2022年2月1日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー44

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周が東西に分かれた前771年から(東周に統一された20年後も含めて)山西省一帯を占めていた「晋」が三国に分裂した前5世紀までのおよそ320年間を(周代に成立した儒家教典の歴史書の名を取って)春秋時代としている。

東周となった頃には、往年の勢力も衰え、割拠する大小合わせて200以上の諸侯は独立状態となり、自国存続と他国の克服を目指して互いに争うようになった。しかしなお周王の権威は以前重視されており、周王の名代として諸国を束ねる「覇者」の座に就くことが諸侯の目標となった時代である。尊王攘夷の語の源はこの周王朝を尊ぶにある。

周の東遷に大貢献した鄭の武公の子・荘公の時代、周王(桓王)に疎まれ、討伐を受けるがこれを撃退した。この時に追撃すべきとの家臣の進言に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。鄭は王室直属の卿士の家柄であったが、所領は狭く国力は中の下といったところ。これ以後、各諸侯は独自の動きを始めるようになった。

その鄭がやがて衰え、東方の「斉」(太公望を始祖とする)と南方の新興の「楚」が勢力を伸ばし、中原の小国は楚の威圧に怯えていた。斉の桓公は、楚に対し周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸国間の盟主となった斉の桓公は前651年、会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により、桓公は覇者と呼ばれ春秋五覇の第一に数えられる。しかし、斉の覇権は中原(黄河流域)に留まり、長江流域に勢力圏を持つ楚を止める力はなかった。

宰相の管仲を失った斉は覇者の座から転落し、「宋」(殷の遺民)の襄(じょう)公が次を狙うが失敗、楚と前638年に決戦(泓水の戦い:おうすい)を挑むも、敵に情けをかけた結果大敗(宋襄の仁)した。その後、北の大国「晋」の文公が第二の覇者となる。文公は周王室の内紛を治め、楚との城濮(じょうぼく)の戦いで大勝し、周王を招き会盟を開き覇者となった。さらに、「楚」の荘王春秋の五覇に数えられる。楚は周から封建された国ではなく、実力によって湖北・湖南を抑えて立国した。後に子爵の位を周より授かるが、国力に対して位が低いと王を名乗る。鄭の都を包囲、救援にきた晋を邲(ひつ)の戦いで大破した。この邲の戦い以後諸侯同士の争いは少なくなる。諸侯の下にいた太夫・士の中級から下級の貴族階級が勃興し。彼らに諸国の実権が移り、各国内での争いが忙しくなったからである。伝統的な身分制度が崩壊したことが、孔子の学の源になったと考えられている。

こういった背景から、前546年に弭兵(びへい:戦いを止めるの意)の会が晋と楚の間で行われた。一方でそれまで国政の座につくことのなかった出自の者も多く出てきて、斉の晏嬰(あんえい)などの名宰相が現れた。また鄭の子産(しさん:中国初の成文法を制定)、魯の孔子などが活躍する小国外交も行われるようになった。

春秋時代後期、長江流域では、呉と越という2つの新興勢力が台頭する。製鉄の先駆地域で鉄器生産が行われていたことも大きいが、人的に呉は闔閭(こうりょ)・夫差という君主に名臣・孫武伍子胥が、越には句践という君主に名臣・范蠡がつき、抗争を繰り広げる。呉は楚の首都を陥落させ、さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出、諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により滅亡する。臥薪嘗胆の故事である。「臥薪」は呉の闔閭が越の攻撃を受け死んだ後の夫差、「嘗胆」は越の句践が呉に敗れ、夫差の馬小屋の番人になり、許された帰国後の故事である。

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