2021年12月30日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー22

シチリアの晩梼 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Francesco_Hayez_023.jpg
先程まで三崎支所で開塾(前半担当)して、地理Bを理系の受験生2人に教えていた。今日はイタリアの歴史について研鑽したい。世界史Bの教科書には、「イタリアはドイツ同様中世末期には多数の国、諸侯、都市にわかれていた。南部では両シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国に分裂し、中部の教皇領を挟んで、北部ではヴェネチア・フィレンツェ・ジェノヴァ・ミラノなどの都市国家が分立していた。神聖ローマ帝国がイタリア政策によって介入してくると、諸都市内部で教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)がたがいに争い、国内統一をさらに困難なものにした。」とある。少し時間軸を戻して研鑽を進めたい。

476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられた。オドアケルは西皇帝の帝冠をコンスタンティノープルの皇帝ゼノンに送り、西ローマ帝国は廃止された。5世紀、東ゴート族のオドリックがゼノン帝の命を受けオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国。シチリア島・サルデーニャ島、コルシカ島はアフリカからのゲルマン人ヴァンダル族に征服される。6世紀、(東)ローマ帝国皇帝ユニティアヌス1世は軍を派遣、ヴァンダル族を滅ぼし、552年イタリア全土をローマ帝国領とした。しかし、568年、(ゲルマン系で当初ローマ帝国に協力した)ランゴバルト族のアルボイーノが北イタリアに侵入、南端を除くイタリア全土を征服しランゴバルド王国(英語ではロンゴバルド=ロンバルディア平原の語源)を建国。ただし、ローマ帝国の総督府のあったラヴェンナから教皇のいるローマにかけての細長い部分は8世紀末まで征服できなかった。これが後の教皇領となる。以後、774年にカール大帝によって滅ぼされるまで約2世紀続くが、安定して統治されていたわけではなく、諸侯の力は強く、7世紀にはローマの伝統を受けいれ、一部がキリスト教に改宗したが宗教的民族的対立は解消されなかった。イタリア分裂の端緒となる。

ランゴバルド王国以後は、ローマを中心とする教皇領、北イタリアのイタリア王国(843年のヴェルダン条約でカロリング朝西ローマ帝国の一部となり、951年オットー1世がイタリア王を兼ねた。)、ヴェネツィア共和国、南イタリアに四部される。10~12世紀は皇帝の定めた法が効力を発揮していたが、11世紀以後神聖ローマ皇帝と教皇の対立が激しくなり、しばしば戦場となった。ミラノ公国やフィレンツェ共和国などの都市国家が海運や商業によって繁栄、12世紀にはロンバルディア同盟(教皇派)を組織、イタリアでの実権をフィードリヒ1世(バルバロッサ)から守り抜く。ヴェネツィア共和國は、ビザンツ帝国の飛び地として始まり、金印勅書を得て名目上も独立。南イタリアは、9世紀から12世紀までアラブ人の侵略にさらされていたが、教皇の求めでノルマン人ヴァイキングがこれらを征服、1130年オートヴィル朝シチリア王国が成立。13世紀、神聖ローマ皇帝とシチリア王家の血を引くフリードリヒ2世はイタリア半島統一を目指すがロンバルディア同盟などの反抗で果たせず、教皇はさらにフランスの手を借りて対抗した。ルイ9世の末弟シャルルは、フリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シチリア王カルロ1世となった。1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民による「シチリアの晩梼(ばんとう:夕べの祈り)」と呼ばれる暴動を起こす。(この時の合言葉「Morte alla Francia Italla anela」(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)がマフィアの語源との説もある。)シャルルはナポリに追放され、シチリアはアラゴン王のペドロ3世に庇護を求めた。この結果、シチリア王国は分裂。半島側はナポリ王国と呼ばれることになる。

…この「シチリアの晩梼」は、1282年3月30日の復活祭の翌日の月曜日で教会の前には大勢の市民が晩梼(夕べの祈り)を行うために集まっていた。彼らが暴動を開始した時に晩梼のを告げる鐘が鳴ったことからきている。そもそも、シャルルは、教皇と組んで東ローマ帝国の征服を計画しており、住民から強引な食料や家畜の搾取を行っていた。そこにアンジュ―家の兵の一団が住民の女性に暴行したことがきっかけで、4000人ものフランス系住民が虐殺された。また遠征用の鑑定も多数が破壊された。教皇マルティヌス4世は十字軍の妨害をしたとして全島民を破門したが、アラゴン王国のペドロ3世(シャルルに敗死させられた前王マンフレーディの娘婿にあたるし、)が上陸王位を宣言した。教皇マルティヌス4世はペドロ3世を破門、彼を支援したビザンツ帝国皇帝ミカエル8世も破門した。さらに後日談、翌年カルロ1世は、ペドロ3世に手紙を送り、ボルドーでの決闘を申し込んだ。(結局仏に入国したが決闘はしていない。)

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