2023年1月13日金曜日

そして英国国教会

https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/boston/king-s-chapel-98614/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第13 回目。いよいよ国教会の話のまとめである。イングランド国教会は、イングランド(王国)と教会が合体した、カトリックとも他のプロテスタントとも違ったパターンの教会である。国教会は、ルター派などの公定教会のパターンを超え、教会それ自身が国家によって存続させられている。王権と宗教権が合致している、独自の特異な教会のあり方である。公職や教会の職につくには、国王をイングランド国教会の地上における唯一最高の首長として宣誓しなければならない。

ヴァージニアでは、前述のように国教会設立を法で定めたが、本国(宗教税や他の宗派の排斥)のようにはいかなかった。ニューイングランドでは、1686年にボストンのキングス・チャペル(画像参照)が、ニューポートにトリニティ教会が建てられた。牧師の給料は、本国政府の外郭団体(SPG)から受け取っていた。会衆派に対抗して、このように勧誘されていた。「儀式が立派で、(回心が必要な会衆派と違い)聖餐にすぐあずかれて、規律もゆるい。」国教会は、17世紀のニューイングランドでは、カトリックのような存在だったのだ。中部でも、法の保護をうけた特別な存在で、反感を持つ人も多かった。しかし1680年から1730年にかけて信徒数は増えていく。これは、SPGのおかげであるといってよい。1727年には23もの教会をニュージャージー、デラウェア、フィラデルフィアに建てている。

植民地のエリートには、国教会は魅力的だった。フィラデルフィアのクライスト・チャーチや、ニューヨークのトリニティ・チャーチは、地位をみせびらかすのにちょうど良く、クエーカーや長老派、オランダ改革はからの改宗者も増えた。しかし、牧師の不足、監督制なのに監督(主教)の不在といった問題を抱えていた。牧師の養成のため、ペンシルベニアの長老派は1726年からログ・カレッジ(丸太小屋大学)を運営、その発展として1746年にニュージャージーにカレッジ(後のプリンストン大学)を開校した。国教会も負けじと、1754年キングス・カレッジ(後のコロンビア大学)を開校した。

国教会は、各地で抑圧者の権化のようなイメージを持たれ、異議申し立てをする人々(様々な各宗派)が増える。これが、独立戦争時に関係してくる。1776年の兵員募集の際、ヴァージニアで最も国教会から圧政を受けていたバプティストは、(独立して、政府・国教会からの)「宗教的寛容」ではなく「宗教的自由」でなければだめだと愛国派として参戦した。

1784年から5年にかけて独立戦争後行われた公開の大討論会の結果、政府が宗教活動に資金を直接拠出することは禁止になった。1787年に憲法起草の会合があったときも、ヴァージニアは宗教の自由を一番熱心に主張した。他の州もそれに従った。1791年の合衆国憲法修第一条は、公定教会をなしにすると定めた。イングランド国教会は、アメリカではただの一宗派になったわけだ。しかも名称まで変わった。エピスコパル(ギリシア語でbishop:司教を意味する。)となり、この司教を民主的に選挙で選ぶようになった。

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