2023年1月9日月曜日

クエーカーとPA

フィラデルフィア市庁舎頂上のウィリアム・ペンhttps://keijoseph.amebaownd.com/posts/12064493/#&gid=1&pid=1
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第8回目は、 旧オランダ植民地だった中部で、NYとともに重要なペンシルベニア(PA:ラテン語でペンの森)植民地について、である。地名の由来となったウィリアム・ペンは、著名なクエーカーの説教者で、1682年にやってきた。ペン家はイングランドでの有力者で王家に大金を貸していた。それを新大陸の土地で返してもらうよう交渉したのである。ウィリアム・ペンはこの地を実験の場と捉え、「唯一英検の神が創造者で、世界を支配している」と信じる人々には、完全な宗教の自由を保証すると決めた。月名を数字で呼ぶ(異教の呼び方を避ける故)とか、牧師無しで結婚式をするとかのクエーカーのやり方を押し付けなかった。賭博、私通、姦淫、泥酔、冒涜はいけないが、他の植民地でもそれはいけないことだった。ただ、民兵(州兵)がいないこと、法廷で宣誓をしないことだけは、クエーカー的な非暴力主義と、王族に対しても尊称を付けずお辞儀をしない、礼拝での男女平等であるなどの平等主義を貫いた。

そもそもクエーカーは、1640年頃に始まった。神は聖書の時代と同様に、聖霊を通じて今も人間に語りかけ続けている。誰でもイエスにつながる「内なる光」をもっていて、それに気づけば救われる。牧師は存在しない。公的フレンドと呼ばれる神に恵まれた人が教育も訓練もなしに説教ができる。礼拝も儀式ばったところがない。彼らがアメリカの中西部植民地に始めて来たのは、1659年、ロードアイランド(RI)である。年1回ニューポートで大会を開いていた。ロードアイランドは彼らの平和主義を支持した。またこの地では宗教税の支払いは義務ではなかった。その後、ニュージャージー(NJ)、デラウエア(DE)にも拡がった。ウィリアム・ペンの移住以降、イングランド、スコットランドから何千人も移住してきた。

ところで、1650年代のマサチューセッツ植民地では、会衆派のピューリタンがクエーカーを弾圧した。留置し、鞭打ち、強制送還した。それでも入り込んだ4名を絞首刑にしている。しかし1700年頃までにクエーカーは、植民地で3番目に大きなプロテスタントのグループになった。その後は減少していくのだが…。

…ちなみに、私はクエーカー教徒を1人だけ知っている。M高校時代のALTである。今から思うともっといろいろなことを教えてもらうべきだった。歴史上の人物では、新渡戸稲造が、有名なクエーカー教徒であることを付記しておきたい。。

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