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| https://www.nikkei.com/article/DGX ZQOUD302VD0Q5A131C2000000/ |
正教徒の神学は、多くの面で象徴的(直接的な言明ではなく絵やイメージを通して神に触れる)である。だが、象徴性は神の超越性や「他者性」を伝えるには不十分である。「戦慄(畏れと驚異の感覚:ヌミノーゼ)すべき神秘」を指し示すためには、肯定的言明とともに否定的な言明(神は~であるではなく、神は~ではないという言明)が必要である。この正教会の否定的言明は、実のところ超肯定であり、全ての言語や思考を超えて、生ける神の直接体験に触れてゆくように促す。これは「神秘」という言葉が意味する真実である。隠されているだけでなく、顕されていることを意味する。
神への信仰は、ユークリッド幾何学で得られる論理的な確実性のたぐいとは全く異なる。神を信じることは、理論上の議論で照明されたから神の存在の可能性を受け入れることではなく、私たちが知り、愛する「お方」に信頼を置くことである。信仰は、仮定ではなく確信である。
(隠されているが、顕される)神の人間への関わりを示すため、正教会の伝統は、神の本質と、すなわち神の「本性や内的あり方」と、神の「エネルギア」(その作用や力の働き)を区別する。神は、本質によっては他者であり、エネルギアによっては近づき得るものである。正教会がエネルギアと呼ぶものは、神の働きとして神の全てを指し示す。(神から放出されるものでも、モノや賜物でも、仲立ちでもない、一部分でもない。)神の本質とエネルギアを区別することで、神と人間の直接あるいは神秘的な合一の可能性を確信できる。これをギリシア教父たちは、人間の「神化」と呼ぶ。しかし同時に汎神論的な同一視は排除される。人は神のエネルギアに与るが、本質はわからない。一ではあるが、融合や混同はない。神と一つになったとしても、人は人であり続け、「我と汝」のペルソナ(人格)的関係が保たれる。
…ここでも、神との合一という概念が登場する。ただし、エネルギアによって、であり神の本質を理解し合一できるというのはないわけである。かなり微妙で理解できるような出来ないような…。私は異教徒であるので、エヴァグリオスの箴言にあるように理性で理解しようとしてもできるわけないのは当然か、と思う。ところで、今日の画像は、ギリシア演劇によるペルソナの画像である。昔々、ペルソナを題材にして、一連のパフォーマンスを脚本・演出したことがある。ペルソナはラテン語で、人格を意味すると同時に、ギリシア演劇における仮面を想起させる。なつかしい語彙である。



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