2022年2月22日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー53

https://www.myworldhistoryblog.com/entry/koubunnt 孝文帝
三国時代の後は、中国史の中でも最もややこしい時代である。今回も「なぜ?がわかる世界史」をもとに、研鑽を進めたい。

魏の大将軍の司馬懿(い)は、蜀を撃退し(263年に滅亡)、遼東半島の公孫氏を滅ぼし、朝鮮半島まで魏の領地を拡大した。(この頃、三国志の中の魏志倭人伝に邪馬台国の話が出てくる)代々の皇帝に力がなく、司馬家に政治の実権を奪われ、司馬懿の孫・司馬炎に皇帝の座を奪われ、魏は45年で滅び、晋(西晋)が建国された。280年、晋は、呉を滅ぼし中国を統一した。司馬炎が亡くなる(290年)と、8人の王族が帝位をめぐって争う。(八王の乱)王たちは、戦力強化を図るために、騎馬遊牧民を自軍に引き入れたが、これがミイラ取りがミイラとなり、晋の王族に招かれていない部族も華北に入り、大混乱の中で晋は滅亡し、華北の豪族は華南へ逃れた。

この時に入ってきたのが、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)で、氐・羌はチベット系、鮮卑はモンゴル系、匈奴は民族系統不明で、羯は匈奴の分派であるらしい。華北は、これらの民族の国が分立した。これを五胡十六国時代というわけだ。

一方、華南に逃れた王族の一人・司馬睿(えい)が東晋を建国する。(317年)華南にはまだ開発可能な土地もあり、北から逃れてきた豪族に割り当てたが、呉をかつて支えた土着の豪族との微妙なバランスの上で政権運営をしていた。しかも、北からの侵攻もあり、常に軍事力の強化が求められたので、必然的に軍人の発言力は大きく、(420年)(せい:479年)(502年)(557年)と軍事クーデーターによる王朝の交代が繰り広げられる。宋から陳までを南朝と呼ぶ。

五胡十六国の混乱の中で、徐々に勢力を拡大したのが、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)がたてた北魏(386年)である。439年、太武帝の時に華北を統一した。北魏は、華北に残っていた漢人豪族と婚姻関係を結ぶなど、協力関係を結び、第6代の孝文帝は父系が鮮卑族だが母も祖母も漢民族で、漢化政策(首都を南部の洛陽に移し、宮廷での鮮卑語の禁止、中国風に改名等)を推し進めた。北魏以降、隋、唐にいたるまでこの拓跋氏の人脈をうけついでおり、中国文化は遊牧文化と漢人文化が相互浸透していく。

北魏の時代、北方守備のため、辺境に鎮と呼ばれる6つの軍団がおかれていた。孝文帝の漢化政策で待遇が悪化したため、反乱が起こり、北魏は、東魏(534年)と西魏(535年)に分裂、その後有力軍人のクーデターで、東魏は北斉(550年)、西魏は北周(556年)と王朝が変わる。この北魏から、東魏、西魏、北斉、北周までを北朝と呼ぶ。この時期が南北朝時代である。

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