2021年12月15日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー11

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今回の研鑽は、イギリスとフランスの関係を主にしたい。まずは、イギリス史を遡る。そもそもブリテン島にB.C.7世紀頃、ケルト人が鉄器と共に流入したらしい。B.C.55年にローマ帝国のユリウス・カエサルが侵入、43年には皇帝クラディウスによってブリテン島の大部分が占領された。ケルト人の侵入を防ぐための長城が建設され、この地域をブリンタニア、また在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。(→ブリテン)また支配のためのロンディニウム(→ロンドン)と呼んだ。5世紀にゲルマン人の侵入が始まり、ローマ帝国は混乱、ブリタニアでの植民をあきらめ引き返した。449年にアングロ・サクソン人が侵入をはじめ、在地のケルト人は征服され同化し、一部は南西部のコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出された。

アングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)は7つの王国を建設し覇権を争った。これを七王国時代と言うが、当初アングル人の王国が有力だったので、ローマはアングリア(アングルア人の地)と呼び、それがアングロサクソン風に言うと「イングランド」となった。8世紀には、アングル人の王国マーシアのオファ王がフランク王国とシャルルマーニュと対等に渡り合い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いたが、統一を果たしたのは829年、サクソン人のウェセックス王国のエグバート王である。(イングランドの統一)

ここに、デーン人(ヴァイキング)が侵入、(ウェセックス王国の)アルフレッド大王はこれに立ちはだかり撃退したが、1016年にはデンマークのクヌートにより当時のエドマンド2世・剛勇王が破れ、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立した。

一方、9世紀にノルマン人がフランスに侵入、ノルマンディー公国(911年にサン=クレール=シュール=エプト条約で西フランク王国のシャルル3世=単純王の譲歩によって、ノルマン人の首長ロロに与えられた。)

北海王国のクヌートの死後、アングロサクソンによる王朝ウェセックス家のエドワード懺悔王が共同統治者(クルートの息子・ハーディカヌートに招かれた)となり、さらに1043年、ハーディカヌートの死後、イングランド王として戴冠した。しかし、修道士の心情をもっていて無為無策だが、ウェストミンスター寺院の基礎をつくった聖人とされているエドワードの死後、王位に就いたハロルド・ゴドウィンソンに対し、1066年、ノルマンディー公ギョームとノルウェー王ハーラル3世が異議を申し立て、ヘイスティングスの戦いで勝ち、ギョームはウェストミンスター寺院でイングランド王に即位、ウィリアム1世を名乗った。これによりアングロサクソンによる王位は途絶え、征服王朝としてのノルマン朝が成立する。これが、ノルマン・コンクエストである。征服王朝であった故に絶対王政が最も早く確立した原因であるとともに、ギョームは、イングランド王としてフランス王と対等であり、ノルマンディー公としては臣下という奇妙な立場になる。これが後(1337年-1453年)の百年戦争の遠因となる。

ノルマン朝は、わずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、1154年フランスのアンジュ―伯家からヘンリー2世が迎えられた。これがプランタジネット朝である。イングランド王・ノルマンディー公国に加え、アンジュ―伯領も得たわけで、フランス王からすればさらに複雑な関係になった。次の王、リチャード1世は、第三回十字軍に参加した。第3代の王がかのマグナカルタのジョン王(欠地王:兄たちに所領が分配された後領地が残らなかった故)で、フランス王フィリップ2世(尊厳王)との抗争に敗れ大陸領土のほとんどを失った。この抗争は教皇インノケンティウスを巻き込んでかなり複雑なので…つづく。

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