2021年5月14日金曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅲ

母校の中庭/昔はこんな彫像はなかったのだが…。
高校時代の話を続けたい。2年生になったころから、先日述べた野指連の方が忙しくなった。夏休みなど40日のうち30日は、信太山や伊賀の市立キャンプ場の手伝いや中学時代の恩師が関わっておられたボースカウトのキャンプの手伝いで、山の中にいた。ここで身に着けたのは、キャンプファイヤーの技術である。薪の組み方、針金を使って火のついた矢を落とす技術、すぐ火が付くようにする技術、花火を仕掛ける技術などのハード面と、エールマスター(司会)としての話術、参加者を楽しませる様々なゲームやダンス・歌などのソフト面である。

教師になってから、生徒によく「先生は落研出身ですか?」と聞かれたが、私のコミュニケーション技術の原点は、キャンプファイヤーにある。ひたすら、できるゲームやダンス・歌などを増やした。仲間内で、山賊の歌はK、猫じゃはOといった18番が決まっていった。私は、最後の方で盛り上げる、大体説明が必要な(つまり話術が長けていないとできない)ゲーム担当になった。そのときの参加者(小学生や中学生、子供会やボーイスカウト)に合わせて、対応を変えながら、まあキャンプファイヤー芸人のようなことをやっていたわけだ。(3年生になってから、バイト代付きで某TV局の子供キャンプに仲間と行ったこともある。)ボーイスカウトのキャンプでは、強い雨の中で、最後まで火を消さなかった。そんなファイヤーキーパーの技術も身に着けた。またキャンドル・サービスの運営もかなり回数をこなして、また違う技術を学んだ。

これらは、イベント運営の基礎的スキルとなった。カネはあまり関係なかったが、ヒトとモノの準備、配置、臨機応変な演出…。もちろん、事前に「今日はこんなファイヤーにしよう」というそれぞれのコンセプトを考えての行動である。後に、私は様々なカタチで、イベント運営に関わるのだが、この高校生時代の経験がベースにあると思う。こういう教科書に出てこないような学びを無意識にしていたのだった。

2年生の文化祭では、クラスで「劇団赤ちょうちん」という、スライド3本立て(イラストを使ったスライド劇で全員が声優として参加した。)の芝居小屋を自分たちの教室に作った。廊下側のデコレーションは、歌舞伎座のような、また映画館のような装飾。数多くのランプシェードの赤ちょうちん、入り口上部には同じくランプシェードの強大な赤ちょうちん。畳敷きで周囲は全てパネルで囲み、壁紙が貼ってあるという、かなり本格的な建て込みであった。デザイン科であるから、こういう装飾はお手のものである。(ちなみに教室を取り囲んだパネルは展覧会用に学校が所持しているものである。まあ、凄い学校である。)莫大な時間がかかったが、なんとか文化祭の開幕に間に合ったのを覚えている。今から思うと凄いイベント能力を備えたクラスだったと思う。その中心軸に私もいた。

ちなみに、3年の文化祭は、クラスで「だんじり」を作った。幅3m、長さ4m、高さ4mほどの巨大なものである。この時、私は文化祭実行委員長で、(いつか述べたように、生徒会副会長は俳優の時任三郎である。)前夜祭として、ファイヤーを焚き、だんじりを最後に登場させるという演出を時任と考えたのだった。ちなみに舞台をつくったのは建築科、照明は写真工芸科、ファイヤーはボーイスカウトの理事の先生がおられる金属工芸科という感じで、全校的なイベントを企画したわけだ。舞台で木材工芸科の時任とデザイン科の私が漫才をしながら盛り上げたのを思い出す。まさに青春である。(美術科だけ仲間はずれにした格好になったので、後でLHRの時に、自分たちの作ったUFOの映画を見にこいということになり、クラス全員で見に行き、なかなかのスグレモノで、美術科のUFOも登場させればよかったと後悔したという思い出もある。)そういう意味で母校は、なんやかんや言っても芸術系の大した学校だったわけだ。

ところで、母校のバウハウス様式の本館には中庭があって、時に信じられないようなコトが起こった。木の枝に、首吊り人形(非常にリアル)がつるされて大騒ぎになったり、芝生の上にナイフが突き刺さった死体(これも人形だが、非常にリアル)があったりと、こりゃあ、行き過ぎた自由、芸術至上主義が終わり、正常化され制服になるよなあという予感がそのころからあった。3年のある午後、私は授業をさぼって、中庭に寝ころんで、空を見ていた。この頃は哲学に凝っていたのである。隣のクラスの担任が通りかかり、「何しとるんや?」と聞かれたので、「哲学的思索です。」と空を見ながら答えたことがある。「そうか。頑張れ。」と言って去って行かれた。当時の母校を語るに適切な事例のように思う。(他の学校なら、生活指導に呼び出され指導を受けていただろう。怠学という業界用語があるのを、教師なってから知った。笑)

…なんとも破天荒な日々であった。教師になってから、いつか母校の教壇に立ちたいとずっと思い続けてきたが、こうして振り返ると、(正常化した)母校の教壇に立つ権利は私にはないような気もするのだった。

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