2021年12月6日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー3

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神聖ローマ帝国について今日は記しておこうと思う。10世紀の初め、西ヨーロッパでは、ヴァイキング・マジャール人・アラブ人などの外敵の侵攻によって、破壊された修道院や教会の再建が大きな課題になっていた。そこで、ブルゴーニュ地方に死後の魂の救済に欠かせない修道士の祈祷を重視するクリュニー修道院が創設され、周辺の諸侯の土地の寄進(昨日記した耕地と農民のセット)を受けた。この改革は各地に飛び火し、王侯の支援や教皇の庇護を受け、一大改革運動となっていく。これが、ひとつの背景である。

クリュニー修道院創設の翌年の911年に、東フランク王国のカロリング家の男子血統が途絶えた。王国分裂の危機の中、ザクセン大公のハインリヒ1世がマジャール人への対策を期待されて国王に推戴された。オットー朝あるいはザクセン朝と呼ばれる。955年、その長男のオットー1世がマジャール人を打ち破り、さらにローマ教皇の要請で救援に応えたオットー1世は、962年、長らく空位であったローマ皇帝に加冠される。これが神聖ローマ帝国の始まりとされる。

さて、オットー1世は、他の君主同様首都を定めず、当地領域を宮廷とともに移動する「移動宮廷」(巡幸王権)を基本としていた。その理由の1つは、王位の承認(王としての資質を全人民に示し、隊列を組んで都市に入場し王国会議や教会会議を主催、また裁判を行う)ことであり、理由の2つ目は、徴税システムの問題である。王の財政は自らの領地からのもので、一方臣民には王への饗応義務があり、数百人に及ぶ巡幸要員の宿泊・食事・人馬を提供する必要があった。王の宮廷は、権利を行使しながら各地の問題を処理し、戦争を控えている時には提供される兵士を集め戦場に向かった。この移動宮廷は、実際には極めて効率的な統治手段だったわけだ。

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