2019年1月14日月曜日

巨星 梅原猛氏 墜つ。

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梅原猛氏が死去した。梅原氏は、高校時代の私の進路を示した人物である。2017年3月16日付ブログ「40年前の私が考えていた事」参照。私の人生に大きな影響を与えた書物はいくつかあるが、その最初の1冊が梅原氏の「哲学の復興」であることは間違いない。

改めて、現在の状況下で、仏教思想こそが世界をリードすべきであることを今日は大まじめに記しておきたい。

まず西洋哲学の現在を概観したい。氏は、「哲学の復興」デカルトの二元論などの近代を形成した西洋哲学を批判的に見ていた。西洋哲学は、基本的にキリスト教を土台としている。神と人間の二元論も、自由な個人と不自由な共同体という社会の二元論も、理性と物体という二元論も、資本家と労働者という階級の二元論も、全て同じ土俵の上に築かれている。

フランスの現代思想は、ポストモダンの現在を的確に預言したと私は思う。ドゥルーズの預言どうり、これまでの社会のコードは喪失し、いまや完全にスキゾな状況下にある。フーコーの預言したとおり、権力による知の独占もしかりである。しかし、預言が的中したからと言って、何も変わらない。ロゴスやコギトや神の存在をいまさら否定しても何も変わらない。西洋哲学の限界は明らかである。

中国思想、特に儒教の仁や義は日本にのみ精神性として残存しているが、死を想定外においた孔子は、所詮仏教の足下に及ばない。仏教の慈悲は、仏の慈悲であり、儒教的な家族への心情を遙かに超えた愛である。キリスト教の神の愛(アガペー)は、二元論的な立場から捉える限りにおいて、仏教の慈悲にはかなわない。自己と他者が二元論的に存在する中で、これは隣人愛にはなりえない。仏教の慈悲は自己と他者の区別はない。自己即他者、他者即自己である。この仏教的な不二の発想こそ、構造的暴力に彩られた世界の中で、持続可能な開発を可能にする。

なんとかファーストなどといった狭い自己利益重視のスキゾな世界は、所詮六道輪廻を超えることはない。これらを俯瞰した仏教思想こそが未来を指向できると私は今も確信しているわけだ。

仏教が最強の思想だと信ずるも、私は同時に他の思想を否定するつもりはない。仏教的な思想の一部を語るものもある。梅原氏が追求したハイデッガーや、サルトルも仏教的な発想を共有している。また梅原氏の愛した京都学派の西田幾多郎は、仏教を西洋哲学的に論じたわけだが、純粋経験というコトバより、仏教的な言い回し(たとえば仏性)の方が分かりやすいと私は思う。西田の努力は認めるけれど、だから何なんだというのが実感だ。

地球市民は、仏教的な平等大慧の仏性から出る慈悲を根本に、あらゆる民族的な差異を乗り越え、理解し、持続可能な開発を進めるのが最も良い。私の哲学的結論はここにある。

巨星・梅原猛氏に対して、はなはだ失礼な追悼文になったけれど、氏のおかげで今の自分があるという「縁起(因縁)」は、たしかに今も強く認識させていただいている。心からお礼を述べたいと思う。…梅原氏への供養として。

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