2022年2月8日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー48

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秦の統一が今日の研鑽のテーマである。今回も「なぜ?がわかる世界史」を中心にエントリーしていきたい。ちなみにこの本は、物語風で実に読みやすい。

秦が統一できたのは、下部構造的には西にあって国土を開発する余地があったこと。(中原の韓・魏・趙などは分化が進んでおり、人口が多いが面積は小さかった=開発の余地がなかった。)法家を採用したこと。商鞅の後、李斯(韓非子の韓非も秦に来たが李斯に殺される)が活躍した。秦王の政は、周と比較にならないほどの領土を得たので、皇帝という称号を創作し、始皇帝と称した。(以後二世皇帝・三世皇帝と名乗るよう定めた。)統一直前、暗殺未遂事件(燕の大子の依頼で荊軻が、秦の亡命将軍の首と燕の地図の中に隠した短刀を持って謁見、切りつけたが失敗王は長い権を持っていたが抜けない。「王よ背負われよ」の声で鞘が落ち、反撃に出て無事だった事件)も起きる。

秦の統一後の政策は、郡県制による中央集権、文字の統一(秦で使われていた篆書。ここから後に楷書・草書に発展)、貨幣の統一、度量衡の統一、車軌(しゃき:戦国時代は各国がわざと車軌を変えて敵の侵入を防いでおり、交通の障害となっていた。)、焚書坑儒などが有名。外交政策では、匈奴への討伐軍派遣、ベトナム北部に南海郡など三郡を置いた。

民衆の不満を高めた造営事業は、それまでの北方の各国が造営した城壁を万里の長城(現在の長城は明代の修復によるもの。)として繋げたこと、始皇帝の陸墓・驪山陵(りざんりょう:兵馬俑抗で有名だが、8000体の人形は全国の陶工により一体一体作られている。)も壮大な規模。さらに始皇帝専用の道(幅70mで中央に一段高い幅7mの専用道)が造られた。驪山陵だけでも70万人が徴用されたとされる。

その他、始皇帝は不老不死の薬を求めて徐福を派遣したり、水銀を呑んだりしていたようだが、前210年全国巡遊中に死去する。宦官の趙高は、同行していた末子の胡亥にのみその死を知らせ、匈奴征伐中の長男(遺書には後継者とされていた)には戦果を挙げていないので自死を命じる偽りの手紙を送り、死臭をごまかすため干し魚を積んだ専用馬車の左右に伴走させ山東省から咸陽(西安近郊)まで戻った。李斯もこの陰謀の仲間に入り、胡亥を二世皇帝として即位させた。馬鹿の故事が生まれるわけだ。馬鹿な皇帝と腐敗した宮廷はあっという間に反乱で滅亡することになる。

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