ではなく彼こそが、フランク王国の事実上の支配者と見なされた。
カール・マルテルの息子たちの中で、(宮宰として)最終的に単独の支配者になったのはピピン3世で、メロディング王家を廃するために、ローマカトリック教会の権威を求め、751年、教皇ザカリアスによってフランク王に推挙され、神によって選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使によって行われた。この血統より教会の権威が勝ったことの意義は大きい。ここに、カロリング朝が成立した。ちなみに、メロヴィング朝の最後の王・キルデルク3世とその息子は剃髪され修道院に送られた。その後、有名なピピンの寄進がある。教皇領(都市ローマの宗主権+ラヴェンナ総督府領:東ローマ帝国がイタリア半島に支配していた地)の始まりである。

https://ameblo.jp/worldhistory-univ/entry-12039464226.html
ピピン3世の息子が、かのカール大帝(1世:フランス語読みではシャルルマーニュ)である。ここでも分割相続なので弟カールマン1世とフランク王国を分け合った。しかし、互いに長男にピピンの名をつけたことで反目が強まり、弟の死で単独王となり、以後戦争の日々を過ごし領土を拡大した。778年後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア北部、ザクセン人、アジア系のアバール人など46年間に53回も遠征した。一方、教皇よりも上位であることを知らしめるためにイコノクラスム論争に介入したりした。800年のクリスマスの日にサンピエトロ寺院で、教皇レオ3世より皇帝に戴冠された。また、カロリング・ルネサンスと呼ばれる面でも評価が高い。アルクィン(イングランドの修道士・神学者)をアーヘンの王宮に招き、ラテン語の教育やカロリング小文字体の普及にも努めた。

カール大帝の中央集権的な統一は分割相続によってまたもや崩れる。権力争いが再燃し、結局843年のヴェルタン条約で、ルードヴィッヒ2世の東フランク王国、シャルル2世の西フランク王国、皇帝たるロタール1世の両王国の中間部分とイタリアに分割された。中フランク王国は、さらに分割相続で3つに分かれた。その後も各国で分割統治が進んだが、870年のメルセン条約で結局フランス、ドイツ、イタリアの原型が形成された。ところで、このメルセン条約で揉めたのは「ロレーヌ」で、結局両者間で分割された。…仏独の領土的揉め事であるロレーヌ(有名な鉄鉱山がある。)は、この時代から存在していたわけだ。

東フランクはカロリング家の支配が維持されたが、西フランク王国は地方分化が進み弱体であった。887年、カロリング家のシャルルを抑えて、ノルマン人を撃退したパリ伯カペー家のユーグ・カペーが王に選出される。以後カロリング家から王位に選出される者は出ず、断絶と見なされている。

さて、やっとイングランドのジョン王とフィリップ2世の話に戻れるわけだ。フィリップ2世はカペー朝の二代目である。

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