2023年1月9日月曜日

多様性と寛容 MDとNC/SC

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-emerald-isle-with-the-47th-maryland-irish-festival
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第9回目である。1634年、アイルランドの貴族議員・ボルチモア男爵カルバート家が国王から植民地設置の許可を得た。カルバート家はカトリックで、彼の私有領でカトリック教徒に植民を促したが、少なく、カトリック以外の植民(敵意を抱いている者も多かった)も歓迎せざるを得なかった。メリーだランド(MD)植民地である。(チャールズ1世の后の名をとっているのが、いかにもカトリック系である。)
1649年、「寛容法」が公布された。三位一体の教義を受け入れるすべての人々に「良心の自由」を認めたのである。カルバート家はカトリックの人々に信仰をひけらかすことのないよう言い含めた。しかし、カルヴァン派の人口が増え、(国教会中心の)ヴァージニアから追い出されたピューリタンがメリーランドに逃れてくると、本国の動乱(清教徒革命)を機会にカルバート家の支配に反抗し、1654年にカルバート家の統治権は失われた。反乱側は寛容法を撤廃し、イエズス会を追放した。1657年、カルバート家は統治権を回復、寛容法を復活(1688年の名誉革命まで有効だった)。しかし、クエーカーが告発されるなど、すべてのキリスト教徒がメリーランドに歓迎されたわけではなかった。

メリーランドは、イングランドの勢力圏でありながら、カトリックとプロテスタントがおおっぴらに共存する珍しい場所で、長老派、ルター派、国教会、再洗礼派、クエーカーの人々も住んでいた。名誉革命の結果、カルバート家の統治は終わり、1700年に国教会が設立された。当局は、国教会の信仰を押し付けようとしたが、2年後に法令が改まり、これまっでのような寛容が保証された。すべての宗教が平等ではないまでも信仰の自由はあった。南隣のヴァージニアに比べ多様性があったのである。

そのヴァージニアのさらに南のカロライナ(現NC/SC)植民地では、メリーランド以上の多様性が進んでいた。1669年から1698年にかけての4つの「カロライナ基本法」(ジョン・ロックが起草に関与した)では、最も幅広い宗教の寛容と自由を定めている。(最初の基本法)さらに国教会を設立しつつも、広範な宗教の自由を認めた。(1670年の2番めの基本法)。カロライナは、三位一体にかかわらず、神を信ずると告白するなら誰でも認めるとした。(ただし公職につくには条件が付く場合があった。)三位一体を抜くとユダヤ教徒も可となる。事実、独立戦争までは、チャールストンに最も強力なユダヤ人コミュニティが作られた。カロライナでは、また、1969年には、宗教の違いを理由に住民が他の住民を迫害することを禁じる法令が出た。

…ちなみに、カロライナという地名は、チャールズ1世(Carolus)のラテン語読みで、清教徒革命後王政復古したチャールズ2世が復位に貢献した8名に褒美として与えたもの。8人のほとんどは、この植民地にあまり興味を示さなかったが、ジョン・ロックが秘書官を務めていたシャフツベリ伯爵であった。

1685年、ナントの勅令が廃止されると、フランスのユグノーが大挙国外脱出した。カロライナ政府は、イングランドに来たユグノーを招いてシルク産業を興そうとした。500人のユグノーが来て、その後も移住が続いた。チャールストンに教会が出来た。1694年、クエーカーのジョン・アーチディールが知事になると、クエーカーの移住が増えた。彼は多様性を支持したが、ユグノーが下院に議席を持つことには反対した。当時イングランドとフランスは戦争状態にあったからである。

またニューイングランドからピューリタンも来た。チャールストンの教会では長老派と会衆派が合同で礼拝し、会衆派的な長老派教会となった。スコットランド、アイルランドからも改革派教会の人々が、17世紀の終わりには、穏健なバプティストがマサチューセッツ湾から、少し先の話になるが、17世紀後半にはスイスとドイツからルター派が大勢やってくる。(後にもっと多くなったアフリカの黒人のことは後述したい。)

カロライナの国教会は、1706年新法が出来て、住民からの税ではなく、輸出入の関税を財源に支援をすることになった。カロライナは、手探りで宗教的多元主義を試みたといえる。

…メリーランド州のボルチモアは、私がアメリカで宿泊した最初の地であるし、ノースカロライナ州も思い出の地である。(目的地・ニューベルンは、スイス系が多い町故、ルター派の教会がきっとあったはずだ。いや、長老派かな。)いずれにせよ、メリーランドもカロライナも、ロードアイランド、ペンシルベニアとともに初期から宗教的な多様性と寛容の地であったわけだ。

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