2022年8月25日木曜日

中国の社会類型の変化 考

中国の華南地方の治水・ガバナンスは狂っているようだ。大洪水が起こったと思ったら、今度は渇水である。おそらく農業被害が深刻で、中国の輸入が増大し、世界的な農業生産物に影響(高騰)が出るだろうと言われている。まずはトウモロコシの不作がささやかれているようで、畜産物にまで影響が出る可能性が高い。その理由は、長い歴史の中で作られてきた”ため池”を地方政府が埋め立て、今崩壊が噂されている不動産ディベロッパーに賃貸して開発を進め、収益を得ようとしたかららしい。中国には、全く”経世済民”の意識がない。

中国の社会類型は、ヨーロッパの自由な個人と不自由な共同体という二分されたピラミッド型のちょうど逆である。中国は、隋以来儒家を学んだ士大夫が皇帝を支える官僚として政治を動かしてきた。中国の支配層・不自由な共同体の誕生である。不自由の意味は、儒家思想に縛られ君子たることを強要されていることと、一族への(開発経済学で言うところの)”情の経済”に縛られる故であろう。一方、ヨーロッパとは反対に一般の人々は自由な個人である。儒家の本質は、「廊下を走るな」である。つまり学校によくある注意書きで、廊下を走る者がいるから、そういう必要性が生まれるわけだ。家族や一族の愛・思いやりは強いが、他にはない。だから仁が説かれたのであるし、義も礼も同様だ。巨大な人口圧による利己主義的カオス社会=自由な個人の集合体への押し蓋の如き倫理思想が必要だったのだ、といってよい。

中国では、自由な個人の例はいくらでもある。誰かが新しい商売でうまく儲けたら、みんなが飛びつき過当競争にすぐなるのが今の中国だ。平気でマンションのコンクリートにゴミを混ぜるし、食品にも何が入っているかわからないと一般大衆は恐れている。法は抜け穴を探すものという感覚である。自由を通り越して、まさにカオスである。今や支配者側も、それ以上にやりたい放題であるといえる。

隋以来の伝統は、1949年以降はどう変化したのか。少なくとも鄧小平くらいまでは、儒家でなくとも、マルクス=レーニンをフランスあたりでしっかり学んだ幹部もいたのだろうが、今やほとんどの中国共産党員は、”プロレタリア独裁”のプロレタリアの意味を知らないのではないかと思ってしまう。ノーメンクラツーラによる独裁だけが、スターリン的に拡大解釈されて、不自由な共同体が長く支配していた中国は、自由な独裁者たちが、(ある意味公安や暴力的な支配を受けているので不自由さは増したと思われるが)自由な個人を支配している社会類型になっているようだ。…ホント、もうどうしようもない。

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