2021年12月28日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー21

https://blog.goo.ne.jp/daimajin-b/e/7540165ffe0120fdaa1371118913d946
山川の世界史Bの教科書には、次のようにある。「これまで述べてきた国(英・仏・西・葡)とは逆に、政治的分裂と不統一が深まっていったのが神聖ローマ帝国である。ここでは大諸侯の力が強く、また自由都市もこれとならぶ独立勢力となる一方、歴代の皇帝はイタリア政策を追求して国内を留守にしがちであったため、帝国の統一がおぼつかなかった。シュタウフェン朝が断絶した後、政治的混乱は、事実上皇帝不在の大空位時代のときに頂点に達した。その後も皇帝権力はふるわず、皇帝カール4世は1356年に金印勅書を発布して、神聖ローマ帝国の皇帝選挙の手続きを定め、皇帝選出権を聖俗の七選定侯に認めた。」

今日の研鑽は、この内容を深めたい。前述の東フランク王兼イタリア王のオットー1世の戴冠が神聖ローマ帝国とされる。とは言っても教会の保護者・西洋世界の普遍的支配者たるローマ皇帝で、ゲルマンの風習から選挙王制であったが、ザクセン朝(オットー1世以来の家系)・ザーリアー朝(カノッサの屈辱のハインリヒ4世が出た)・シュタウフェン朝(フリードリヒ1世:バルバロッサが出た)では事実上の世襲制であった。オットー1世の父ハインリヒ1世は、分割相続制を否定、オットー1世自身は地位を世襲しない聖職者に注目し、帝国内の教会を官僚組織として統治機構に組み込んだ。(帝国教会政策:要するに次男や三男を聖職者にする政策)しかし、教会の人事権を握る事態が教会からの反発を招き、歴代皇帝(イタリア王を兼ねている)は、教皇とイタリア都市国家を牽制するために戴冠式を兼ねてイタリアの進駐した(これがイタリア政策である)。叙任権闘争でカノッサの屈辱以後、教皇派と皇帝派に分かれていた諸侯は、教皇派が強くなり、皇帝権は徐々に弱まった。

1209年ヴェルフェン朝になる。フリードリヒ2世は、諸侯の特権に法的根拠を与え支持を得るとともに各々の領地の経営に専念させた。東方移住が促され、1226年プロイセンのキリスト教化のためドイツ騎士団国を建国した。しかし、十字軍出兵を渋りグレゴリウス9世から破門され、第5回十字軍でもイェルサレムを奪還しながらもイスラムと戦わなかったとして非難されたのは前述。ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国は元のゲルマンのみになって、中世的封建制帝国から近世的領邦国家へと長い時間をかけて変わっていく。1356年、カール4世は、金印勅書を発布し、ローマ王は7人の選帝侯による過半数の得票で選出すると定められた。選帝侯には多くの特権が与えられ両方分裂体制が固定化する。7人の選定侯は、マインツ大司教、ケルン大司教、とりーあ大司教、ライン宮中伯、ブランデンブルグ辺境伯、ザクセン大公、ボヘミア王である。

フリードリヒ2世の死去した1250年または1254年や1256年から、ハプスブルグ家のルドルフ1世が国王に選出された1273年までを大空位時代(王はいたものの権力がなかった期間)と呼ぶ。1272年、弱体な君主を望む諸侯は、当時弱小だったハプスブルグ家のルドルフ1世を王に選出した。しかし、彼は残されていた王権を利用し一躍大諸侯の一角に押し上げた。スイスからオーストリアに軸足を移し、オーストリア公として着実に勢力を伸ばしルドルフ4世は大公を自称した。1478年にアルブレヒト2世が継いで1440年フリードリヒ3世がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化する。(それまでは跳躍選挙で国王は一代限りだった。)1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇に戴冠を受けずに工程を名乗り始め、婿入りの形で当時ヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ家に入り、ブルゴーニュ領・ネーデルランドを得、さらにその子世代の婚姻関係でスペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世下でヨーロッパの一大帝国を現出させることになる。

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