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| https://www.youtube.com/watch?v=GCACD4tmYlU |
神は現実的無限、無限集合である。したがって、神の本質も神の実存(=キリスト)も神の活動(エネルゲイア)も無限集合であらねばならない。神を集合論的に区別すると、Aと述語づけられるキリスト、Bと述語づけられる聖霊と、Aでなく、かつBでもない神自身に区別される。神の本質という無限集合が3つの部分集合に分割されていると考えられる。したがって、「無限においては、部分と全体が等しい。」あるいは、「無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。」という第一命題(=三一論)が帰結される。
神の本質と活動の関係において第二命題「無限においては、部分の総和が全体を超える。」が適用できる。神の本質は、自己の活動(自己自身)をも超越するという命題が帰結され、人が神になること(パラミズム:14世紀の聖グレゴリオス・パラマスによる、神の本質を直接知ることは出来ないが、聖霊/エネルゲイアによって神と交わり一致することができるという教義)が証明可能である。
著者はここで、「およそ全ての宗教は、神あるいは仏の多一性や自己超越性を言明する教理を保持している。集合論が明らかにしたことは、むしろそれぞれの宗教の地域的、歴史的な言語表現の差異の深層に隠された、その構造の同型性、共通性である。集合論は、宗教の命題を数学の言語で表現することによって、それぞれの宗教に共通する普遍的な構造を暴き出すのである。」と記している。
…この数理神学から導かれた「宗教に共通する普遍的な構造」については、実に興味深い主張である。以後、比較宗教学的に、詳しく検討したいところだ。
この後、著者は集合論が、それ自体証明されない公理系を前提に成立していることを明かす。公理系は証明不可能であるから、合理的議論の対象ではなく、自由な選択の対象である。信仰の自由とは、個々の宗教を命題を選択する自由ではなく、その公理系自体を選択する自由である、としている。公理系の内容は、大学数学の範囲(画像参照)で、私の理解力をはるかに超えているので割愛したい。
…これで、3冊の書評を終えた。正教会の特徴はおよそ、神と、人となったイエス・キリスト、神より与えられる聖霊の至聖三者(=三一論:カトリックの場合は聖霊がキリストからも発せられるので、はっきりと相違がある。)がそれぞれ位格をもっており、特に聖霊は神のエネルゲイアが、信仰者に神との交わり・一致(”神になる”と表現されるが、神の本質には至らない。)という東方ゆえの特徴(仏教等の影響)をもっている。また、イエス・キリストの位格は、ロゴスであり、冒頭でロゴスについて語られるヨハネの福音書の影響が強く見られる。カトリックでは、クリスマスのミサにヨハネの福音書の冒頭を朗読するが、正教会では復活祭のミサで朗読される。このことは、クリスマスより重要な復活祭で朗読する正教会のほうが、ヨハネの福音書を重視しているという証に他ならない。(学院は、カトリックの学校で宗教という教科もあるので、この辺は公立の高校より理解度がそもそも高い。)
…今年度の地理の授業で、1学期後半に比較宗教学的な一神教の対比(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教のカトリック・正教会・ルター派・カルバン派・英国国教会のハイチャーチとローチャーチ)を行ったが、来年度はさらに深く理解した立場から論じることができそうである。ただし、大学の数学まで登場する集合論(数理神学)まで話すことはないだろうと思う。(笑)



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