2013年8月10日土曜日

世界史補習 宗家・宗法の話

周の文王
猛暑が続いている。パソコンのある我が家の居間にはクーラーなどないので、昨日はエントリーをお休みした。さてさて、月曜日に第1回目の世界史補習があって、中国史の基礎となる地理を講義した。生徒の希望日にやっているので、昨日が第2回目であった。中国古代史は面白いのだが、じっくりやる時間はない。殷から周、春秋、戦国時代へと続く中で、最も重要な切り口は、周の宗族・宗法だと思う。

殷は歴史学上最古とされる王朝で、商業・商人の語源となったり、酒池肉林の語源となった紂王など面白い話が多い。だがやはり、周王朝こそが中国古代史の中心だ。周の政治体制は封建制である。この封建制は、ヨーロッパや日本の封建制とは根本的に違う。

古代という時代は、どこも神権政治である。ギリシアのポリスも、オリエントも、日本の古代でもそうだ。中国では、特に祖先崇拝が重視された。そこで、宗家・宗法である。血縁関係にある者を周は封じた。本家と分家関係である。祖先崇拝は本家が中心で、分家も祖先を祭ることは祭るが、本家こそがあくまで中心である。つまり、祖先崇拝と言う古代人にとって最大の価値を本家が握っているわけだ。このシステムのおかげで、様々な礼儀が生まれる。(春秋時代に生まれた儒教は、この周の時代を重視するのは当然である。)

とはいえ、やがて周(西周)は、力を失い春秋時代となる。春秋時代にも周王朝は続いていた。強くなった分家も本家をないがしろにするわけではなく、遊牧民の襲撃を受けた際、「尊皇攘夷」というスローガンで戦う。幕末の「尊皇攘夷」のルーツである。まあ、室町時代の足利幕府だと生徒に説明するとわかりやすい。しかし、分家がさらに強くなり、本家を無視するようになる。「下剋上」という言葉もここがルーツである。戦国時代である。春秋と戦国の相違はここにある。宗家・宗法が生き生きしていたのが周(西周)、形式的でも守られたのが春秋(東周)、守られなくなったのが戦国というわけだ。

儒教が周の時代に復古しようとしたのがよくわかるし、以後の中国文化圏(朝鮮や日本も含めて)でも、大きな影響が見られるわけだ。中国や朝鮮の一文字の名字群もその一つだし、日本でも本家・分家という概念は生き続けたわけだ。

補習でこんな話をした。先日「八重の桜展」を見にった時、松平容保の書簡があった。容保は養子だが、会津松平家の子孫保科正之は徳川家康の孫にあたる。まあ、徳川家の分家だ。その容保の書簡、名字には「源」とあったわけだ。生徒は、なるほどと納得していた。徳川も、武士の棟梁・清和源氏の分家なのだった。

こんな感じで世界史補習を進めている。あまり受験に関係ないのだが、案外こういう知識が生きてくるはずだ。

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