2016年6月12日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」7

http://iers.grial.eu/modules/introduction/islami/islamindex-7.html 12人のイマーム
エントリーも、いよいよ第3章に入ろうとしているのだが、このあたりはシーア派の話で盛り上がるところである。橋爪氏が、さらに中田氏に、イスラムにおける神とのコミュニケーションの件で問いただす。ムハンマドの後に誰かが神の声を聞くということことを中田氏は否定はしなかったけれど、仮にあったとして、それが人々に正しく知られることなどないと思うのだが如何?なぜなら、クルアーンとハディース(ムハンマドの言行録)がイスラムの人々が承認する権威である、この権威に対する挑戦となり、まずいのではないか?というわけである。

これに(スンニー派の)中田氏は、普通ハディースは預言者ムハンマドの言葉だというふうに言うのだけれど、実はシーア派(イランに多い十二イマーム派)だと、ハディースは預言者ムハンマドではなく、イマームたちの言葉だということになる。十二イマーム派では、パブリックでオフィシャルに、12人のイマームは新しい法はもたらさないけれど、預言者と同じように神から特別に選ばれた、一時代にひとりだけの正しいイスラームの解釈ができる人間であると信じられている。だから、シーア派ではムハンマドの死後、ハディースと並ぶ権威が生じてしまっている、と答える。

これに、橋爪氏が「それはとんでもない連中だな。そういうのはいてもいいけど、スンニー派とは一緒になれないですね。」と述べている。これに中田氏は「と、いうふうに言っているのがISの人たちですね。これは非常に問題の根が深いのです。なかなか簡単に解決できる問題ではないのですね。」と応じている。このあたりの二人の応酬が面白いので、さらに引用したい。橋爪「イスラムの根源にさかのぼる話であって、ちょっと意見が違うとかそういうレベルじゃないですね。」中田「その通りです。だから、アメリカとの関係なんか、政治的な問題で何とでもなるんですけれど、こちらの問題は本当に根が深い。」橋爪「イスラエルと仲良くなることはあるかもしれないけれど、スンニー派と十二イマーム派が仲良くなるなんて、ありえないでしょう?」中田「ISは、まさにそう言っているんですね。それで血で地を洗う抗争をしているわけです。しかも地理的に、ISの支配するイラクの横に十二イマーム派の中心イランがいるもので、もうこれはどうしようもないという話なんですね。本当はシーア派の方がスンニー派に非常に敵意を持っています。これはマイノリティだからですね。スンニー派は基本的に、この世ではそういうことは放っておいて、というか後回しにして、とりあえずと協力していきましょうという立場です。」と、スンニー派とシーア派・十二イマーム派の相違点が、イスラムの根本に関わる問題であることが語られ、やっと第3章に入るのである。

第3章に入って橋爪氏がこの12イマーム派が勢力をもった理由に対して質問を投げかける。これに対して、中田氏はアリーが預言者の一族で非常に尊敬すべき人であったということは確かだと述べる。その上で、イスラームは、あまり人々の内心の信仰を問わない宗教で、もちろんいい面もあるけれど、特にイスラムが力を持ってしまった後では、似非(えせ)信者がいっぱい出てくるのを防げない構造になっていると言い出す。ハナシはそちらへと向かう。

似非信者とは、本当はイスラムの信仰を持っていないのだけれど、イスラムが支配的になっているのでそのフリをしている人間。フリをして礼拝とかしていれば、ムスリムは信仰を問わない。こういう偽信者を「ムナーフィク」と言う。クルアーンにも厳しく非難されてており、同時に、当然存在するものとしての「前提」といえる。

橋爪氏がこんなことを言う。「ムスリム全員が似非信者だという可能性さえある?」中田氏はこう答えている「そうですね。まさにほぼそう言っているのが、今のISですね。クルアーンには、窃盗をした人間は手首を切り落とせとあります。普通の人間は別に切り落とさなくてもいいんです。しかし、国政を預かっている人間は、それをやる義務がある。それをできないんじゃなくて、アサドなどのアラブの支配者たちはいくらでも国民を殺しているのに、やらない。しかもやっていないことを少しも恥じていない。今はやらなくていいというように言っている。反体制派は、そういう人間たちが外見的にも教義的にも反しているので、もう似非信者ではなくて背教者のレベルだと言って殺してしまおう、国政を預かっているわけではない普通の人たちは、ただの似非信者だから、一応生かしておいてやろう、そういう感じなのです。」

と、やおら話が過激になってくるのでした。 スンニ派とシーア派との対立の根本的な部分を鑑みるに、部外者の私でさえ、両者の和解はありえないような気がするのである。さらに、ここに似非信者・背教者という概念が前提として設定されているわけで…。

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