2023年1月12日木曜日

新大陸のカトリック

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york/st-patricks-cathedral/
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第12 回目。アメリカに入植したプロテスタントが強烈な敵愾心を持っていたカトリックの歴史である。

イングランドの北米植民地に責任を持ったのは、イングランドのイエズス会で、前述のメリーランドのカルバート公の招きに応じ、神父を1634年から1776年までの間に150人以上派遣した。財源はイエズス会が負担し、メリーランドとペンシルベニアのプランテーション収益もあてられた。イングランドのフランシスコ会も神父を送った。イエズス会は、政府の支援はなく、エリザベス1世時はカトリックは非合法だった。北米でカトリックが公然と礼拝を行えたのは、ペンシルベニアとデラウェア(DE)だけで、独立革命時にカトリックの人口はわずか1%であった。そのうち、20%はアフリカ系の奴隷で、1/3はペンシルベニア在住。後は少数でデラウェア、ニュージャージー、ニューヨーク、ヴァージニアにいた。ジョージア(GA)、サウスカロライナ(SC)、ヴァージニアのネイティブにかつてスペインが布教していたが、イングランドの進出で断念。フランスは、メイン(ME)、ヴァーモント(VT)などに進出していたが、ユトレヒト条約、パリ条約によって、カナダの支配権を譲り渡した。

メリーランドのカトリック共同体は、民族も階層も多様で、イングランドに加え、アイルランド、アフリカ、少数のオランダ、フランス、ドイツ(南部)の出身者で、農園主、小作人、労働者がいてタバコ栽培に従事しており、人口の約10%を占めていた。1690年、メリーランドは国王の直轄領となり、1702年には国教会が出来、1704年にはカトリック防止法が制定され、カトリックは家庭内でのみ認められた。ヴァージニアにも裕福なブレント家が入植し禁制にも関わらずカトリックとして過ごし、独立革命の頃は200人ほどになっていて神父も呼んでいた。

ニューヨークとやニュージャージーでもジェームズ2世が名誉革命で退位後はカトリック禁止法が施行された。17世紀の終わりに、ペンシルベニアとデラウェアに住み着き、イエズス会も拠点を持った。ドイツやアイルランドからの移民が増えると1734年には最初のカトリックの教会が建てられた。

7年戦争(1756~63年)で、イングランドは、カナダから1万人弱のフランス人を一部は帰国させ、残りの人々を9つの植民地に移住させたが、あまり歓迎されなかった。

…今回の画像は、NYのセント・パトリック教会。現在、アイリッシュの守護聖人の命日をアメリカ各地で祝うことになっているが、独立前のカトリックはこんな状況であったわけである。

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