2016年3月5日土曜日

アフリカの風に吹かれてⅣ

ジブチの難民キャンプ http://www.mayq.net/kimura/daradara14.html
先日のエントリーの続きである。「アフリカの風に吹かれて~途上国支援の泣き笑いの日々」(藤沢伸子著/原書房:12年7月20日発行)、今日はジブチ編。実は、ワンフェスのAMDAブースでこの本を手にとった時、帯に書かれていた「ジブチ」という国名に大きく惹かれたのだ。2003年夏、JICAの教師視察派遣でケニアに向かう前、研修のため訪れた東京のJICAでジブチの研修員さんと会ったことがある。かなりレアな経験である。地理の教師故にジブチの位置や基本情報を知っていたことが幸いした。「紅海のそばだね。」と言うとめちゃくちゃ喜んでくれた。おそらくジブチという国を知っている日本人は、当時ほとんどいなかったのだろうと思う。最近は、ソマリアの海賊対策で、ジブチに海自が拠点を置いているので知っている人も増えたように思う。研修員の彼は、砂漠化を防ぐために日本に学びに来ていた。とにかく、ジブチについて書かれた日本語の本は決して多くない。実に貴重な記録だ。

ジブチはエチオピアの外港で、旧フランス領である。だからフランス語圏。ジブチの人々は、エチオピアやソマリアをルーツにしている。だから目鼻立ちがはっきりして整っている。(ケニアでもソマリ人はすぐ判る。)女性はブーブーという大きめのワンピースを身にまとい、美しいフランス語を話すという。一方、ソマリ語やアッファール語という現地語は、遊牧民の言語ゆえに荒々しい響きがあるらしい。この地には、ソマリア難民が9割、エチオピア難民が1割をしめる計3箇所の難民キャンプがある。著者はUNCHRのパートナーとしてAMDAがつくった難民キャンプの診療所のディレクターとして赴任した。

ネパールから来ている、ベテランのナビン医師の話。ブータン人難民キャンプにも数年間勤務していたという。、AMDAなどのNGOが彼のようなネパールやバングラディシュの医師を派遣する理由として、人件費が安いのもあるが、このような施設や機材の整っていない医療施設で聴診器と血圧計のみで診察できること最大の理由らしい。先進国の医師では難しいのだという。しかし途上国出身の医師でも、ここの環境に音を上げて辞める人が多いとのこと。そんな中、3年の任期を全うしたナビン医師は心身ともにタフな人物で、難民の患者の甘えた要求にも毅然と接し、一方で冷たくあしらうようなこともない。粘り強く説得し治療にあたった。彼にはずいぶん助けられたと著者。

ジブチの難民キャンプは、紛争が起こってから15年以上もたっているので、「生きるか死ぬか」といった悲壮感はない。ソマリ語で、Yesに当たるのは「ハー」と言うらしい。「薬品のリストちゃんと作れた?」「ハー」「在庫まで調べた?」「ハー」著者は、ジブチの暑さとともに、彼らのだるそうな返事に拍子抜けしたという。(笑)ジブチは、ザンビアほど難民が都市に出ていくことに目くじらをたてない。普段は、のんびりしているのだが、時として遊牧民の激しさが吹き出ることがある。ナビン医師は、その辺をよく心得ており、人としての尊厳を十分に守りつつ、しかも凛としてソマリア難民に接していたようだ。彼に診療所は何度も守られたという。

一方、エチオピア人はほとんどが政治亡命による難民だった。独学で4カ国語(エチオピア語=アムハラ語・ソマリ語・英語・フランス語)を話す、アレムという青年ボランティア・スタッフがいた。彼のおかげで通訳がスムーズになったし、懸命に診療所を支えてくれたのだそうだ。
彼は著者が赴任中に、カナダ移住の申請が認められる。宝くじをあてるようなもので、なかなか、こんないい話はないそうだ。彼が幼い頃、難民キャンプで英語を教えてくれた青年教師がいて、その教師もカナダの移住審査に合格しキャンプを去っていったのだという。いわば、師の教えをバトンとして受け継いだといってよい。この吉報(診療所での働きも大いに評価されたらしい。)は診療所のボランティア・スタッフに大きく波及し、エイズ予防キャンペーンの時など大いに活気づいたのだという。こういうバトンの継承は良い方向に難民キャンプを導いていく。

…ジブチを世界で最も暑い国と著者は書いている。読んでいて、難民キャンプでの様々な苦労が深くしのばれる内容となっている。ソマリランドの本などを読んでいても、あるいは京大の文化人類学の本を読んでいても、やはり遊牧民的なる文化との接触における軋轢は、我々日本人にはかなり消耗を伴うものなのだろう、と思う。

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